46 第3章 メランコリカー
第 1 節 悲しみなる精神と感情
「宗教的解決」を拒絶し「現世的解決」を課す「強制の絆」が与える不意打ちの出来事、それによって、
被造物、とりわけ君主像を担う者は、「最後の由々しさ」を失った死後の生に追い遣られる。ベンヤミンは かくして「君主はメランコリー的なものの範例だ129」と第1部第3章「君主の意気消沈」と題された節の 冒頭付近で書かれているように、君主‐殉教者像にメランコリカーの相貌をも重ねていく。
そこで、メランコリーにはまる君主の姿が「君主でさえも被造物の壊れやすさ Gebrechlichkeit を被ら されていること130」を示すとされることからもわかるとおり、メランコリーとは『根源』において、死後 の生である君主‐殉教者が運命のなかで「裂けちぎれて、ひるがえる旗のようにもがく」「不均衡な」鬩ぎ あいを生きることから生じる。
そして「この存在Daseinは半端で、真正ならざる諸行為のある残骸の領域へ放り込まれていると気づい ている131」、とベンヤミンは続ける。つまり先述のように、意味‐原因のない剥き出しの生を被造物である 君主は生きるのだ。けれども、ベンヤミンはさらにこう告げていた、「これに対し生そのものが刃向った。
深々と生は覚えるのだ、この信仰によって剥き出しの無価値にされるためbloß entwertet zu werden、生 はあるのではない、と132」。
まず断わっておきたいが、このメランコリーのなかでの無価値化に抗するものを生と呼ぶのは誤解を招 きやすい133。むしろ、君主‐メランコリカーが歴史を、その大義を宿し‐身篭ったこと、その「信仰」と ともに自然史を生きるとき、その自然のなかに、しかし自然の外部として身篭られるものが、ここでいわ れる生の謂いなのだ134。
ベンヤミン自身、とりわけ関心を寄せていたのは、この自然のなかの自然の外部、些か安易ながら身体 に対して精神と呼ばれるような、何かだったことは明らかだ。例えば、被造物のなかでもとりわけ君主‐
殉教者を重視したことと不可分離な次の言葉に見られるように。
精神Geist――この世紀のテーゼだといわれる――は力Machtにおいて自己を証明する、つまり、精神
とは独裁を遂行する能力Vermögenなのだ。この能力は外側に向かっての最も仮借ない行動とおなじく 内側に向かっては厳密な自制を必要とする。その能力の実践は世界のなりゆきについてある冷徹さを持
129 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 321.
130 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 321.
131 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 318.
132 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 318.
133 ベンヤミンがいわゆる生命主義に頑なに批判的なのは、例えば「暴力批判論」を読めばわかる。そこでのクルト・
ヒラー批判を参照。
134 ここで記された「宿る‐身篭る」はドイツ語におけるempfängenを想定して書かれている。本稿では詳述できな いが、この名詞形Empfängnisはベンヤミンが「言語一般及び人間の言語について」で用いており、同論文で翻訳の概 念は中動相Medialeのようなもの、「受胎‐受容性Empfängnisにして同時に自発性」(Walter Benjamin, GSⅡ-1, S. 150)
であるものと論じられている。その受胎自体が既に中動相的であることを示すため、このように表記する。確かに「人 間の言語」でのEmpfängnisが即ここで「宿る‐身篭る」と記すことと同義ではないが、まったく無関係でもない。こ の問題については触れる余裕がないものの、『根源』と「人間の言語」の関係については本論第6章で簡潔に論述する。
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ちあわせており、その冷やかさの強さにはただ権力意志の熱をおびた欲望だけが匹敵する135。
「聖者及び陰謀家としての廷臣」という節のなかで、このようにベンヤミンは書いている。ここでとりわ け確認しておきたいのは、精神が「力」であり「能力」であることだ。明記されてはいないが、ここでの
「能力」が廷臣ではなく君主‐殉教者のものであることは疑いない。ただし、先述した、君主‐殉教者に 捉えられた「支配者権力と支配者能力のあいだの対立関係」だけには還元できない「能力」であり、その ことはここでは、この「能力の実践」が「冷徹」だという指摘にほのめかされている。
とまれ、身体に対する精神といっても、哀悼劇と同時代である17世紀の思想家で、『根源』でも触れら れているルネ・デカルトの延長と思惟に還元できるものではない。デカルトがコギト・エルゴ・スムに至 って、それを基盤に明晰判明な知の体系を堅実に演繹していったのとは異なり、つまりその確実なコギト の発見が懐疑を終止させたのとは違って、哀悼遊戯の君主‐殉教者はメランコリカーの相貌に認められる とおり、疑うことから逃れることはない。そうではなく、疑いながら、批判しつつ自然と接することによ り、その自然に、なお哀悼遊戯をもたらすこととなるのだ。「強制の絆」において、まったく完全ではない、
壊れやすさを最も体現するある被造物と繋がっている外部が、あるいは歴史が、正当性と普遍性を獲得す るに堪えるべくこの被造物に使命を課している。そして現世を疑う君主‐殉教者、そしてメランコリカー の精神はその使命に応える限りで、外部を担いうる。その外部は疑いの対象であり、極めて脆いものであ りながらも確実に存在している、そのような外部である。被造物が剥き出しになって初めて、精神は自然 史にひそむ外部のひとつ、つまりそれと知らず、またそれと知られず運命的なものとなって生じる。
ベンヤミンはその精神の自然に挑む志操Gesinnungを悲しみTrauerと呼ぶ。
第1部第3章の冒頭の節「義認論、アパテイア、メランコリー」で、その聖書とともにある信仰故にい かなる善行の観念――カトリックにも、カルヴァン派にも種類は異なれ、認められる――も排撃したマル ティン・ルターが晩年にはまり込んだ憂鬱を、ベンヤミンはハムレットのそれと繋げている。さらに、し かしその憂鬱のなかで、「これに対し生そのものが刃向った」ことを強調したのに続けて、こう書いている。
悲しみとは志操であり、その志操においては感情が空カラにされた世界を仮面めいた仕方で新たに生かすの
だneubelebt、――その光景に謎めいた満足を覚えるために136。
「空にされた世界」とは、原因‐意味を欠いた、自発的かつ豊饒な意味を欠いた自然を謂い、これまでの 論述を踏まえれば、さらには内在性の世界であること、したがってそのどこにもフロンティアが、桃源郷 がないことをも読み込めるかもしれない。むろん、「新たに生かす」とは、精神が自然に挑み、自然‐史に おいて遊戯することを指す。
悲しみなる志操において、それを為すものをベンヤミンは感情Gefühlと呼んでいる。だが、それがベン ヤミンによって「感情と呼ばれるのはただ、それが最も高次の領域ではないがため137」にすぎない。それ
135 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 276.
136 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 318.
137 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 318.
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がいわゆる心理と呼ばれるものが想定する感情とは異なるものを指すことは確認しておかなければならな い。翻って考えると、これは先述の感情移入を拒むニュアンスを知らない「感情過多」と呼ばれていたも のと別ではない。
したがってここで感情と呼ばれているのは作者や役者が表現する感情でも観客の感情、または内面でも なく、これまでに衝動と呼んできたものに該当する。実際、ベンヤミンは哀悼遊戯の被造物たちの「動因 となる態度138」のことだ、と感情について説明を加えている。そして、「あらゆる感情はとあるアプリオリ な対象に充てられている139」。自然において諸事物及び諸事象に自発的及び自足的な意味はないが、感情も またひとりの被造物からおのずと表出してくるものではない。まず、それは「己自身に固有な」関係性の なかで、すなわち宮廷‐身体‐機械において生じる。そして、先にも触れたとおり、なにかしらの小道具 類や夢や幽霊に遭遇し、それらに充てられることで、君主を運命的なものとの接触へといっそう駆り立て る衝動が、感情なのだ。それは主体の健やかな感性ではなく、とある対象、より厳密には運命的なものと の関係なしに、被造物においてこの感情‐衝動は現勢化しえない。
しかし、さらに重要なことだが、悲しみはそれら諸々の衝動のうちのひとつではない。というのも、い ましがたの悲しみについての引用のすぐ後に、ベンヤミンはこう書いているのだ。
悲しみの叙述が何に専念するかといえば、むしろ経験的主観から解き放たれかつ密接にひとつの満ちた りた対象と結びつくある〈感じることFühlen〉なのだ140。
つまり、悲しみとは感情‐衝動のうちのひとつではありながら、例外的に感情――〈感じること〉――
を「アプリオリな対象」とし、志向する衝動であり動因なのだ。故にそれは諸感情と一線を画し、かつそ こに組み込まれた精神の別の名にほかならない。「諸感情は、いかに曖昧にそれが自己体験には現象するに せよ、動因となる態度として世界のある対象的な構造に応答する141」とベンヤミンは書いている。つまり、
精神は運命的なものに惹起された衝動‐感情に応答する「動因となる態度」なのだ。これを諸々の感情と 差異化するために、ベンヤミンがゲオルク・フィリップ・ハルスデルファーから引用した言葉で言い換え るなら「悲しみなる精神142」となるだろう。
メランコリカーの悲しみを伴った沈思は、衝動‐感情が経過していったそこで、「対象への通路Strasse 上で――否、対象そのものにおける軌道Bahn上で143」繰り広げられる。したがって、それは対象との距 離を漸近的に詰めること、徐々に真理に迫っていくスリルとはまったく無縁だ。いうなれば、遠近法投影 図の消失点に向かって、そこを超えればさらにその裏側に隠された真理にまで到達できるだろう一点を目 指して、奥へと深みを目指す探求ではない。そうではなく、「ひとつのアプリオリな対象」、例えばなんら かの小道具類――『嫉妬』ならば短剣や絵画――と呼応しあい、この小道具と邂逅することで、衝動‐感
138 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 318.
139 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 318.
140 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 318.
141 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 318.
142 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 322.
143 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 318.