• 検索結果がありません。

近代化と日本の軍事浮橋史―戦史における渡河技術の戦略・戦術―

ドキュメント内 新論文:第5章 日本近代浮橋 (ページ 67-75)

メソポタミア・中国・インダスの古代文明に端を発し、ギリシャ・ローマ時代にほぼ完成された舟橋技術発展 の歴史のほとんどは、戦闘・戦争技術の発達・発展に密接に関連している。軍用舟橋の技術史はとりもなおさず、

産業技術史とともに戦史・戦略史・戦術史の主軸を構成しているが、わが国の技術史・軍事史の分野ではこれら に関する史料・資料は体系的に編纂されることはなく、技術のみならず史的解析・比較史的研究もまた等閑にさ れ、行れれることはなかった。軍用舟橋架橋を専門とする近代軍隊組織は、ただし、旧日本陸軍の伏見工兵隊の 教練内容に関する論文1があるが、この論文は伏見に衛戍していた地域的な工兵隊の歴史、特に工兵一般基礎訓 練の歴史を対象としており、工兵技術・架橋技術に関するものではない。明治時代のいわゆる富国強兵策が、政 府の最優先課題であり先ず殖産興業をおこない、列強の軍事力に対応できる急速な近代軍の創設・増強を図って きた。河川港湾の整備・交通網の充実特に主要道路および鉄道建設の建設は、焦眉の急であり政府財政は逼迫し ていた。特に地方主要道路の架橋は、民営有料橋に其の大部分をゆだね、政府は予算措置を取らなかった。この ため、木橋よりは洪水時の破損被害が少なくかつ建設費の安価な、言い換えれば費用対効率の高い有料舟橋が各 所で建設された。

日本陸軍の近代化は先ず近衛連隊から着手され、訓練を受け熟練した工兵が各地の鎮台を指導するシステムが 採用され、やがて各師団の工兵隊・舟兵隊の装備・技術も充実されていった。近代における旧帝国軍の工兵隊は、

明治7年(1874)近衛歩兵隊に鍬兵2が配属され、鎮台歩兵隊への配属は明治10年(1877)2月に制定された『歩兵 隊鍬兵概則』により行われた。初期鍬兵の舟橋架橋の技術資料は残されていないが、明治 19 年(1886)に、新発 田分営(東京鎮台第1分営:後の新発田連隊)の鍬兵が、演習のため阿賀野川の津川の地点に舟橋を架けた記録が、

新潟県東蒲原郡阿賀町史3などの史料に収録されている。

※日本陸軍は、明治37年(1904)の日露戦争の緒戦において、朝鮮半島に上陸した第一軍(3個師団:約4 万2千人)は4月末、ロシア軍(歩兵約1万2千人、野砲40門)防御線の鴨緑江(川幅約600m)に舟橋を2 本架け、敵前渡河を行い九蓮城および安東県を占領している。近衛師団工兵連隊の工兵第2及び第12大隊が、

砲弾下で架橋作業を続行する写真が記録29されている。※

旧軍の超機密主義により殆どの軍用舟橋技術資料は、外部に公開されることはなくさらに1945年8月の敗戦 により、関連書類の殆どは焼却処分された。しかし、軍用舟橋は戦時中のアメリカ陸軍省が、捕獲した日本陸軍 兵器の分類記録の『日本陸軍便覧:米陸軍省テクニカル・マニュアル 1944』4の「Ⅴ. 工兵の装備品」の項に も浮橋諸元がわずかではあるが残されている。従軍新聞記者らが記録した中国戦線における多数の軍用舟橋も、

検閲で公開禁止とされ、紙上に公開されることはなかった。中国戦線における舟橋鉄道橋は、昭和13年(1938)、

安徽省蕪湖ウ ー フ ー市の長江に陸軍工兵隊が架舟橋のみに残され、実存証拠は朝日新聞が所有する掲載不許可の写真5の みである。毎日新聞社が刊行した戦時中の掲載不許可写真集6には、後述する『架橋教範』などの浮橋用鉄舟の 構造が明確に判断され、さらには軽戦車の走行する舟橋やカポック製の浮体と規格型のプレファブ軽量橋版とを 用いた試作携帯浮橋の写真は、作戦の従軍記者の撮影記録のみがそのわが国資料での存在証明となっている。こ の浮橋と作戦使用中の写真が米軍に捕獲され、この浮体(フローと)1個は、兵1名で運搬可能とされ、また川幅 30m以上でも架橋可能と記載されている。いくら浮橋の報道規制をおこなっても、現物の浮橋と記録写真が捕獲 されては、厳重な機密保持の価値はなにもない。

大正7年(1918)に日本帝国陸軍省が改定編集した『架橋教範』7には、舟橋脚舟の折込図12面が記載されてい るが、その原典は明治34年(1901)発行の『架橋教範草案 縦列材料之部』8に遡及できる。架橋教範は、昭和 4 年(1929)に改定されているが、軽戦車重量の増加に対する橋版補強の差以外には基本的には旧版と同じである。

なお、縦列材料は、旧陸軍用語では架橋材料の陸軍翻訳用語であり、橋は舟橋と木架構橋の2種類を包含してい た。ナチスドイツの軍用舟橋の資料は比較的体系的に保存され、その性能・諸元一覧表からドイツの軍用舟橋技 術は、連合軍に比較して劣ってはいなかった。アメリカ南北戦争記録の技術資料に比べても、わが国における軍 事舟橋の基本技術は、あまりにも貧困である。

日本帝国陸軍は、戦争における陸軍の侵攻や兵站(logistics)確保のためには、戦場に舟橋工兵隊による舟橋架橋 は、必須であると当然に認識し当初から海外の技術の導入を行っていた。日露戦争のときの日本陸軍は、世界先

端クラスの舟橋工兵隊を所有し、渡河作戦および兵站確保に成功していた。しかし、昭和14年(1939)5月11日 に、満州国と外蒙古国の国境地帯ホロンバイル草原のハルハ川地域で、外蒙古軍と関東軍の間で勃発した国境侵 犯紛争は、日本陸軍(関東軍)とソ連軍との本格的な戦闘を引き起こし、8月20日にはジューコフ中将率いる圧倒 的なソ連軍機甲軍団・砲兵隊により、ハルハ川を越境した日本軍(関東軍)第23師団(小松原師団)は壊滅した。い わゆるノモンハン事件9であるが、日本軍が外蒙古へ侵攻のためにハルハ川に架けた舟橋は、機能的には江戸時 代はもとより、騎馬武者たちが駆け抜けた古代・中世の舟橋よりも劣っていた。その後、両国はおのおのの国際 情勢を抱えて、戦闘の拡大を望まない両国政府事情によりモスクワで、同年9月15日にソ連の主張する国境を 認める停戦協定が成立した。この基本的な日本帝国軍の失敗はその後なんら生かされず、過度な精神主義と独善 的な軍首脳部の方針は、第2次世界大戦の敗戦を招いた。

プロシアの軍事学者クラウゼウィッツ10はかれの著書で、敵の意図ではなく敵の持つ能力に対応することが、

戦争に勝つ要諦であると述べている。この信奉者であったスターリンに対し、関東軍・日本軍は対応すべき手段 を自ら放棄していた、というより軍全体の危機管理がなんら機能していなかった。第2次世界大戦後の軍事・歴 史学者たちによる著作『失敗の本質』11には、敗報を伝えられた大本営作戦課の井本参謀が書いたメモには、第 23師団が予定された戦果を挙げられない理由として、次の事項を挙げていたと記されている。

「1. 敵を軽蔑しすぎている、2.砲兵力不足、3.架橋能力不足、4.後方補給能力不足、5.通信能力不足、6.

第23師団の任務過剰、7.「向フ意気」の不足」である。7番目の項目をのぞいて、これ等のすべてが近代軍とし ての日本帝国陸軍の欠陥であった。3 番目の「架橋能力の不足」にいたっては、これは不足ではなくハルハ川渡 河作戦の日本軍には、この項目は実質的に欠如していた。

このハルハ川に架けられた舟橋は、残されている資料からは、ハルハ川底質未調査、鎦りゅう12の保錨力・把駐力の 欠如と、おそらく舟艇(橋脚舟)の連結に用いた木製導板構造の、剛性・強度不足による橋体・橋床版のねじれ座 屈により、耐荷力と安定性を失い軍橋としての機能を全く失っていた。この舟橋は実戦用軍橋ではなく、華僑部 材も不足し、老朽化していた練習用の舟橋であった。『日本工兵写真集』既出)には、くの字に曲がり工兵が必死に 安定に努力している舟橋と、その上を徐行するトラックを写した写真が掲載されている。おそらく、このトラッ ク通過後は人だけが通行可能であったと考えられる。軽戦車の2,3両同時通行が可能であった、と判断される日 光社参房川舟橋とは比較にならず、騎馬武者が駆け抜けて無作法と物議をかもしていた、平安時代の御幸の浮橋 よりはるかに性能の劣る舟橋であったことになる。第3章日本近世の舟橋 ―江戸幕府御用舟橋―および第2章 日本の舟橋・浮橋 第3節.平安時代の舟橋浮橋を参照。

ノモンハン戦争(事件)のハルハ川渡河作戦に際し小松原師団は、歩兵部隊・自動車部隊・戦車隊・砲兵隊・輸 送隊を渡す目的で浮橋を架けている。しかし、師団の斉藤中佐が率いる工兵隊は、正式の舟橋を所有せず整備不 良の訓練用舟橋1式のみを装備し、予備の資機材も全く所有していなかった。日露戦争に際し、鴨緑江に舟橋を 架け重火器とともに進軍していった、明治帝国陸軍との基本的な質の差がここに認められる。事件として卑小化・

矮小化されているノモンハン戦争には、日本帝国陸軍の正確な戦史はなんら残されていない。幾多の戦記資料を 纏めてみると、この渡河作戦の舟橋は長さ60m、幅員2.5mで鉄舟(脚柱舟)を浮体に用い、舟間に木製の桁およ び板材で路面を構成し、鎦としょうする錨を用いて鉄舟を係留した、機能・構造的にはローマ軍団の舟橋と同様 なあるいはこれらより機能・品質の劣るものを架橋していた。ハルハ川の水深は予定していた60cmよりは深く、

1m 程度にまで増水していたといわれ、増水による水流は激しく架橋資機材の不足を含め、すべてが想定外のこ とであった。ハルハ川の底質の調査も行われず、不十分で不適切な係留装置を用いているのは、想定外というう より、想定すら考慮のほかであった素人参謀団の企画と指導で行われた戦争であった。軍の中枢である参謀たち は、兵站や舟橋に関する知識に全くかけていた失格者であったと判断する。正確なノモンハン戦史が存在してい ないので、以下に記述するハルハ川舟橋の文責はすべて筆者に存在する。

渡河作戦の時には、ハルハ川の底質が砂泥でのために錨が効かず、架橋作業の段階から舟橋は既に湾曲してね じれ・傾斜が甚だしく、馬もこの橋を渡るのを拒否した。空馬を慎重に誘導しても1度に1頭だけしか渡せなか った。舟橋のねじれが進行すると、トラックは荷物を下ろしさらにガソリンも全部抜いて、ようやく人力で押し て渡すことが出来たが、それも車両部隊3大隊のうち1大隊のトラックのみであったとされる。戦車や馬牽引式

ドキュメント内 新論文:第5章 日本近代浮橋 (ページ 67-75)

関連したドキュメント