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近代及び現代におけるアイヌ民族の位置づけと先住民族の権利

第1章 近代国家成立過程におけるアイヌ民族の位置づけ 教育と「展示」を中心に

本章では日本が近代国家として成立する際にアイヌ民族の自立が歴史的に妨げられて きた過程を教育と展示の2つの視点から考察していく。アイヌ民族に対する位置づけを考 えるときにこの2つの視点は重要な意味を持つと考えられる。それは近代国家成立にあた って領土を確定させ労働力を含む国力を高めることを目的に大日本帝国の臣民としてアイ ヌ民族を組み入れる必要があったためである。この時期にアイヌ民族へ対する植民地主義 的な視線による同化と排除が成立したのであった。

教育と展示が重要な意味を持つことは 1918 年の「開道五十周年記念北海道博覧会」に おける「拓殖教育衛生館」1の展示にみられる。このうちの「教育館」では土人学校の資料 も展示されたが、山田伸一はこれに対して「アイヌの『同化』の達成を、特に文明化の達 成という観点から自賛する文章には、(中略)『蒙昧な者』に対して施してきた学校教育 を、自らが与えた恩恵として満足気に語る響きがある」と述べ、「一般化するのは危険で あるが」としながらも「和人来館者たちが抱いたであろう感想の一類型と見ておくことは できよう」2としている。つまり展示を通じて「正しい」とされた成果を普及させ、アイヌ 民族に対する同化を容認する社会の一助となったということができる。

1869年に開拓使が置かれる以前、松前藩が領有していた時代にはアイヌ民族に対しての 特別な同化教育はなかったようである。もちろんこれは民族の違いを尊重したものではな く、「蝦夷統治の上で支配者たる内地人と被支配者たるアイヌの上に確然たる差別をつけ て置く必要があった」3ためにアイヌ民族への教育がそもそも考えられていなかったという ことである。しかしこれは松前藩の統治から幕府直轄になったことで変化した。その理由 は「競争相手から蝦夷地を守る必要上、ことに国境線が明確でないときは住民主義によっ てこれを決定せざるを得ないことが認識されたため、蝦夷を急激に内地人化する必要を生 じ」4たことによる。この「競争相手」とは主に帝政ロシアであり、特に千島アイヌに対し ては「松前氏の政策とは反對にして、アイヌの福利を謀り、智識を向上せしめ、加ふるに 宗教を以て感化」「寛延二年には學校を建てゝアイヌを教育」5したという。

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このような状況から北海道を日本が領有できなくなるという危機感がつのり、北海道全 域には日本語を話し日本の文化を持つ住民が存在しているという事実が必要となった。そ のため開拓使以前のように「内地人とアイヌの上に確然たる差別をつけて置く」という状 況を放置しておくことができなくなったのであった。これを受けて日本、特に開拓使はア イヌ民族を「土人」ないしは元々「土人」であったが日本人へ統合されたことを示すため

「旧土人」と差別的な呼称をし、日本人へと同化させるために東京の開拓使仮学校附属北 海道土人教育所6への強制連行、対雁学校への入学、旧土人児童教育規程の制定などを行っ た。

またこの時期、近代化した日本の国力を内外に周知させるために日本は内国勧業博覧会 や海外の万国博覧会へ積極的に参加していたが、そこでは主に人類学者の協力のもとアイ ヌ民族の「展示」が行われた。民族を物質的資料だけではなく、その民族自身を含めてあ たかも動物園のように「展示」、すなわち植民地の多数の現地人博覧会場に連行し、博覧 会の開催中、柵で囲われた模造の植民地集落の中で数ヶ月にわたって「生活」させて「展 示」していくという、19世紀末に社会進化論と人種差別主義を直截に表明した展示ジャン ルが現れたのは1889年のパリ万国博覧会(Exposition Universelle de Paris 1889)からであっ た7。ここでは「ヌビア人」をはじめとして多くの民族が「展示」された8が、日本におけ るその嚆矢は大阪で開催された第5回内国勧業博覧会であり、海外における初めてのアイ ヌ民族の「展示」は1904年のルイジアナ割譲記念万国博覧会(Louisiana Purchase Exposition、

以下「セントルイス万国博覧会」)である。これらによりアイヌ民族に対する当時の行政 側の和人の視線や認識も浮き彫りになったといえる。

このようにアイヌ民族に対しては学校教育・社会教育の双方において、一見「平等」を 志向しながらも、本質的には異質な存在として扱ってきたのであった。すなわち制度上は

「日本国民」であっても、実際にはアイヌ民族であることからそこで本章では近代国家成 立の過程においてアイヌ民族の自立を妨げ、和人への同化と和人からの排除を行った教育 と、その「成果」を社会に向けて発信していった展示について述べる。まず教育の面では 開拓使仮学校附属北海道土人教育所及び対雁学校、そして旧土人児童教育規程の成立過程 から、次に展示の面では第5回内国勧業博覧会における「学術人類館」、セントルイス万 国博覧会における人類学館に関する議論から考察を加えていく。

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第1節 近代国家成立過程におけるアイヌ民族への教育にみる同化

第1項 開拓使仮学校へのアイヌ民族の強制連行

北海道領有に関する「競争相手」としては帝政ロシアが存在したが、それによる慰撫政 策に対抗するために幕府は特に択捉島において漁場の整備や教化に力を入れ、「改俗牌」

と呼ばれる「大日本ヱトロフ住人」「日本名」「旧名(アイヌ名)」を記した真鍮・銅・

木製の札を各人の首にかけさせた9。幕府直轄時代の教育は「蝦夷を早く内地人化そうとす る当局者の意向であり、したがって弊風の打破、風俗の改変、植民者道徳の教諭のみ急で」

あったといい、「これらの傾向は勿論開拓使によっても受け継がれた」10のであった。

「弊風の打破、風俗の改変」については1871年10月8日にアイヌ民族に対して、

「一 開墾致シ候モノヘハ居家農具等被下候ニ付是迄ノ如ク死亡ノ者有之候共居家ヲ 自燒シ他ニ轉住等ノ儀堅ク可相禁事

一 自今出生ノ女子入墨等堅ク可禁事

一 自今男子ハ耳環ヲ着シ候儀堅ク相禁シ女子ハ暫ク御用捨相成候事 一 言語ハ勿論文字之儀モ相學ヒ候様可心懸事」11

との「告諭」が行われた。最初のものは家送り(カソマンテ)12を禁じたもの、2番目は女 性の入れ墨(シヌイェ)を禁じたもの、3 番目は男性の耳飾り(ニンカリ)の着用を禁じ たもの、最後は日本語の習得を求めたものである。1 番目は一面には火事の防止というこ ともあったかもしれないが、死者が出るたびに家を焼き転居してしまっては管理上不都合 であるため13といえる。2・3 番目は和人の習慣から考えれば「弊風」であり、4 番目は日 本人であれば当然日本語を話すべきであること、そしてやはり管理の都合上通訳を使わず にアイヌ民族を統治することが必要であったことがその理由である14。他方、1872年に札 幌開拓使庁開墾掛が札幌近辺の村落に「筆算指南所」を設置しようとした理由は和人の子 供がアイヌ民族の習俗に影響されていく事への危惧があったことが一因としてあり15、「弊 風」を放置しておくことは和人の側にも悪影響があると考えられていたといえるだろう。

このような「日本人」へアイヌ民族を統合していく流れの中で最初の学校における教育 を行ったのは東京においてであった。開拓使は「元來北海道土人ハ容貌言語全ク殊ニシテ

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風俗陋醜ヲ免レス現今開拓盛業ノ折抦從前之風習ヲ脱シ内地ト共ニ開化ノ域ニ進ミ彼我ノ 差別無之様仕度就テハ内地人民ヲ映シ其風来ヲ教シムル而已ニテハ自然遷善ノ功速ニ行届 兼所謂荘嶽之間ニ置ハ易ク且速ナルニハ若カスト存候」16として、1872年に東京府芝(現・

東京都港区)増上寺の開拓使仮学校附属北海道土人教育所、東京府下渋谷村(現・東京都 渋谷区)の開拓使第三官園にアイヌ民族を強制的に入学・入園させた17。ここでは「大凡 百人程出京爲致度目的ヲ以テ」「少壯ハ假學校ニテ讀書習字等修行爲致其他澁谷御用地ニ テ農業樹藝牧畜等修行申付置候」18とあるように、100 名程度を想定した上で、13 歳から 38歳の36名19のアイヌを前述の目的のために東京に連行し、若者は北海道土人教育所で読 書や習字をさせ、それ以外のものは開拓使第三官園にて農業や牧畜などの実習を受けさせ た。

前述の通り 1871 年においてもアイヌの文化を禁止し和人のへの同化を求める「告諭」

がなされたが、この東京への連行にあたっても、「留學中のアイヌは皆和人の風俗に倣は しめ、男は髭を剃り髪を切り、女は入墨耳環を廢し髪を結ひ、特に男には洋服を着け靴を 穿ち帽を被らせたり」20とあり、明治維新後の和人の風習の強制が見られる。また、使用 された教科書は『史略』『泰西勧善訓蒙』『啓蒙手習之文』『郡名産物日本地理往来』『単 語編』であった21。これら教科書の内容は初歩的なものであり、強制的に入学させられた アイヌの年齢が13~38歳であったことを考えると、開拓使はアイヌ民族に対して年齢にか かわらず民族全体として初等教育段階であるという認識であったと考えられる。

このような強制的な就学は当然成功せず、気候の変化や食生活の違いなどこれまでと全 く異なった生活環境に置かれることで健康を害する者や病死する者、あるいは行方不明と なる者があり、また帰郷・帰省したい旨を願い出る者が多くなった22。これを受け連行さ れたアイヌに対しその希望を調査したところ、「全く帰郷したいもの二十名、帰省したい もの五名を数え、帰郷を望まず就学を続ける希望を持つ者は僅かに五、六名」23であった という。さらにこの「帰省したいもの」「就学を続ける希望を持つ者」に関しても「帰省 したものは再び上京せず、残ったものも明治八年八月仮学校を札幌に移すとともに帰郷し てしまった」24のであった。ただし、これら出身地へ戻ることを希望したアイヌに対して

「教育を受けたるアイヌ等は、一度び鄕里に歸りて愚昧のアイヌ等に交らば、忽ち元の如 く無教育の状態に復歸するは瞭然」25という考えがあった。そのため、「婦女子八名ヲ除 キ男子十七名ノ内三等ノ区別有之上等六名ノ者ハ兼而申進置候似合ノ場所ヘ御使役相成右 余間ヲ以漸次修行御申付中下二等ノ者ハ迚モ成業ノ見込無之者ノ由ニ付是等ハ農業現術修

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