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近世宿場町 としての久世

ドキュメント内 LH 地 域 研 究 帝1 2 集 (ページ 68-109)

1.代 官 所 支配 と久 世町 ィ .江戸#府の直轄地 と代官

江戸蕃府の強大 を権力を形づ くっていた もの吐,諸大名を しの ぐ広大 を領地 と豊かな財政 で参った。#府 の直轄地は天領ともvlい .関が原の戦いの前は百万石 ぐらいで あったが,家 康の晩年 には二 百万石 ぐらいに増加 したOそののち諸大名の改易 .滅 封を しきbKお こない,

五代将軍綱 吉 の時代 には四百万石に遷 したO との頃 になると直轄地に準 する旗本知 行所が三 百石 も奉ったか ら全国の領土三千万石 のほほ四分の‑が幕府 の直接支配下 にかかれ ることに な ったL,

直轄地四千万石は関東地方で百万石,奥羽 .越 後 .佐渡で九+万石,駿河 .遠江 .三河 . 甲斐 .信礎 .伊豆の六か国で六十万石 .近畿地方で六 十万石,九州で二十万石, 中国地方で 百八 十万石に分

れ,そ のほか中部 .北趣 .四国 を どに散在 していた。

江戸時代に おけ る直轄地の雌民はみずか ら 「御天 領の百姓」 とい って,なかなか気位が 高 かった。 この直轄地 の支配は都市は町奉行 .曲射 や 山村は郡代や代官がお こなってVlた∪ も っとも郡代 とか代官 とい うのは蕃府 だけでは な (,諸帯にかいて も郡奉行や 代官 とい う名称 でかかれていたO

郡代や代官は直進搬民に接触する換 金が 多か ったか ら,支配 の良 し慈 しは戯民 の生活 に深 刻な舷皆 を及ぼ し,生殺与頚の樺 を掘 っていたU そのた,め江戸時代において代官 .あるいは 下役人の葡改や違法行為に よって若 きか こ盲九7t‑潔 は五十三件 に ものぼ っている。それで は代官はまった く稚力づ くで民政 をお こなっていたか とい うとそ うではない。私利 や私欲 を はなれ みずか ら良民のなかに入 って善政 を行ない,かれ らの苦境 を救 った名代 官 といわれ

る人 も少 なくなか った

代官の支配飯域は支白地 あるいは代官所 とVlい,代官の居宅を陣屋,執務する ところを役 所 とい った。 郡代 と代官の職務は似た 上うせ ものでだいたい帝寮や裁 判a:ど公串を とb扱 う 公蕃方 と財政 と人別車券 を と

b

扱 う地方忙分れてV,た。締高四百俵 を基準 とする郡 代は布衣

(六位 に叙せ られた布衣 の冠服 を着す るを得 る資格 )であ D,二首俵を基準 とする代官 り も一応身分や格式 が上であ った

代官は蒋府 の地方行政官 と しての性格か ら転任が頻繁にお こなわれ るため支配舶放 はきわ めて簡 紫であったU 代官所 の転月の人数比江戸 の役所 と任地の陣屋を併せ て総数七 .八名か ら十八 .九名が普通で

b,特別の任務のある所で も四十名 ぐらいで尊務を処 理 しなければ ならなか った

代官には配下 に手付 .手代などがお

9

.役 向に上って手代顔 .脇手代 .蔵方役 .単段 .江 戸家老 .江戸脇手代 .中小 姓な どとい う呼 び 名もあ ったO手付 .手代やそ のほか の代官所の

一 占5‑

吏負はあ くまで も代官所 の雇人で新 の役 人では なか った O初め手代は農 民のをかか ら適 当 を者をえ らび代官 が 自由に採 用 .哉免 してVlたが ,享保 のころか ら月収 手付 が任ぜ られ るよ うに なった。手付は御家人 中.譜代 .抱 席 な どよb代官の申請に よって勘 定奉行が任命 し た者である∪レ、ずれ も代 官が馳め る ときけ解職 され るのか普 通 で参るが ・なかに は代官の私 曲や肢 罪 に遵 座 して罪を関われ る者 も少 な くなか った

代官の本俸はだい たい百五十俵以上 でそのほかに役科が支給 されたOまた属僚 の手当や役 所 の諸 入費にあてるため,は じめの頃は徴収 した年貢 米の うちか ら口米 .口永の 付加税を と るととがで きたU ところが これだ けでは とて も代官所 を維 持す る ことがで きないか ら,享保 十年( 1725)に なると, 口米 .口永は とらずに このぷん を全部幕府 の収入 と し,加 わ

b

に別 に必要な経 費は幕府 か ら代官に 支給される とい う方法 がと られたU 支給額は代官所の支 配高に よって決め られたので .高五 万石につ いて 米七十人扶持 (1人扶持 は織米が一 日五 合 の割合で支給 され る )ただ し金の方は西国 (九州 )では七百五十両 .中国では六百七十 両, そのほかの地 方では六首両が‑年 分 として支給 され赴 任の費用 も支払われ る よ うに なったO

手付 の年俸 は米三十俵,二 人扶持 を平均 と し, もし休戦にな って も展冶的に も らうことが で きた。 これに対 し手代の方は.大 部分が農 民な どの出身で参 るためか本給吐 な く,代官 所 の 経費の なかか ら支給 され たので,休職 にで もなればまったく生 活が 夜 bたた な くなって し ま った∪享保十年 以後は 一応.並の手代 で二十両五人扶持 とな ったが,それ で もか け出 しの 手代 になると四両 と二 人扶持 ぐらいで あったo だか ら手代 とい って も実際には独立 した生活 を していただけに,当時 の下男春慶 の生計に あせん じなければ な らなか ったU こ うした薄給 者 に支配 をせかせて おい たか ら. とか く手代が村役人た ち と結託 し不正や私曲をお こな うこ

とが多か った

幕府 がは じめて代官の不正にたい して粛正 の メスを加えた のは .五代将軍糾 吉の 時代 天 和 ,貞与 の萌であ るO舶 吉治世二十九年 間に死罪や免職に なっている代官 は三十四人 に もの は D,当時 の代官政 か ら推 してか

Dの数であ った とい うことが で きるU この帝正 に よって 江 戸時代 UJ初めか ら続いてい た代官 の職を蒋 われ る者 も多 くあ ったU こ うして郡代 や代官の 多 くは三代 ぐらい で失脚 や転 身す るか あるい は一代 限 りで終る者 が 多か ‑た。

代官 の性格 も時代の移 b代 b妊 よって しだい に変 ってい った。 享保の ころの幕府 は再び代 官の加 紀粛正をや

b

は じめ た。それ と同時 に,幽 民のなかか らす ぐれた治水 .土木 の知識の 持主 や農薬経営の手 腕の ある者は代 官に抜擬 した

やが て寛 政以後 になると学者出身の代官 も目立 って くるが ,緊迫 した国際情勢 のなかに幕 府 内部 に発言力をもつ実力者 の代官 も現われ, ときに仕蝦夷樺太 の操扱者のなかか ら代官に 任ぜ られた者 もいた∪ この よ うに江戸 後期になる と代官 の出身 もさ まざまであった

江戸時代 には享保 ・天 明 ・天保の三大飢経を ど‑ク と してほ とん ど例年の よ うに 凶作にみ せナれ た。 そのため代官 は一 般 の民政 のほか に,治 水=車や開発 に よる戯村 の復興を 急務 と

一 占占‑

し,芋の栽培や子間引,@・胎の禁止 などに も心 を用いなければ な らなか ったO こうしたなか で立身出世を夢みて,幕府 の意を迎え年貢の取 b立 てなどに狂奔する代官 も多か ったが・.常 に民衆 の苦 しみを理解 し. 自ら遠い任地‑赴 き長期にわ たって村民 と生活 をともに し,仁政 を もってのぞんだ名郡代や名代官がいたととも忘れ ては ならかIu

ロ .久世町に於ける代官 (》 岡山県 に於ける代官所

関が原の役が終 ると,敬川家康は備騎乗作51万石を小早川秀秋に与え,岡山城 を居城 として治め させたO備 中を改めで直轄地 と丑し,小堀正 次を して松 山城にてそれを管させ た.その後さかんに異数があ

b

備中及び発 作両国の直轄地に代官所を次の ようにおいたo

l.備中倉敷代官所 2.笠岡代官所 5.石見大 森代官所

偽装上 下出張所 4.美作倉敦代官所

5,久世 代巨(節 (多 久 世代官所の初 め

津山薄主松 平宜宮が死 に,その子浅五 郎 もまた未 だ封 に就かず して亡 くなったので継駒 が なかった。 しかるに幕府はそ の忠臣をみて と9.特に族長無 を してつが しめ, 旧封土の 半分 を滅らした.享保11年1 1月18日長腎封を継 ぎ.盟 12年5月東北条 ,西 々条 ,酉北 条 ,大庭 ,英島5郡の内,5万石 を上地 した。♯府 は代官鎚島作右南門 を して大庭郡 久世村 を 治め させた

③ 久世代官所の歴代代官

代 氏 名 従 至 在職年間 備 考

1

鎧島 作右衝門 享保1 2年 元文元年 9 久世代官因 州鳥取預 2 池 田 喜八郎 元文元年 元文2年 1

5

平岡 彦兵術 元文2年 延享元年 7 4 永 田 ′」、左南 門 延享元年 1

‑ 47

8

9 10 11 12 15

14 15 16 17 18 19・

20 21 22

井上 助左南門 石黒 小 左 街門 内方 鉄 五郎 藤 本 甚助 竹垣 庄 蔵

銘木 小 右衛門 稲垣 藤 左術門 内藤 重 ≠稀 門 河端 代 八 平岡 彦兵 衛 小林 孫 四郎 守屋 弥三 左衛門 石原 清 左南門 守屋 弥三左南門 早川 八 郎左衝門 重 田 又兵 衛 山 田 常右街 門 津 山離 御 預

b

要償 5年 安値 6年 宝磨 6年 〝 7年

〝 7年 〟 11年

l 〝 11年 明和5年

明和5年 〝 6年

〝 6年 〝 8年

明和 8年 安 永6年

〝 7年 天 明元年

〝 2年

年年年年年

。7航2。如〝天〝〝

〝 4年 〝 7年 0 7年7月 孝 和元年6月 享和元年 文化2年 文化2年 〝 9年

〝 9年 文政元年

′○▲lPO

1

2‑54477 宮代世A 播 州乃井 野預 生 野代 官

笠間代官

江州大 津代官

久世町 に代官がおか れたの は事保12年 (172 7 )よ9文化14年( 18 17 )壇で の約9 0年 間である

この中で一番有名で名代官 といわれたのは早川八郎左衝 門正 妃で,彼は出羽国 尾花沢か ら天明7年( 1 787 )7月久世に転任 と

なり.

至 敏を もって民政 を担 当 したのであったu 昭和5年 に作 られ た早川代官 のセ メン ト像が重厨寺の椴にあ るU

まず 彼は赴任 早々領 内 を巡回 し.今 までの蝦智 を改め赤子 間引 を禁止 し,教諭所 (のち 久世典学館 )を建 て鹿民 を教化 したのであ ったO寛政 11年には 自ら久世粂数を著 した

また領 内の備中吹屋 吉岡銅 山に 目をつけ,これの復 興 をこ売 った DもしたO早川代官は 常に実行 の人であ った と思 われ るL, しか しは じめ は質素倹 約や風俗の取

b

締 b夜 どを強め たた め, とか く良 民か ら敬遠 されが ちで あ ったU それで も月 日が過 ぎるに従 って正妃の真 意がわか ると彼に 対す る領民の敬 意は しだいに広 まってい き, やが て何 処か ら ともな く彼 の転任の 報が伝わ るよ うに なると村民奉げて の留任運動が くbひろけ られたO寛永 10年 ( 1798 ) 7月には美作国5郡代表が 江戸表へ

上b

留任歎戯啓を差出 してお 9, また草 和 元年 (18 0 1)4月美作国5郡 155か 村総代の欺鹿部が 出され ているO結 局,孝和 元年5月1 9日,幕命 によって1 0万石 の関東地地役代官に任ぜ られ ,武 蔵国久 喜の陣屋

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