―羅山・素行・白石の事例を中心に―
齋藤公太
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中期における闇斎学派や水戸学以外の『正統記』受容の例について再考を試みるものである。
最初に『正統記』受容の基本的な状況を確認した上で、林羅山、山鹿素行、新井白石の例を 取り上げる12。
1.『正統記』受容の二類型
近世に入ると、多くは武士や僧侶の求めにより、現存する『正統記』の写本の半数近くが 書写されたという13。慶安 2(1649)年には風月宗智により初の版本が刊行され、また天明 6(1786)年に刊行を開始した『群書類従』所収の版本もある14。宗智は寛永期(1624 〜 45 年)の京都で活躍した代表的な書商の一人であった。寛永期に隆盛した出版文化の特徴 の一つは、製版印刷によって日本の古典が広く普及したということにあったが15、宗智によ る『正統記』の版行もそのような潮流の一例といえる。幕末の慶応 2(1866)年に刊行され た『評註校訂神皇正統記』を除けば、近世に出された版本は上記の二種のみであったものの、
公家や僧侶といった限られた層の人々にのみ享受されていた中世の状況に比べれば、近世に おいて『正統記』は格段に多くの読者を得たといえる。
このような近世における『正統記』の受容は、大きく分けて二つの方面からなされた。一 つは史書としての受容であり、もう一つは「神書」(神道書)としての受容であった。もち ろんこれらは截然と区別しうるものではなく、実際の受容においては二つの方向性が交錯し ていた。しかし、あえて二つの座標軸を設定することにより、個別の『正統記』受容の位置 も理解しやすくなるだろう。以下その二類型の内容について確認する。
(1)史書としての受容
山崎闇斎は、没後の正徳 5(1715)年に刊行された『続垂加文集』所収の「答黒岩慈菴問目」
という文章のなかで、「嘉常に謂ふ、正統記は是れ吾国の資治通鑑なり。国史を見る者必ず4 4 4 4 4 4 4 4
是より始む4 4 4 4 4 16」(傍点引用者)と述べている。こうした例を根拠として、勢田道生は「この ような、わかりやすい簡便な通史という性質も、『正統記』が後代に大きな影響を与えた一 因であったと考えられる17」と述べている18。
『正統記』が簡便な通史として受容されていたことの証拠としては、他にも只見本『神皇正 統記』の存在を挙げることができる。同書は現・福島県只見町黒谷の在村医師であった原田 家の蔵書から発見されたもので、2014 〜 15 年の調査により、真言宗の僧侶・玄純房祐俊が 天正 15(1587)年に書写した写本であることが立証された。只見本には歴史的事件などの計 13 箇所に、祐俊による付箋が貼られており、「天正十五年当時、手許において参照する通史 の日本歴史書、歴史物語書」として『正統記』が受容されていたことを示唆しているという
19。また、時代は大幅に下るが、天保 15(1844)年に刊行された山本蕉逸の『童子通』にも、
歴史を学ぶときはまず「神皇正統記ヲ始トシテ前後太平記ヨリ太閤記三河記等ヲ読ベシ20」 とある。以上の例から、近世以前から近世全体を通じて、『正統記』が「簡便な通史」として 受容されていたことが推測される。
『正統記』が史書として受容されたのは、単にそれが読みやすい通史であったからという ばかりではない。上に引いた言葉のなかで、何より闇斎は『正統記』が日本の『資治通鑑』
であると述べていた。闇斎学派の儒者であった栗山潜鋒も、『大日本史』巻之一百六十五・
列伝第九十二の「源親房」の項において、「其の微を明にし正を扶くること、誠に春秋の遺
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かな
へること有りと云ふ」と記していた21。このことの意味は、同じく水戸藩に仕えた闇 斎学派の儒者、三宅観瀾の言葉に詳らかである。観瀾によれば、中国の史書に見られる道徳 的論評が日本の六国史において欠けているのは、古代日本の風俗が純朴で「皇道」が自然と 行われていたからである。しかるに朝廷への反逆が行われるようになったあとも、当時の歴 史書は真偽の入り乱れた散漫な記述をすることしかできなかった。そのようななかでの例外 的存在が『正統記』であったという。
特
ひと
り衣
い え い
纓家に神皇正統記の編有り。成憲を掲げて頽風を振ひ、系緒を辨じて姦軌を警
いまし
め、
讜議・卓識、諸これを君を思ひ時を憂ふるの誠に本づく。其の書、略なりと雖も、其の言、
龐
ほう
なりと雖も、実に始めて与ともに春秋の遺意を言ふ可し22(「保建大記序」、正徳 2〈1712〉
年)。
このように『正統記』が「春秋の遺意」に合致するとされるのは、それが日本の古典的な 歴史書のなかでほぼ唯一厳格な倫理にもとづく歴史の論評を備えていると見なされていたか らなのである。
また、朱子学者の室鳩巣は、保元の乱の折に源義朝が父・為義を処刑したことに対する『正 統記』の批判を取り上げ、「此事は北きたばたけ畠親ちかふさ房の神しんくはう皇正しやうとうき統記の論正しうして、最もつとも理りに当たれり、
此事の断だんあむ案ともいふべし23」「此の時代是程正しき議論あるをきかず。さすが親房、南朝の 耆
ぎ
老
らう
とて、此見
けんしき
識ある程に、此議論もあるぞかし24」と述べている(『駿台雑話』巻之三、
享保 16〈1731〉年成立)。
これらの言葉からわかるように、儒者、とりわけ朱子学者にとって、『正統記』は中国の 史書に匹敵する道徳的論評を備えた儒学的史論として珍重されていた。特に近世において『太 平記』が広く愛読され、南朝への関心が高まるにつれ、『神皇正統記』の南朝正統論が改め て着目され、朱子学の正統論と結び付けられていったという側面もあったのである25。
(2)神書としての受容
他方で、前述のように『正統記』は神書としても受容された。勢田道生は慶應義塾大学附 属研究所斯道文庫編『江戸時代書林出版書籍目録集成』(井上書房、1962 年)所収の 7 つの 書籍目録のなかで、『正統記』が「神書并有職」の項目に分類されていることから、当時『正 統記』が「神書」として扱われていたことを指摘している26。明和 7(1770)年に刊行され た当時の神書の目録である鈴木行義の『神道書目集覧』に『正統記』が記載されていること からも27、近世前中期において『正統記』が神書として位置づけられていたことは明らかで あろう。
近世では神祇祭祀としての「神道」とは区別される、「日本の神の教へ又は定めた、従つ て日本に特殊な、政治もしくは道徳の規範28」としての「神道」概念が普及する。それは、
吉田家や白川家といった執奏家によって管理される「法的組織」としての「神道」と、教説 やそれにもとづく「門人組織」を指す「神道」が、近世において並存していたことと対応し ているだろう29。後述の例が示しているように、近世ではそのような政治的・道徳的規範と しての「神道」を表した書として『正統記』は受容されていった。
しかし、度会延佳や吉川惟足といった近世前期を代表する神道家の著作のなかでは、時折
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『正統記』への言及がなされることはあるものの、大々的に引用する例は見られない。その ことは、山崎闇斎とその門流、あるいは後述する林羅山や山鹿素行などによる、儒者として の立場から形成された「儒家神道」の教説において、『正統記』が重要視されていたことと 対照的である。その理由の一つは、前述のように『正統記』が儒教的な史論としての側面も 有していたことが関係しているだろう。しかしもう一つの理由として、『正統記』が中世の 神道教説を伝える媒体としての性格を持っていたことも挙げられよう。近藤啓吾によれば、
「伊勢大神宮儀式序」(明暦元〈1655〉年)の段階における山崎闇斎は、当時神書の閲覧が困 難であったために、『正統記』を通じていわゆる伊勢神道の教説に触れていたという30。同 じ事情は羅山や素行といった他の儒者にも当てはまるだろう。神書の披見が比較的容易で あった近世前期の神道家に比べ、そのような手段が限定されていた儒者にとって、『正統記』
は神書としての重要な役割を果たしていたのである。
他方、前引の「答黒岩慈菴問目」のなかで闇斎は、「但し竺土の仏、柱下の老、信じてこ れを取れるは、嘆くべきのみ31」とも述べていた。中世神道に立脚するがゆえに、『正統記』
の教説には神仏習合の言辞や「付会」的解釈が含まれていた。それは儒者にとって受け入れ がたい点であり、古典解釈の方法としての考証主義が発達するにつれ、その点は一層批判さ れるようになっていく。
2.林羅山における『正統記』受容
前節で概観した『正統記』受容の方向性をふまえつつ、以下闇斎学派や水戸学以外の近世 前中期における『正統記』受容の代表例として、林羅山、山鹿素行、新井白石の三者を取り 上げ、それぞれの思想のなかで『正統記』が果たした役割について考察を進めていきたい。
徳川幕府に仕えた朱子学者であり、儒家神道の先駆けたる林羅山は、慶長 9(1604)年に 記した「既に見る所の書目」のなかで「神皇正統記」を挙げており32、つとに『正統記』を 読んでいたことがわかる33。また神道方面の主著である『本朝神社考』においても、「今我 神社考に於ける、遺篇を尋ね耆老に訪ひ縁起を伺ひて、之を旧事紀・古事記・日本書紀・続 日本紀・延喜式・風土記鈔・古語拾遺・文粹・神皇正統記・公事根源等の諸書に証して、以 て之を表出す34」と序文で述べている。同書のなかで、『正統記』は他の神書と並ぶ参考文 献の一つだったのである。
『本朝神社考』と並ぶ主著である『神道伝授』(正保元〈1644〉年頃成立)においても、「天 照大神の孫天瓊々杵尊ヲ皇孫ト名ケ奉テ天降リ日本国ノ主トナリタマウ。此皇孫ステニ外宮 ノ相殿ニマシマストキハ、豊受ノ神ヲ御膳ノ神ト申スヘカラス。此事、北畠親房ノ記ニノセ タリ35」と『正統記』の説を引用しており、『正統記』を参照していたことがうかがえる。
他にも『神道要語』(成立年不詳)では『正統記』と関連の深い『元元集』神国要道篇か ら三種神器に関わる部分を引用している36。また「神道要文」と題して「心不貯一物而不可 止於虚無37」という一文を挙げているが、これは「其源と云は、心に一いちもつ物をたくはへざるを 云。しかも虚き よ む無の中うちに留とどまるべからず」という『正統記』応神天皇条の一節を漢訳したもので あろう。また『神道秘伝折中俗解』(成立年不詳)においても、「又高天原ニ神アリ。天御中 主神ト号ス。コレ国常立ノ別名ナリト、神皇正統記ニ書セリ38」(巻第三)、「神皇正統記ニ 云ク、国常立尊ニ五行ノ徳アリ39」(巻第四)と、根源神・国常立尊に関する記述を『正統記』
から引用している。
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