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日本文化研究所時代を振り返る

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41 1.日本文化研究所の嘱託研究員の頃

 國學院大學日本文化研究所が創設 60 周年を迎えるにあたって、一文を寄せるように要請 された。

 私は昭和 59(1984)年度より嘱託研究員として日本文化研究所に週 2 日勤めることとなっ た。当時助教授であった薗田稔先生が呼んで下さったのである。参加プロジェクト名は「祭 礼調査とその資料化に関する研究」。同じ嘱託研究員であった宇野正人氏の下に配置され、

薗田稔先生の薫陶を受け、宇野正人氏の調査手法を学んだ。『國學院大學日本文化研究所 五十年誌』(平成 20(2008)年 3 月刊)を見ると、このプロジェクトにはもう一人坪井洋文 氏が担当教員として加わっている。

 当時坪井洋文氏は、千葉県佐倉市に建設された「国立歴史民俗博物館」の民俗研究部部長 として民俗展示の構想を練り上げていた。私は昭和 56(1981)年 4 月から坪井洋文氏の下 で展示プロジェクト委員及び嘱託研究員として民俗展示構想の検討と構想に従って、全国か ら何をどのように集めるか、また現地に赴き収集や、民俗仮面の模造面の製作の段取りをつ けるなど岩井宏實先生・山折哲雄先生のお手伝いをさせていただいていた。

 昭和 59(1984)年から、週の前半は佐倉の国立歴史民俗博物館に、後半は渋谷の日本文 化研究所に通うことになった。研究所では、個別具体的な祭礼調査と資料収集、分析が行わ れた。飛騨古川の古川祭の調査研究、奄美大島全村落の民俗風土と神社調査、大和の水分・

山口・御県に坐す神々の社を中心とした祭り調査と風土構造の研究、国府祭礼の総合的研究 などのプロジェクトで大伝統としての国府総社の祭の分析と在地の小伝統としての一宮の祭 との比較分析などを行った。そして、昭和 62(1987)年に専任にしていただき、平成 14(2002)

年 4 月の神道文化学部開設に伴って学部に移籍するまでの 16 年間(嘱託時代を除く)の長 きにわたり、研究所でお世話になったことになる。

2.最も印象に残っている映像制作の仕事

 研究所時代の活動で、最も印象に残った仕事を記しておきたい。

 調査研究と並行して祭礼・芸能の「分析的記録映像」制作運動と称して、映画・ビデオ制 作を行ってきた。最初に手掛けたのは、昭和 50 年代の後半から調査に入った静岡県磐田市 見付の裸祭であった。調査の成果は磐田市史のシリーズに収められたが、昭和 59(1984)

年に 16 ミリ映画『見付天神はだか祭り―海と山との交歓(遠州総社の祭)―』(55 分)を 完成させた。研究所と神社本庁内の民俗文化財研究協議会との共同企画制作の形をとったが、

費用は民俗文化財研究協議会に負担していただいた。これは「日本の祭礼行事」シリーズと して後にビデオ化した。刊本としては、平成 3(1991)年に『見付天神はだか祭り  海と山 との交歓―矢奈比売神社、遠江総社淡海国玉神社祭礼の観察―』(302 頁)を研究所から刊

【特集 日本文化研究所設立 60 周年】

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行していただいた。続いて平成元(1989)年に昭和 50(1975)年から調査に入っていた長 野県下伊那郡天龍村の三ヶ村の夏の仏行事(念仏踊り)と冬の神楽(坂部の冬祭り、向方の お潔め祭り、大河内の御神楽)を対比的に描いた映画作品を制作した。『山の祭り 第一部  天龍村の夏』(25 分)、『山の祭り 第二部  天龍村の冬』(55 分)である。重要無形民俗文化 財の記録作成事業として研究所の本プロジェクトが映像記録にあたった。この映画は、英語 版も制作した。また、EC ヨーロッパの EU への移行と市場統合を控えた昭和 63(1988)年頃、

ベルギーの首都ブリュッセルで統合を予祝したユーロパリアジャパンが半年間開かれた。そ こに (『日本は祭の国』英語版、30 分)を制作し出品した。これは 評判が良く後に日本語版を制作することとなった。「祭礼調査とその資料化に関する研究」

プロジェクトは様々な媒体の資料を収集しながら、資料の一元化を模索していたのであるが、

祭祀という調査研究対象の特殊性により、文字による記述分析論文ばかりでなく、必然的に 映像を用いた祭祀資料の記録、さらに映像表現による祭祀の分析を進めることとなった。こ の間に高価な映画制作から比較的安価な業務用ビデオ制作に切替え、研究所には金銭的負担 を極力かけないように、民俗文化財研究協議会、諸財団、国、自治体などに負担をしていた だいた。映像の質は高く、映像資料を蓄積していた時期は、私がもっぱら撮影をしていたが、

その後プロカメラマンの松永国彦氏の力を借りて、多数の映像作品を生み出すことができた。

思いつくままに記してみよう。

岩手県黒森:「黒森神楽・舞立ち編」(60 分)、「黒森神楽・巡業神楽宿編」(40 分)

島根県隠岐島:「隠岐島前の神楽」(25 分)、「由良比売神社の海上祭」(30 分)、「隠岐の伝承 芸能」(50 分)、「美田八幡宮の田楽祭」(30 分)

福岡県豊前市:「山人走り」(32 分)、「嘯吹八幡神社の湯立三十三番神楽」(40 分)

海村:「初島の鹿島踊り」(30 分)、「北勢の鯨船神事」(20 分)、「鹿島町江垂日吉神社のお浜 下り」(35 分)

一宮:「一宮の祭祀―気多神社平国祭―」(30 分)、「一宮の祭祀―出雲の神在祭―」(27 分)

勅祭:「勅祭の伝統―賀茂祭・葵祭―」(27 分)、「勅祭の伝統―石清水祭―」(27 分)

「日本は森の国」シリーズ(愛・地球博出展ハイヴィジョン作品);「籠もりくの大和」(17 分)、

「神の木 神の森」(17 分)、「森と現代文明」(14 分)、「森のまつり」(30 分)、「森をつく る話」(17 分)

外国語版

英語版: 「賀茂祭・葵祭」(7 分)、 「石清水祭」(7 分)、

「日本は祭の国」(30 分)、 「出雲の神在祭」(7 分)、

「気多神社平国祭」(7 分)、 「気多神社平国祭」(7 分)、

「石清水祭」(7 分)、 「出雲の神在祭」(7 分)

 そして、「気多神社平国祭」「石清水祭」「出雲の神在祭」「賀茂祭・葵祭」の 4 作品につい ては中国語版、フランス語版、ロシア語版、スペイン語版をそれぞれ制作した。

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43 3.伝統文化リサーチセンター四季の祭りコーナー

 なお、これらの映像作品は、再編集し、平成 20(2008)年に開設された伝統文化リサー チセンター資料館の神道展示の一角に、映像で見る四季の祭りコーナーが作られ、春夏秋冬 のそれぞれのモニターで最低でも日英語、最多で 5 ヶ国語に対応するように作ることができ た。これまでコツコツと作り出してきた映像作品が活用され、非常に安価に充実した映像コー ナーを提供することができたのが、誇りである。また、このように自由に調査研究映像制作 を続けさせてくださった日本文化研究所には大変感謝している。映像制作は公の仕事として 現在も続けている。

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44 1.インターネットの普及に対応した学術情報発信

 筆者が日本文化研究所に専任講師として着任したのは平成 9(1997)年だった。その 2 年前 の平成 7(1995)年には、阪神・淡路大震災とオウム真理教地下鉄サリン事件という日本社会 を大きく揺るがす出来事があった。また Windows95 が発売され、インターネットが日本社 会にも広く普及しはじめた時期でもあった。

 日本文化研究所では、創立 40 周年記念事業として、阿部美哉所長(当時)、井上順孝教授 のもとで平成 8(1996)年 1 月に国際シンポジウム「グローバル化と民族文化」を開催している。

そして、次なる展開として、グローバル化の時代に対応した日本文化の学術情報発信を目指 すこととなった。

 そこで筆者に課されたのは、日本文化研究所が蓄積してきた成果をインターネットを通じ て発信することであった。

 その前は、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所で COE 研究員として客員研 究員のコンピュータ・ネット環境整備の支援、メーリングリストの構築などサーバー用フリー ソフトウェアの導入・メンテナンス、外国語学習テキストの電子組版支援などにあたっていた。

 その当時の國學院大學は、情報センターという組織が新たに立ち上がったばかりであった。

コンピュータ教室の管理、教職員へのメールアドレス発行、アナログ電話回線での大学サー バーへの接続などが行われていた。筆者も専任講師となる前年に兼任講師として大学ホーム ページの作成をお手伝いした。

 専任講師となってまず行ったことは、日本文化研究所ホームページを立ち上げることで あった。研究所の沿革、事業概要、刊行物紹介、スタッフ紹介などを、日本語・英語双方で 同 一 の ボ リ ュ ー ム で 公 開 し た。 そ れ と と も に、 、

シリーズ、国際シンポジウム報告書などの英文刊行物のオン

ライン化を進めていった。また、 という国内外のアジ

ア宗教研究者を結ぶニューズレターのオンライン公開も行った。日本における人文系の学術 情報発信としては、けっして最先端ではないものの、どうにか足並みを揃え、また日本文化 研究所がこれまで蓄積してきたコンテンツを広く発信、共有できていたのではないかと思う。

 また、当時日本文化研究所は常磐松 2 号館 6 階にあったが、筆者とノルマン・ヘイヴンズ 氏(現・神道文化学部教授)は、同じプロジェクト担当の兼任講師たちとともに、国際交流 センター 2 階の研究室で仕事をしていた。国際交流センター自体も新しく立ち上がったばか りで、招聘研究者のパソコンやネット接続の相談に乗ることもしばしばあった。

2.学術フロンティア事業とその後継事業

 その後、平成 11(1999)年になると、杉山林継所長(当時)のもとで文部科学省学術フロ

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