第四編
近
世
三七
O
地勢たる西北に向て漸く潤く延て大間・佐井に至て尽き︑北海道と僅かに一葦の水を隔て︑両岸の翠黛
相映
ず︒
東西二十里︑南北三十六里余︑概ね岡原不毛の地にして風烈く︑草木長ぜず︑野辺地以北の高山中央に
突起し︑山脈問境に亘り︑耕地十分の一に居り︑一郡の村数僅に八十三︑其戸壱万千二百余︑人口六万
七千四百余︑大区を劃す二︑小区を分つ十二︑一村の戸数二百を越え︑梢清潔なる者は七戸︑田名部等
と野辺地︑大湊︑川内︑脇野沢︑大問︑佐井︑大畑の七港に過ず︒市て港湾野辺地を以て最とす︒
岩手以北多くは該港の輸入品に仰がざるの地なく︑其他の諸港は加能越及び函館等の商船米・酒・
煙草
の類を積み来りて土民と檎材に貿易し帰るのみ︒
郡中至る所地味清薄︑其質灰の如く︑米穀実り難く︑産する所多く雑穀に過ず︑加ふるに秋霜早く降り︑
積雪遅く融え ︑晴陰立どころに変じ︑実直も亦随て転ずるを常とす︒
凶歓屡々至り ︑其民貧婁︑多くは朝夕を計るの徒にして︑毎に凍候の苦を被らざるはなく︑鳴呼真に皇
国中最不幸の民と称するも亦謹言にあらざるぺし︒
明治二己巳年凶敬︑五穀全く登らず︑土民当時田宅を売り︑或は馬を食て僅に余端を存せり︒最貧困な
る者は︑其愛見を棄つ︒甚しきは一村の人民族を挙て散じ去るに至れり︒
産物は牛馬を以て最とし︑上等の家には十余頭を畜し︑下等の者と雄も四・
五頭を下らず︒
或は牛馬を以て生とする者に至らば︑一家能く数十頭を蓄え ︑其産殖する者は年々之を売却す︒
この
﹃青森県歴史
﹄の著者は不明であるが︑北郡(後の上北郡・下北郡をさす)地方の住民は︑日本で最も不
幸な人達である︑というのである ︒
当らずといえども遠からざる表現であったと云えよう︒
北郡は︑大小区制施行当時 ︑第六大区(のちの下北郡)と第七大区(のちの上北郡)とに分かれていたが︑v﹂
のうち第七大区について ︑同書はまた次のように述べている︒
前略
: ・
東西二十里︑南北十九里余︑分て七小区とし︑村数五十︑其戸六千八百余︑人口四万弐千九百余︑
七戸を以て本部とし︑人姻五百余︑市街不潔︑居民多くは農を業とす︒
区内十の七荒蕪不毛の原野にして︑山岳其ニに居る︒
耕地僅に一分を占む︒村落至る所蕪積︑只少し見るべきものは野辺地の一港あるのみ︒
中 略
・ ・
・ ・ ・ ・
文西に偏するの地は︑
山気常に
O
厳として︑五穀実らず︒故に薪炭を売り︑或は野生の諸物︑蕨・款冬
の類を採て生計とす︒下略:::
区内の十分の七が荒蕪地・十分のこが山地︑耕地は僅かに十分の一に過ぎないのに住民の多くは農業従事者で
あり︑市街は不潔であり︑村落は荒れ︑きたなかったというのである︒
天 間 林 村 史
三七 一
第 四 編
三七二
近
世
以上は︑明治初年頃の上北郡地方の村落の状況であるが︑それより以前の江戸時代の状況も︑この叙述からし
て察せられるであろう︒
ただここで注目しなければならないのは︑北郡の記述の処で︑馬産の盛んであったことに言及している点であ
あとで述べるように︑天間林地方に限らず︑北郡の農民は︑信じられないほど僅かの農業生産力しかあげるこ る
とが出来なかった︒
そのため︑大凶作が到来すれば沢山の人が死んだ︒
それでもこの地方の人々が死に絶えず︑村が続いてきたのは馬産によるところが極めて大きかったのである︒
次に今度は ︑同じく明治五年︑岸俊武が県命によって編さんした﹁新撰陸奥国誌﹄によって︑天間林村七か村
の︑明治初年頃の概況をみてみよう︒(みちのく双書十八集)
天間館村中
岨 村 花 松 村 野 崎 村 附 田 村 榎 林 村
戸数六十軒︑土地は下の下︒田少し︒牧牛馬を営み︑あるいは北海道に渡り用役す︒
戸数十六軒︑土地肥鏡なるも田少し︒耕転を専らにし︑土産に牛馬あり︒
戸数十三軒︑土地肥沃なるも田少し︒農を専らとし︑産に牛馬あり︒
戸数三十五軒︑土地・産業前の村々に同じ︒
戸数七軒︑土地・産業とも前に同じ︒
戸数八十六軒︑土壌・
産業前村に同じ︒
二ツ森村戸数十九軒︑土地下︑田少し︒耕転を任とし︑牛馬を牧す︒
これによれば︑天間林村を構成する七か村中︑土地の肥沃度からいうと︑天間館村が下の下で最も悪く︑二ツ
森が下でこれに次いで悪かったが︑他の五か村は比較的良かったようである︒
各村とも農業を専業とし︑畜産を兼ねており︑一部北海道への出稼があったことがわかる︒
なお︑今は人権擁護の立場から閲覧を禁じている壬申の戸籍によれば︑この出稼は男性に限られず︑若い女性
のそれも多かった︒
これら明治初年のいくつかの資料により私達は ︑江戸時代における当地方各村落の︑農業生産上に占める地位
や農民の生活状況を ︑おぼろげながら推察出来る︒
周知のように︑江戸時代における財政・経済の基礎となるものは農業であり︑農業生産の大小は︑藩・村・村
民の経済を大きく左右した︒
そこで︑当時の農業の状況を︑より正確に把握するために︑当時のこの地方における標準反収をみてみよう︒
第二節
標準反収 ( 斗代 )
とだい江戸時代︑南部藩では課税基準となる標準反収を斗代という言葉であらわしている︒
斗代は︑もともとは実際の反当収量を基準にして定められたものであるが︑江戸時代を通じて変らなかったの
で︑時代の進むにつれ ︑実際の反収とは合わないことも多かった︒
天 間
林 村 史
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三七四
斗代は︑大きく云えば︑郡単位に︑同程度の土地の肥沃度の村々をひとまとめにして定めた︒
それらのことは︑南部藩の﹁御領分中斗代歩付御定自﹄で定められている︒
なおここで注意しなければならないのは ︑田畑の面積の計り方である︒
多くの他の藩では︑六尺一分四方を以て一坪とし︑三百坪を以て一反歩としているが ︑南部藩では︑六尺五寸
四方を以て一坪とし︑田は三百坪で一反歩︑畑は九百坪を以て一反歩としている︒
畑九百坪を以て一反歩としたのは︑南部地方の畑の生産力があまりにも低いため ︑徴税技術上こうすることを
便宜としたからである︒
それでは︑天間林地方の斗代はどうであったか︒次に表示しよう︒
第 一 表
斗代・歩付表
下 下 中 上 下 下 中 上 苗 下 下 中 上 回
々 稗 稗 稗 ,、、問
々 々 畑
稗 、・、.;
畑 畑 畑 畑 田 田 回 国 代 田 回 回 目 位
一 四 五 一 四 五 六 五 五 六 七 九 斗 斗
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
升 代0 0
一 二0 0 ‑ ‑ 0
一 一 五ッ 歩. . . . . . . .
四 八 五 一 ー ムニニ ニニ /、 一一
ー
/、 九 七 四 一分 付この表について若干説明しよう︒
田(
畑位
)
とい
うの
は︑
田畑の肥沃度に応じて分けられた田畑の等級
であ
る︒
稗田というのは︑文字通り︑稗を植えた水田のことである︒
田の斗代何斗何升というのは︑米であらわしたものであること云うま
でもないが︑稗田の斗代も畑の斗代も ︑米換算で︑米であらわしたもの
であ
る︒
歩付というのは税率のことであり︑五ッ一分というのは五割一分のこ
とで
ある
︒
この表は天間館等七ヵ村の外︑七戸村︑洞内村︑それに上野村等をは
じめとする今の上北町等に適用された︒
ところで︑前掲﹃御領分中斗代歩付御定目﹄によって︑上田の斗代だ
一石
二斗
︑
一 石
︑九斗の六等級があるが︑今の七戸町・
けを拾ってみれば︑
一石 三斗
︑ 一石 二斗 五升
︑
一石
一斗
︑
天間林村・
上北
町地
方は
︑
いずれも南部藩で最下級の斗代の村々であったのである︒
今の上北郡でいえば︑切田・深持・相坂・米田等の上回は一石一斗の斗代であり︑二級上に位置していた︒
天
林
史 村 間
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や﹀奇異の感にうたれるが︑今の六ヵ所村の上回は一石の斗代であり︑
一級上に位置していた︒
一石三斗とか一石二斗五升という高いランクの水田は和賀・志和・稗貫・岩手・鹿角の諸郡すなわち︑今の岩
手・秋田の両県に属する地方に限られており︑本県の最高は三戸郡に属する諸村の一石二斗であった︒
稗田についてみても︑一番良い村では上稗田で九斗の斗代であるのに対し︑天間林は六斗であり︑畑も一番良
い村では九斗の斗代であるのに対し︑天間林は五斗であり︑七戸とともに最下位にあった︒
北郡のうち︑今の下北郡に当る地方には︑純粋な︑米を植える水田はなかった︒
この意味で天間林地方は下北郡の諸村よりは良かったといえるが︑稗田・畑となると下北郡の諸村の方が天間
林の諸村よりもずっとランクが上であった︒
結局︑総合的にみて︑七戸や天間林︑それに上北町等は︑農業生産力(厳密には反収)という点からいえば︑
南部藩においても最下級の段階に位置づけられていたということになる︒
前掲﹁青森県歴史﹂が﹁鳴呼真に皇国中最不幸の民と称するも亦謹言にあらざるべし﹂と云ったのも︑これら
の事情を知つての上のことであったろう︒
しかしながら︑天間林地方の農業生産力の低位性は農民自身の責任ではなく︑主として土壌の侵蝕をもたらす
春の強い西風︑冷温をもたらす冷い夏の偏東風(ヤマセ)等︑自然条件の劣悪さに帰せらるべきものであった︒
このような厳しい自然条件の土地に住んで︑ .天間林村の人々は営々と自らの生活を営んできた︒
次に︑これらの村々には︑どの程度の戸数があり︑村全体として︑どの程度の生産をあげていたかみてみよう︒