• 検索結果がありません。

譜碑 の勃興と多様性

ドキュメント内 孫公亮墓 碑刻群の研究 (ページ 79-110)

しかしながら,家系の系譜を碑刻に刻む習慣は,たしかに12世紀後半になって華北社会に 普及し始めるのである。興味深いのは,このような立碑活動が,金代においては往々に仏教的 な要素をも含むことである。「蘇氏先代碑」(ID6)は蘇氏一族の来歴を主に記載するが,とく に彼らの仏教への篤信に注意が払われ,その族人の出家や仏典学習の様子,そして大会を開い て善行を積んでいたことなどが特筆大書される。その他,表1で挙げた『定襄金石攷』所載の 各種「墓幢」「墓銘」は,みなひとしく系譜を経幢(尊勝陀羅尼などを刻んだ,八角形の碑刻) に刻んだ事例であり,そのすべてが,五台山に隣接する定襄県内に立石され,濃厚な仏教文化 の影響をうかがわせる。もちろん,そうした経幢は五台山周辺の独特の文化現象ではなく,当 時の華北にひろくみられ,それぞれの土地で家系の系譜伝承に大きな役割を果たしていたと考 えられる。モンゴル時代の程鉅夫が撰した「河中郭氏新瑩碑」(延祐元(1314)年ごろ)には,

「(河中府にある郭氏に先瑩の)傍らには古いお寺があり,寺には打ち捨てられた石幢(おそら く経幢と同様な碑刻を指す)があって,郭氏の子孫の名を非常に多く刻んでいて,父老は郭氏 墳と呼んでいた。(旁有古寺,寺有廃石幢,刻郭氏子孫名甚衆,父老謂郭氏墳。)」30)という記 述もあり,この事例では複数の経幢が墓碑と同様な機能をもっていたと推測される。

こうした中,王錦萍氏は詳細に先行研究を引用しつつ,『定襄金石攷』所収の金元時代の尊 勝陀羅尼経幢を分析し,当時の華北社会において,経幢は系譜を記録する主要な媒体のひと つであったことを指摘した〔Wang 2011:163-174〕31)。同氏が引用するように〔Wang 2011:

164〕,『定襄金石攷』の編纂者牛誠修(1878-1954)も,「尊勝幢は,金元時代に最も多い。宋

代にも往々にしてあったが,金元時代に墓幢を寺観の中に立て,前半に尊勝多羅尼経を刻し,

その後に〔先祖〕3代および子孫の男女の姓名を刻んで,この機会を借りて冥福を祈り,あわ せて先祖の徳行をあきらかにするのは,とりわけ六朝時代の造像銘の遺風のようである。(尊 勝幢,金元時最多。宋代亦往往有之,金元時往往刻墓幢於寺観中,前刻尊勝多羅尼経,後記三 代及子孫男女姓名,欲借此以乞冥福,并播揚其先徳,尤六朝造像之遺也。)32)と注記する。

また,経幢を含む金代譜碑とモンゴル時代の先瑩碑との関係を考える際に,注目に値するの は,12世紀後半になって系図を碑陰に刻む事例があらわれる点である。「済寧李氏祖瑩碑」(ID14) について,魏峰氏はすでに次のように指摘している。「碑刻の本文には系譜に関連する記述が ないものの,文末に「昭穆の順序などは,碑陰に詳細に見える(若夫昭穆之序,即詳見於碣之 陰)」と記される」〔魏2011:1,n.4〕。こうした事例は上述した経幢にもみられ,民国時代に 編纂された『定襄金石攷』には,それ自体は同書に収録されてはいないが,編纂者の「故周公 之墓銘」の末尾に対する説明として,「周家の宗派図記。高祖の諱は信というものには3人の 息子がいた。(以下男女の世系は四面に分けて刻まれるが,風化して読みがたいので収録しない)

(周家宗派図記 高祖諱信生三男(以下男女世系分刻四面,模糊不録))」(括弧内は『定襄金石攷』

の双行註)とある33)。163頁の画像⑭にあるように,「鄭氏墓碑」(ID9)は,その血縁関係を 30)程鉅夫,『雪楼集』巻十九,「河中郭氏新瑩碑」,四庫全書本。

31) 尊勝陀羅尼経幢 の各種機能については,〔劉2008〕を参照。

32)牛誠修[編],『定襄金石攷』巻一,第44葉後半。本稿で使用したのは,〔新文豊1979,vol.13〕

所収の民国二十一年雪華館鉛印本。

示す線の書き方などが,次節で述べるように,モンゴル時代の先瑩碑を先取りする様式を示し ている。

残念ながら,現在の史料状況からは,なぜこのように系譜を碑刻に刻む習慣が始まったのか,

どのような社会的・文化的背景があったのか,全面的に明らかにすることは不可能である。し かし,「済寧李氏祖瑩碑」(ID14)の次のような記述は,かかる碑刻をめぐる当時の知識人の 認識を,部分的であるにせよ,伝えるように思われる34)

近世の習わしでは,祖父や父親が葬られれば,貴賤を問わず,みなそのために碑を立てる。

ある人がそれに疑いをもち,〔そうした疑問を〕問われた人が〔私に〕言うには,「礼にか なっているのか」と。私はこれに応じて言った,「礼にかなっている。そもそも碑刻とい うものはもとより同じものであり,それを立てる理由が異なるのだ。□閲の家は,輝かし い地位を得るのみならず,大いなる功徳もあり,上は国を護り下は民を庇い,子孫は繁栄し,

そこで神道碑をつくるのだ。その次には徳行や文章で,時の人にあきらかに知られるよう になり,それが世間に埋もれることを慮り,墓表・墓誌がその事実を記し,それを不朽の ものとするのであるが,このふたつの〔碑刻のあり方は〕今も昔も変わっていない。巷間 の人々については,子であろうが孫であろうが,祖先の残した礼に報いるさまは,貴賤と もに変わらないが,埋葬の後,1世代か2世代の間に,誰が祖父で誰が高祖で曽祖父であ るのか,舌を巻いて言えない者が,7-8割にもなる。人は万物の霊長であるが,自らの出 で来る由来を知らないようになってしまうことに至っては,理としてこれがありえようか。

むかし聖人は人情によって礼を制定したが,いわんや聖明な治世に際して,人々はみなよ うやくうるおい,生きてゆくうえでの礼や死んでからの葬礼や,祖先を尊んでその根本に 報いるのは,九族を和合させる教えにくみするものだ。そこで葬儀を行えば,必ず碑刻を 墳墓に立て,一族の源や族派の別をあきらかにすることで,子孫がはっきりとその詳細を 知ることができるので,誰だ不可といえようか」35)

この「李氏祖瑩碑」によれば,済寧李氏の先瑩は南北2箇所あった。この碑刻が,南林(南 の先瑩)に葬られた李太という者について,偽斉(金国が北宋を滅ぼした後,もと北宋の官僚 である劉豫(1078-1143)を皇帝として,現在の河南省・山東省・陝西省を版図として設立し た王朝「斉」。1130-1137)の統治下のこととして次のように記している,「效用(騎射などの 技能により軍籍を与えられた正規軍の兵士)として従軍して功績があり,進義副尉に補せら れた。本朝の皇統四(1144)年に,〔金国の官制にあわせて〕進義校尉を授けられ,〔その後〕

忠翊校尉に遷り,袞州醋庫などを歴任した。諱が宣という者は,大定十一(1171)年の特恩 に際し,進義校尉を授けられた。北林(北の先瑩)の葬儀については,かつて墓に庵を結んだ 33)このように経幢に系譜を刻む事例は,南北朝時代にすでに類例がある〔侯1998:223-226〕。ただし,

その記録する系譜はあくまで家長や帯官者などの男性に限られる傾向にあり,金代やモンゴル時代 のように男女の族人を全面的に記録する姿勢とは異なる〔Wang 2011:165〕。

34)この碑刻の重要性について筆者は,Syracuse UniversityのJeehee Hong助教の指摘により認識す ることができた。Hong助教に心からの感謝を示したい。

35)近世習俗,祖,考既葬,不問貴賎,皆為之立碑。人有疑而見問者曰,「礼歟」。余応之曰,「礼也。

夫碑碣固同,而立□意各異。□閲之家,不止軒冕焜耀,有大功徳,可以上衛国而下庇民,子孫栄之,

於是為神道碑。其次徳行文章,顕然為時聞人,慮其湮没於世,則有墓表,墓誌紀其実,以胎不朽,

二者古今皆然。至於比閭之民,若子若孫,奉先世遺礼,貴与賤不殊,既葬之后,不一二世,叩其誰 為祖,誰為高曽,巻舌而不能言者,十常七八。物莫霊於人,至不知身之所出,豈理也哉。昔聖人沿 人情以制礼,而况遭際聖時,人人漸沐,生事死葬,尊祖報本,与夫敦睦九族之教,因其葬也,必有 碣以樹於林,使慶流之源,族派之別,後世暁燃皆知其詳,其誰曰不可。」

者がおり,人々はこれを称えて,いまに至るまで「孝林」とされる。諱が政という者,諱が伸 という者,諱が挙という者,諱が堅という者は,みな大定年間の特恩により,進義校尉を授け られた。(以效用従軍有功,補進義副尉。本朝皇統四年,換授進義校尉,遷忠翊校尉,歴任袞 州醋庫。其諱宣者,値大定十一年特恩,授進義校尉。北林之葬,嘗有蘆於墓者,人喜称之,至 今伝為孝林。其諱政,諱伸,諱挙,諱堅者,皆以大定年特恩,授進義校尉。)」。たとえひとり の族人が従軍によって武散階を得たとはいえ,その地位は低く,その他の族人が爵位を得たの も,大定年間(1161-1189)の度重なる「特恩」によるものである36)。上述した家系と同じく,

済寧李氏も官員を輩出した家系ではない。「李氏祖瑩碑」の撰者黄晦之の考えによれば,埋葬 とともに碑刻を立てるのは当時の金国支配下の華北社会で広汎に見られた現象であり,それを ふまえて彼は,平民の家系でも碑刻を立てて祖先を顕彰する資格があるとしたのである。当然,

これは黄晦之の個人的な認識であり,これがどの程度当時の立碑に関わる慣習に帰納できるか は分からない。しかし,神道碑や墓表を作成する社会的地位や資産がない家系において,系譜 を碑に刻むという行為がひろまっており,それに対して,その正統性を疑う言説があったこと は確かであろう。換言すれば,このような金代の碑刻は新しいジャンルの碑刻であったと言え るだろう。実際,当時の中央政府の高官や,女真人の貴顕の家系には,現在のところひとつと してこうした碑刻を立てた事例は確認されないのである。そうした社会的地位の高い家系は,

やはり神道碑や墓誌を用いて故人を記念する様子が,現存史料からはうかがえる。

以上の行論をまとめるならば,北宋時代の譜碑からモンゴル時代の先瑩碑の出現に至る経緯 はかなり複雑であり,五代・北宋の「家族碑」「家譜碑」,仏教的な経幢への系譜刻入,そして 官員を出していない家系がその系譜を碑に刻むなど複数の 譜碑 の伝統がみとめられるが,

そのすべてがモンゴル時代の先瑩碑の出現に影響を与えた可能性がある。こうした中で,やは り指摘するべきは,金代の譜碑の中で,ひとつとして「蘇氏家譜」の事例に言及していない点 である。また,モンゴル時代の先瑩碑の中でも,「蘇氏家譜」に言及したものは皆無である。

これは,当時の人々が,いかに強く蘇軾を文化的に敬慕していたとしても〔Bol 1987〕,その 父の系譜伝承に関する言説にはほとんど意を払っていなかったことを意味するように思われ る。おそらくは,北宋の学者官僚による言説は,モンゴル時代の先瑩碑に至る単線的な歴史的 流れの唯一の出発点ではなかった。

このような,系譜を記録するために立てられた碑刻が金代後期に普及し始めるとはいえ,忘 れてはならないのは,それらの数が,現存する事例からみる限り,神道碑・墓誌などと較べれ ば圧倒的に少ないことである。例えば,山西南部などにおいては,官員を輩出するような在地 有力者の家系では,北宋時代以降,地下墳墓を造営する事例が目立ち,地表に系譜を記録した 碑刻を立てる事例は極めて少ない37)。また,周知のように,北宋時代から金代に流行した墳墓 の形態として,木造レンガ造りで,一般的に精緻な彫刻を伴う地下墳墓がある。この種の地下 墳墓は,山西南部を中心とした華北に広汎に分布しているが,20世紀末時点で,100カ所あ まりが発掘されており,その発掘報告だけでも50あまりが発表されている〔山考所1999:7〕。

これらの墳墓の非常に細密な彫刻は,当時の死生観を非常に鮮烈かつ視覚的に描写しており,

36)この,大定年間の「特恩」については,その濫発ともいえるべき頻度や下賜の範囲について,先行 研究では全く考察されていない。世宗(在位1161-1189)の治世の統治理念とも相まって,今後の 考究の対象となるべき課題であろう。

37)近年,北宋時代と金代の墳墓の発掘報告が少なからず出版されている。例えば,〔北文所2009〕〔河 北・臨城・謝・張2009〕〔北文所2010〕など。これらのいずれもが,発見された文物の中における,

先瑩碑のような碑刻の存在に言及していない。

ドキュメント内 孫公亮墓 碑刻群の研究 (ページ 79-110)

関連したドキュメント