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孫公亮墓 碑刻群の研究

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孫公亮墓 碑刻群の研究

12–14世紀華北における 先瑩碑 の出現と系譜伝承の変遷

飯 山 知 保

Compiling Genealogy on Stone

Th e Evolution of Family Genealogy in North China during the Jin and Yuan Periods (1127–1368)

Iiyama, Tomoyasu

Shedding light on long-forgotten and newly available steles, this article explores the rise and the evolution of a new genre of steles erected exclusively to record genealogical information in north China during the twel h to four- teenth centuries. Its main aim is to demonstrate how the cultural integration among diff erent social strata triggered by the repeated invasions of non-Han conquerors brought about the formation of a new, legitimate way to compile family genealogy.

In south China, the Song and Yuan periods (960–1368) saw the rise of written genealogical texts (zupu or jiapu) among elite families as a part of their attempt to organize a cohesive patrilineal kinship organization. Preced- ing works on pre-modern Chinese society have elaborately illustrated the formation, evolution, and social function of written genealogy in southeastern China, where presumably almost two-thirds of the genealogical texts from the Song-Yuan were compiled. In stark contrast, our knowledge on pre-modern genealogy and kinship organization in north China is almost non-existent since far fewer genealogical texts have been compiled in the north. Although the lack of materials has been a insurmountable barrier to examine the social history of north China, as the region was a cauldron of ethnic groups under the Jurchen and Mongol rule, the social transition during the period may present a crucial viewpoint to understand the cultural and ethnical diversity in late imperial and modern China.

During my fi eldwork in north China for the past ten years, I found many northern families in the Jin and Yuan periods actually carved their geneal- ogy on stone, as opposed to writing it on paper. Based on more than 250 such

“genealogical steles” (xianyingbei(( ), recently uncovered essays, and local gazet-

Keywords: North Chinese society, genealogical steles, Mongol and Jurchen rule in north China, patrilineal kinship organization, genealogy- compilation

キーワード : 華北社会,先瑩碑,モンゴル・女真支配,宗族,系譜伝承

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はじめに

本稿は,12-14世紀の華北(中華地域1)北半)に出現した,系譜伝承を主な目的とする碑刻(本 稿では「先瑩碑」と総称する)に焦点を当て,現存する具体例に対する考察を通じ,従来「族

teers, this article illustrates the social and cultural background of the erection of genealogical steles, the role of steles in ancestral worhip and commemora- tion of family history, and the widespread use of genealogical steles among different social strata and ethnic groups. Carving genealogy on stele was originally a custom practiced among commoners and low-ranking officials, but rapidly spread as an elite custom a er the devastating warfare during the Jin-Yuan transition (1211–1234) and subsequent rise of new local elites in con- nection with the Mongols. In ancestral worship, the family graveyard with a genealogical stele became the focal point of kinship cohesiveness.

At the end of the thirteenth century, approximately a century after the emergence of genealogical steles, the Mongol emperors started to grant the genealogical steles to meritorious subjects as a symbol of imperial grace. is triggered a widespread desire among non-Han families in north China to have a genealogical stele erected in their graveyard as a symbol of their social sta- tus. Interestingly, this new form of genealogy never spread to south China, where the genealogical texts were already prevailing. e geographical bound- ary between the stone and paper genealogies remained distinct even a er the fall of the Yuan dynasty and, whereas accepting written genealogical texts as orthodoxy, many northern families continued to carve genealogy on steles throughout the Qing period. e revelation of this information will reframe the debate about Chinese genealogy and its place in Chinese history.

目次 はじめに

第一章  孫公亮墓 碑刻群の移録・分析と モンゴル時代渾源孫氏の来歴 第一節  孫公亮墓 碑刻群研究史 第二節  孫公亮墓 碑刻群

第三節  モンゴル時代渾源孫氏の来歴とそ の特色

1.官歴 2.婚姻関係 3.同族結合 4.モンゴル化 5.先瑩碑設立の背景

第二章  金元時代華北における先瑩碑の普及 とその歴史的意義

第一節  北宋時代および金代の 譜碑 と その特質

1.最初期の事例

2.転換期としての12世紀後半

3. 譜碑 の勃興と多様性

第二節  モンゴル時代における先瑩碑の隆 興

1.地域的分布と先瑩碑の機能 2.先瑩碑と家譜の関係

3.先瑩碑の碑文の構成とその多様性 4.モンゴル政権と先瑩碑

5.先瑩碑の碑陰の系図

6. 小結:金元時代先瑩碑の歴史的変遷

と 孫公亮墓 碑刻群 おわりに

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譜」「家譜」などの文献媒体によりその形成が研究されてきた,中華地域における親族集団の 系譜伝承のあり方に関して,碑刻による家系の顕彰という,これまでの通説とは異なる現象が 出現した背景と,その歴史的な意義を検討する試みの一環である。

言うまでもなく,冊子としてまとめられた「族譜」「家譜」とは通常,ある家系2)の(想像 される)淵源から,族譜・家譜の執筆当時までの来歴を,主に成員の血縁関係の記述を中心に 記した史料である。ほとんどの場合は,その家系の中で,経済的あるいは社会的条件が整えば,

数世代に一度追補(続修)されるべきものとされており,現在でも中国・台湾・韓国などでは,

20世紀以降の社会的・文化的な変遷をうけて,今日ではあくまで部分的であるにせよ,その 試みが継続して行われている。

その編纂が史料上確認できる最初期から,宋代以降の族譜・家譜の編纂は,大多数が南方 中国で行われており,その傾向は明代(1368-1644)後半以前となると,文字通り圧倒的であ る。このため,現存するかかる史料の大部分が南方のものであり,結果的に,家譜・族譜研究 の大部分が南方中国を対象とし,それらを編纂した,「宗族」などと呼称される父系親族集団 partilineal descent groupに対する研究の一部として,次々と専著が発表されて分析が深化し ている反面3),中華地域のもう半分の華北については,実質的にほとんど考察の対象となって いない4)。この背景には,「経済的に後進の北方(華北)」は,宗族形成と系譜伝承の前提条件 となるべき経済・文化資本の蓄積がなかったため,南方のような大規模宗族の形成に至る歴史 的経緯を経ることができなかったという,学界にある程度共有された見方があるように思われ る。確かに,「家譜」「族譜」の編纂や,宗族の共有土地財産(「族産」),共通の祖先を祭祀す る「祠堂」の設立・運営など,南方で「宗族」形成の象徴とされてきた事象5)の数が,現存す 1) 本稿では「中華地域」を,China proper 中国本土 の北半を指す用語として用いる。その理由に

ついては,〔飯山2011:20,n.4〕を参照。

2) 本稿では「家系」あるいは「一族」という言葉を,中国語における 家族 宗族 の日本語訳と して使用するが,筆者には文化人類学の素養が欠如しているため,文化人類学的な先行研究におけ る複雑な議論をひとまず措き,これを「自ら主張する父系親族集団」と定義する,歴史学的な先行 研究の見解に従う〔Faure 1989:5-8〕〔Szonyi 2002:4〕。

3) 本稿が主に対象とする12-14世紀に関するもので,近年に出版された主要な著作としては,〔Ebrey and Watson 1986〕〔Ebrey 1991〕〔Bossler 1998〕〔常1998〕〔蔡1999〕〔王2000〕〔陶2001〕〔朱 2004〕〔李2004〕〔劉2004〕〔井上・遠藤2005〕〔黄2006〕〔Clark 2007〕〔譚2010〕〔陳・陳2012〕

などがある。北宋・南宋時代およびモンゴル時代の宗族研究については〔于2012:8f〕が総括し ている。また,明代・清代から近現代の宗族については,歴史学のみならず,文化人類学や社会学 などの領域でも膨大な数の研究が行われている。詳しくは,〔Faure 1986〕,〔鄭1992〕の「1 前言 学術史的回顧」,〔井上2000〕,〔Szonyi 2002:4-8〕,〔王2005〕の「三 宗族,社会与国家」,〔Faure 2007:1-14〕,そして〔喬・黄2009〕〔馮2009〕〔銭2009〕などを参照。

4) 近年,遼・宋・金・モンゴル時代の宗族に関する研究を幅広く総括した〔常2011〕も,この問題 を指摘している。ただし,清代から民国期にかけての華北宗族(lineage)については,〔Duara 1988〕〔Cohen 1990〕が専門的に分析しており,共同の財産の欠如や一族の墳墓の果たす中核的役 割などについて明らかにしている。明代以降の華北宗族について本稿では触れないので,それらの 詳細な紹介はここではしない。

5) なお,当然ながら宋代以降の宗族の形成が常に「祠堂」「族譜」「族産」をともなったわけではなく〔趙 2004〕,例えば祖先祭祀については,墓地,そして一族の墳墓に附随した仏寺などが,南宋時代の 浙江・福建などでは中心的な役割を果たしていたこと〔竺沙1982〕〔Halperin 2006:215-227〕〔遠

藤2007〕,そもそも宋代からモンゴル時代にかけて宗族形成が起きていたのは長江流域などで限ら

れた地域であり,祖先祭祀の規範化などはまだ広く起こっていなかったこと〔遠藤2005〕,「宗族 を形成しない」という選択肢もあり得たこと〔青木2005〕,そして,続く明代と清代には,土地集 積も宗族を結びつける重要な戦略・紐帯であったこと〔Beattie 1979〕,里甲制・衛所制による徴 税・兵役義務や,商業活動による資産分与,非差別民・非漢人・移住民としての出自を隠して ↗

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る史料からうかがう限り,華北では明らかに少ない。これをもって,宋代以降の中華地域にお ける系譜伝承に関する研究は,①北宋時代の士大夫(科挙官僚)家系の間での文献媒体での系 譜の体系化→②南宋からモンゴル時代(1127-1368)の南方中国での新儒学の影響力拡大や,

任官・税役制度の変遷などの影響下での「宗族」の形成と,それにともなう族譜の普及→③南 方における宗族とその紐帯としての族譜の拡散と,明清時代から近現代に至る「中国社会」の 形成という,南方中国での知見に沿った歴史的経緯で理解されることが多いように思われる。

そして,この中で華北は,前述したようなあくまで追従的な地域としてしか扱われていない傾 向があるかのように見受けられる。しかし,華北社会の様相を全て南方由来の基準でとらえる ことが,必ずしも中華地域の社会とその歴史を考える上で有効ではないことも,自明であろう。

華北に関する歴代の同時代史料にも,「宗族」といった親族集団を示す語彙は少なからずあら われ,当然ながら何らかの形でその系譜の伝承が行われていたと考えられるのである。

族譜・家譜の編纂が南方で普及し始めた南宋時代(1127-1276)6),同時期の華北社会の状況 は,女真・モンゴルといった外来の支配者のもとで全く異なっていた。社会的地位上昇の手段 として,科挙制度があくまで副次的な地位に収まる一方,モンゴルなどによる外来の統治・任 官制度が確立されたことにより,在地社会での指導者層のあり方自体が,南方とは異なってい たと考えられる〔飯山2011〕。明代後半以降,結果的に南方由来の族譜・家譜が普及するとは いえ,その南方にくらべての数量的な少なさを考える際,華北社会がたどった歴史的な特質を 考慮せずに,ただその数量から判断するのは,即断であるように思える。換言すれば,華北に おける「宗族」とその系譜伝承を,その南方とは異なる歴史的・文化的経緯を考慮せずに,単 に経済的あるいは文化的な「後進性」をもって論じることには,明らかな限界があるだろう。

では,その限界を打破するために,族譜などの史料の絶対的欠如という問題を,どのように乗 り越えるべきなのだろうか。

その契機は,近年の中国のおける実地調査の機会増大と,碑刻史料集の陸続とした出版によ りもたらされた。すなわち,従来は関連史料がないと思われていた地域でも,石に刻まれたか かる史料が近現代に至るまで大量に残されてきたことが判明しており,それらが今も存在して いる場合には,その実見も比較的容易に行うことができるようになったのである。結果的に,

我々は新たな研究課題に新たな史料をもって取り組むことができる状況にある。

こうした現状をふまえ,女真・モンゴルといった非漢人7)の支配下にあった12-14世紀の華 北で勃興した,祖先代々の墓地(先瑩・祖瑩。以下「先瑩」と総称)に,家系の成員とその相 互関係(房支譜系)・婚姻関係などを詳細に記録した碑刻を立てるという慣習を考察対象とし,

その「宗族」をめぐる活動の中での位置づけや,流行にいたる歴史的背景とその意義を分析す ることは,中華地域の社会に対する我々の認識に,新たな地平を切り開くことになる可能性が

↗ 新たな戸籍を入手するなどの様々な要因が,一族の歴史を記録し,その範囲と族人間の関係を常に 把握することを要求し,その結果宗族の形成が促進されたといった点〔Szonyi 2002:26-89〕〔片

岡2004〕も指摘されている。

6) 南宋時代の南方における宗族形成,族譜・家譜の普及,そして新儒学の影響については,〔Dardess 1974〕〔森田1978〕〔劉2001〕〔Bol 2003〕〔Clark 2007〕〔Bol 2008〕〔章2008〕を参照。

7) 本稿での「漢人」は,現今の「漢民族」を指すものでは当然ない。周知の通り,「漢人」という言葉は,

本稿が対象とする時期において多様に使用された。金代の漢語史料においては,「漢人」とは旧遼 支配下の地域出身者を指し,「南人」は旧宋領出身者を指して用いられた。モンゴル時代には,旧 金国支配下の地域出身者が,漢語史料では「漢人」と呼ばれるようになり,「南人」とは南宋支配 下の地域出身者を指すようになる。本稿での「漢人」はこうした同時代の用法ではなく,金代・モ ンゴル時代ともにこの「漢人」「南人」に対する総称として用いられる。

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あるだろう。そこで本稿では,かかる「先瑩碑」がいかなる歴史的意義を有するのかを示すひ とつの典型として,華北に現存する女真・モンゴル支配期(1127-1368)において,その現地 に残存する碑刻の数と,保存状態の良さで稀有な部類に属すものの,研究者の関心をほとんど 引きつけてこなかった,山西省大同市渾源県西留村の 孫公亮墓 に現存する諸碑刻について,

まずその碑刻群に対する録文や釈読など基礎的な分析を行い,その先瑩を建造したモンゴル支 配下の家系の特徴と建造の契機について考察する。そして,その事例をふまえて,女真・モン ゴル支配期の先瑩に立てられた前述のような碑刻「先瑩碑」を網羅的に収集し,その数量や記 述内容の変遷を通じて,なぜそれらが流行したのか,そしてそれは中華地域の社会史上いかな る意義を有するのか,幾つかの論点を箇条書きして,基礎的な議論を行う。そして最後に,そ うした議論をふまえたうえで, 孫公亮墓 の歴史的位置づけについて簡潔に私見を述べる。

なお,本書では前述したように,女真とモンゴルが華北を支配した時代を「金元時代」と総称 する。そして,華北に金国が存在した時期(1127-1234)を「金代」,金国の滅亡後に華北が モンゴルの支配下にあった時期(1234-1368)を「モンゴル時代」とそれぞれ呼称する。さらに,

北宋が華北を領有した時代(960-1127)を「北宋時代」と呼ぶ。

「先瑩碑」については,すでにその文章の形式や宗族統合に関する作用について,常建華・

魏峰の両氏により,検討が行われている〔常1992a〕〔常1992b〕〔魏2011〕。本稿はこれら先 行研究から多大な学恩を蒙っていることを,まず明記しておきたい。また筆者自身も,先瑩碑 について幾つかの事例を取り上げて初歩的な分析を行ったことがある〔飯山2008〕。

なお,金元時代において,主に系譜を記録するために墳墓に立てられた碑刻は,「先昭碑」「先 徳碑」「昭先碑」「家族碑」「-氏墓表」「-氏阡表」など,様々な名前をつけられた(後掲表1「金 代 譜碑 一覧」および表2「モンゴル時代先瑩碑一覧」を参照)。本稿では「昭徳碑」「世徳碑」

「-氏明徳碑」「宗祖図」「祖瑩碑」「遷瑩碑」「新瑩碑」といったヴァリアントと思われる名称の 碑刻と,系図の刻入が明記される碑刻を収集して,「先瑩碑」と総称する。その定義は,「先瑩 に立てられ,「神道碑」「墓表」といった,故人の事績の顕彰ではなく,家系の系譜を強調した 碑刻」とする。

第一章  孫公亮墓 碑刻群の移録・分析とモンゴル時代渾源孫氏の来歴

第一節  孫公亮墓 碑刻群研究史

渾源県は,山西省大同市に属する県であり,大同市の東南約30 km,五台山系の北に位置する。

県の総面積の過半は山地で,断崖に密着するように建築されたことで著名な懸空寺も,県城か ら南に5 kmほどの渓谷に存在している。域内には,桑乾河の支流であり,県名の由来となっ ている渾河が流れ,その周辺に県城をはじめとした主要な定住地が集中する。 孫公亮墓 が ある西留村は,こうした人口稠密地帯からややはずれた,県城から西に約12 kmの,小高い 山地の南にひらける平野部に位置する(図1)。

西留村は郷政府の所在地であり,村民によれば人口はおおよそ4000人で,その過半が孫姓 であるとうかがった。農業以外に主要な産業はなく,経済的に恵まれた環境にはないように見 受けられ,村内の建物も,近年の建築にかかると思われるものはほとんどない。村を東から南 に貫通する舗装された県道から一歩路地に足を踏み入れると,文化大革命とそれ以前のスロー ガンなどが壁上に刻まれた建物が,目立った補修を加えられることもないまま散見され,と もすれば半世紀以上時間が停まっているかのような錯覚を感じる。筆者は2008年3月11日,

(6)

井黒忍・舩田善之の両氏とともに,大同地域の金元時代の碑刻調査を行っていた際,はじめて この碑刻群を目にし8),その後,山西大学中国社会史研究中心の張俊峰教授のご協力を得て,

2011年8月13日と2012年5月18日の2回さらに追加で訪問した。この場を借りて,張俊 峰教授に衷心よりの御礼を申し述べる。また,実際の調査にあたり,同行いただいたうえに微 に入り細に入るご助力を賜った,張俊峰教授の学生(当時)の,袁兆輝・張世卿両氏にも,や 8) 2008年3月11日の訪問については,〔舩田・飯山・井黒2008〕〔舩田・井黒・飯山2012:7-8〕

を参照。

2 山西省大同市渾源県西留村 孫公亮墓 示意図

①故權千戶孫君墓碣(碑刻⑦)

②倒れた碑(碑陽が下向き,碑陰無字)

③善士孫君墓碣(碑刻⑧)

大元正議大夫浙西道宣慰使兼行工部事渾源孫公先瑩碑銘(碑 刻①)

墓表:大元故正議大夫浙西道宣慰使贈資德大夫中書右丞上護 軍神川郡公謚正憲孫公之墓(碑刻⑨)

⑥倒れた碑(碑陽が下向き,碑陰無字)

⑦大元故武略將軍武備寺丞孫公神道碑銘(碑刻③)

⑧大元故保定等路軍器人匠提舉孫君墓碑有序(碑刻⑥)

有元故大中大夫益都路總管兼府尹本路諸軍奧魯總管管內勸農 事贈正奉大夫大司農上護軍追封神川郡公謚文莊孫公神道碑銘

(碑刻⑤)

⑩碑座(無碑)

⑪半ば埋没した碑の断片(碑刻②)

⑫⑬碑座(無碑)

碑座(無碑。傍らに碑陽を下向きにして倒れた碑がある。碑 陰無字)

⑮⑯石人(武官)

⑰両断された碑刻が碑陽を上に倒れている(碑刻④)

⑱⑲⑳㉑㉒石人(武官)

㉓碑座(無碑)

㉔碑座(無碑)

㉕石人(文官)

1 「山西北部および渾源県」

『山西省地図冊』(北京:中国地図出版社,2004年)を参照して作成。

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はり心からの感謝の念を表したい。

村の西のはずれには,雨期に小規模な川が流れるという小さな浸食谷があり,それが村とそ の西の台地を隔てている。本稿が扱う 孫公亮墓 9)は,この台地の東端,村の西はずれから 一望できる場所に存在する。画像①は 孫公亮墓 の東から真西に向かって撮影した画像で,

画像②は同じ場所から真東に西留村の方角を撮影した画像である。その東と南は浸食谷の崖に なっており,盗掘防止のために,崖上の縁に沿って鉄条網が張られている。北と西は平原であ り,耕作地の中に現代の墓地が点在している。北に2 kmほど行くと,渾河流域の平野部の北 限を形成する,小高い山地となる。

画像①  孫公亮墓 遠景

画像②  孫公亮墓 から東に西留村を望む

9) 孫公亮墓 という名称は,〔国家文物局2006〕の命名に従った。実際に西留村では 孫家墳 と 呼ばれている。

(8)

往時の面積はもはや分からないが,現在は南北50 m,東西200 mほどの範囲の平坦な耕作 地の上に,碑刻12通(うち3通は無字の碑陰を上にして倒れているが,その中の1通は2011 年8月13日時点ではまだ立っていた),碑身のない碑座が5つ,服装からみて文官の石人が1 体,武官の石人が7体点在している(図2)。石人はすべて横倒しになっている。

現在の西留村にはモンゴル時代の孫氏の後裔を名乗る人々が多数住んでいるが, 孫公亮墓 は現在渾源県文物管理所の管理下にあり,村人によれば,文物管理所によって時折拓本の採取 などが行われているという。モンゴル時代孫氏の後裔であるという孫氏の男性(もとこの村の 小学校教師。66才)によれば,自分の子供のころにはさらに多くの碑刻があったが,1970年 代の「水利工程」で石材に転用されたことと,近年の盗掘・盗難(「動かせるものはすべて持 ち去られた」という)により,その数は大きく減って現状に至っているという。たしかに,碑 座の数に比して現存する碑刻が明らかに少なく,また,墳墓の土盛りももはや視認できないな ど,モンゴル時代の原状を想像することは残念ながらかなり難しい。また,雁北地区文物工作 站の劉俊喜氏が1987年に 文物普通調査 の一環として 孫公亮墓 を調査した際には,合 計11通の碑刻が存在していたという〔劉1994:255〕。氏はそのうち9通の碑刻の題名・撰者 などを列挙しているが10),その中で,元統三(1335)年歳次乙亥十二月望日建「元故朝列大夫 河東山西路宣慰副使孫公墓」(碑高1.45 m,碑幅1.1 m)と,天暦二(1329)年次庚午五月□

日嗣男鈞・銖・ 立石「翰林学士承旨栄禄大夫知制誥兼修国大元神川郡故善士□□□□貫篆証 公之墓」(碑高1.55 m,碑幅0.93 m,有碑座)と記録される2通は,現在見当たらない(記 録される碑刻の大きさからみて,碑陰を表にして倒れている上記3通の碑刻のうちの2つであ る可能性は大いにある。今後関係方面からの許可を得ての調査を行いたい)。逆に,次節で紹 介する碑刻②「大元故正議大夫浙西道宣慰使行工部尚書孫公神道碑銘并序」(残碑)は,1987 年当時はまだ地中に埋まっていたのか,劉俊喜氏によっては言及されていない。なお,台地の 最東端には,版築で建てられ,すでに朽ち果てている2間ほどの小さな建造物があるが,同じ く上述の孫氏の後裔の男性によれば,これは1970年代の「水利工程」で建てられた工作站の 跡地であり,モンゴル時代の墓地とは関係がない。

この 孫公亮墓 は,明代以降の渾源県の地方志では全く言及されておらず,その研究の開 始はごくごく近年である。管見の限り,最初にこの墓地に着目したのは,前述の劉俊喜氏であ り,1994年に,その当時に現存していた碑刻の紹介と,そこから読み取れるモンゴル時代の 孫氏について,短いながら総合的な考察を行なった〔劉1994〕。2000年代に入ると,大同大 学中文系の李潤民・牛貴琥氏が, 孫公亮墓 の碑刻の中で,『全元文』未収の5通の録文を発 表し〔李・牛2008〕〔牛・李2010〕,李潤民氏はさらにモンゴル時代の渾源孫氏について,主 にその官歴を中心に検討する論文も発表した〔李2009〕。さらに,筆者もモンゴル時代の先瑩 碑に関する初歩的な研究の中で,〔劉1994〕に基づきつつ,この碑刻群を分析した〔舩田・飯 山・井黒2008〕〔飯山2008〕。

すなわち,この碑刻群を史料として活用する基盤はすでに整っている。そこで次節では,い ままで校訂文のみが公開されていただけであったこれら碑刻の,原碑の形式を出来る限り再現 した録文を,ひとつの史料群として,校訂文・釈読案などとともに提示する。そして,モンゴ ル時代渾源孫氏の来歴を,モンゴルの金国侵攻(1211年-)を契機として勃興した漢人有力家 系の一例として考察し,あわせてその先瑩碑設立の背景について分析する。

10)なぜ残りの2通が考察の対象とならなかったのかについては,言及されていない。

(9)

第二節  孫公亮墓 碑刻群

本節では, 孫公亮墓 に現存する9通の碑刻につき,その録文11)・校訂文・釈読案・語釈 を提示する。なお,その配列は立石の年代順とする。年代不明のものについては,最後尾に配 置した。

凡例

1. それぞれの碑刻には,その概観を示す画像とともに,【概況】【画像】【録文】【校訂文】【釈 読案】【語釈】が付される。

2. 【概況】「碑刻の現状」では,2012年5月18日当時の当該碑刻の状態を示している。「立」

とは碑文が直立している状態を指し,その他の場合は,現状に即して説明を行う。

3. 【概況】の次に示される碑刻の画像は,2012年5月18日に筆者が撮影したものだが,碑 刻③に関しては,その変化を示すため,筆者が2011年8月13日に撮影した外見もあわ せて提示する。

4. 【概況】「サイズ」の「碑高」は碑題から碑身の最下部まで,「碑幅」は碑身の横幅,「寛」

は碑身の厚さを示している。

5. 【概況】「篆額」は,碑首などに篆額がある場合にそれを示す。

6. 【概況】「年代」は,立石年(月日)を示す。なお,月日については,太陽暦に厳密に換算 せず,原文のまま示す。

7. 【概況】「墓主」は,当該碑刻で記述の対象となっている人物・事象を示す。

8. 【概況】「立石関連人物」は,立石人として名前の刻まれている人物を示す。

9. 【録文】にはできる限り原碑の字体を反映させ,空格・抬頭についても,原碑を忠実に再 現している。なお,フォントでどうしても表示ができない異体字については,正字体で移 録した。

10. 【録文】の空格と抬頭については,閲読の便を慮り,【校訂文】では全て削除した。

11. 【釈読案】ではできる限り【校訂文】の句読点に従って現代日本語訳を行い,意味を補う べき箇所には括弧を付して補った。〔 〕は筆者による補足を,( )は直前の語句の説明を それぞれ示している。なお,【釈読案】は原則として常用漢字を用いた。

12. 【語釈】は必要最低限のものにとどめ,とくに明示が必要と思われない限り,個々の成語 の出典などは提示しない。

碑刻①a「大元正議大夫浙西道宣慰使兼行工部尚書渾源孫公先瑩碑銘」(碑陽)

【概況】

碑刻の現状:立。螭首あり。碑身の最下部は埋没しているため,亀跌の有無は不明。碑陰に「孫 氏宗族世譜」が刻される。

サイズ:碑高(碑身の最下部は埋没しているため,確認可能な限りで)328 cm,碑幅121 cm,

寛24 cm(碑首部分の高さは24.5 cm)

篆額:浙西道宣慰使孫公先瑩碑銘

年代:大徳三年夏四月二十三日(1299/04/23)

11)録文については,2008年3月11日にともに 孫公亮墓 を調査した井黒忍氏の録文も参考にして 作成した。録文を共有させていただいた井黒氏に,心からの感謝の念を申し述べる。また,李潤民・

牛貴琥氏の録文からも,同様に多大な学恩を賜ったことを明記する。

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墓主:なし

立石関連人物:正議大夫浙西道宣慰使兼行工部事孫公亮立石;承務郎利器庫提點孫男諧摹勒

【校訂文】

1 大元正議大夫浙西道宣慰使兼行工部尚書渾源孫公先瑩碑銘[1]

2 集賢學士嘉議大夫劉因撰幷書

3 榮祿大夫江西等處行中書省平章政事史弼篆額 4 中統元年,

5 世祖[2]即位,草昧一革,古制寖復。及至元改元,則建官立法,幾於備矣,獨御史臺未立。

於是,今浙西道宣慰使兼行工部事孫公繼明[3],慨然以爲言,不報。五年,以言者益衆,

始立之。故

6 首以公爲監察御史,屢有所彈舉,

7 世祖[4]以硬目之。尋出僉山東東西道提刑按察司事。臺薦其所行知大禮,遷山北遼東道 副使,改中順大夫彰德路總管。既而加正議大夫[5],有今命焉。予始識公於真定[6],於 其言論

8 風旨,已得其所謂良御史者。及其子拱與予交,則又得其[7]出處之詳者如此。然於其名 位赫著,子孫繁衍,則疑其必有發之者,而尚未及知也。一日拱以公之書[8]抵予曰,「先 公以

9 末世之孤裔,奮然爲起家之始祖,使公亮輩[9]得有所沿襲。凡以予曾大父及大父勤德利 物之所致,以隱不仕,今已不可得而攷其迹矣。而先公則資沉鷙豪宕,重然諾,好施予。

画像③ 碑刻①a

(11)

1大元正議大夫浙西道宣慰使兼行工部尚書渾源孫公先瑩碑銘 2

集賢學士嘉議大夫劉因撰幷書

3

榮祿大夫江西等處行中書省平章政事史弼篆額

4

中統元年

5世祖即位草昧一革古制寖復及至元改元則建官立法幾於備矣獨御史臺未立於是今浙西道宣慰使兼行工部事孫公繼明慨然以爲言不報五年以言者益衆始立之故 6

首以公爲監察御史屢有所彈舉

7世祖以硬目之尋出僉山東東西道提刑按察司事臺薦其所行知大禮遷山北遼東道副使改中順大夫彰徳路總管既而加正議大夫有今命焉予始識公於真定於其言論 8

風旨已得其所謂良御史者及其子拱與予交則又得其出處之詳者如此然於其名位赫著子孫繁衍則疑其必有發之者而尚未及知也一日公使拱持書抵予曰先公以

9

末世之孤裔奮然爲起家之始祖使公亮輩得有所沿襲凡以予曾大父及大父勤德利物之所致以隱不仕今已不可得而攷其迹矣而先公則資沉鷙豪宕重然諾好施予

10

年十六七已有志於功名値金貞祐之變即欲應募爲兵其親或難之因逃去謁西京帥謀年以驍勇得近幸時金主南遷謀年帥欲有所奔問而難其人公感激請行見金主

11

於真定得報歸往復二千里甫七日及西京内附

12國朝所置守帥馬侯熟其膽略表授義軍千戸尋復董平山府甲工以從軍潞州之役出其族兄成兄子公政於俘虜鳳翔之役 13太宗詔從臣分誅居民違者以軍法論輒嘆曰誠能脱衆人死實不愛一身況 14主上見問必有以對而未必死邪遂盡匿己所分者河南之役汴既降仍不聽居民自出日餓死不可計遂請於大帥速不歹以渾源名族如御史□氏之戚及莒州刺史盧整同 15

知均州樊氏南京警使王氏張具瞻馬正卿王仲賢王祿楊玉者數十家而出且護而歸之郷里先夫人杜氏亦嚴正有法平山府有妄告工人變者皆力爲營救之賴以全活

16

者甚衆此皆見之太常許君靖所錄行實及郷先賢之所撰紀而先瑩下棺之碑則無以銘之惟有待乎子之言以信於後人也按孫氏世爲州之横山人公之曾大父諱伯娶

17

劉氏四子慶祐慶文慶元祿和慶文則公之大父也娶趙氏有婦德二子威平平早世威即公之考也夙巧慧少出入戰陳毎患世之甲冑不堅壽其婦兄杜伸則考工記所謂

18

燕人能爲函者因密得其法且能創蹄筋翎根別爲之

19太宗親射之不少貫寵以金符故其從征邠乾諸州也見其不避矢石乃勞之曰汝縦不自愛獨不爲甲冑惜乎又命諸將衣其所進甲目之曰汝等孰所愛重諸將各以意對 20

皆不之許曰能扞蔽爾以爲我立功者非此人之甲耶顧無以之對者何也復以錦衣錫之前後所領平山安平諸工人皆俘虜之餘殆少生意數為表給衣廩子女以勸之諸

21

工人至今感之如父母年五十八終於順天安平懷州河南平陽諸路工匠都總管

22帝聞爲嗟惜久之杜氏年八十八下及五世孫疾公率其子拱擏振孫謙諧誼等以問見公佩金虎符拱擏皆佩金符曰吾家起寒微今一門貴盛但當竭忠勤以報 23國家爾言竟卒嗚呼當大變故夫人之與氣運而升降者以人視之非必盡有所以致之者□其與奪之間又未必盡得其平也疑若一□於偶然而已抑不知人之所見者以一 24

世爲終始固不能如天之所見者之久且遠也予固知孫氏之有以發之者也然而公未老尚能盡力

25國家而拱等才且亦皆任事予他日又可以攷其淺深厚薄於此也拱今爲少中大夫大同路總管兼府尹兼管本路諸軍奥魯兼管管内勸農事擏武略將軍武備寺丞振忠翊 26

校尉慶元路定海縣尹兼勸農事謙襲世職從仕郎保定等路軍器人匠提舉諧承務郎利器庫提點誼進義副尉保定等路軍器人匠提舉銘曰

27

昔龍之山有誨而淪必孫氏之先蓋必有嗟其屈者而謂天道之或愆今曄其□華□□□□

28

亦有嗟者謂賦予之或偏彼嗟者愚不究其終而不探其源孰馭龍山游萬物巔

29

渺下視乎神川歴百世而循一環不輊不軒而得夫造物者之權玄鐵符握黄金色寒

30

翠屏雷裂瀚海雲翻有物蕩盡再造坤乾有惻天心莫救其然孰其庇之

31

孰其翼之於此時而保全乘此時而騰騫人皆嗜殺我獨惕焉惟山西之名御史曰雷黙與劉雲

32

都乎相輝一代人聞惟將作君武臣桓桓有子如公復與雷劉之子驄馬聯翩

33

相彼根株有此蔓延窮天地物極天地年又安有不定之天夏蟲疑冰孰大其觀

34

後之嗟者示此銘言

35

大德三年歲次己亥夏四月二十三日正議大夫浙西道宣慰使兼行工部事孫公亮立石

36

承務郎利器庫提點孫男諧摹勒雲中劉昇宋福刊

碑刻①a[録文]

(12)

10 年十六七,已有志於功名。値金貞祐之變,即欲應募爲兵,其親或難之,因逃去,謁西京帥 謀年[10],以驍勇得近幸。時金主南遷,謀年帥欲有所奔問,而難其人。公感激請行,見 金主

11 於真定,得報,歸,授承信尉,擬正班叙仕[11],往復二千里,甫七日。及西京内附 12 國朝,所置守帥馬侯[12]熟其膽略,表授義軍千戸,尋復董平山府甲工。以[13]從軍

潞州之役[14],出其族兄[15]成,兄子[16]公政於俘虜。鳳翔之役[17],

13 太宗詔從臣分誅居民,違者以軍法論,輒嘆曰,「誠能脱衆人死,實不愛一身。況

14 主上見問,必有以對,而未必死邪」。遂盡匿己所分者。河南之役[18],汴既降,仍不聽居 民自出,日餓死不可計。遂請於大帥速不歹,以渾源名族如御史□氏[19]之戚,及莒州刺 史盧整[20],同

15 知均州樊氏,南京警使王氏,張具瞻,馬正卿,王仲賢,王祿,楊玉[21]者數十家而出,

且護而歸之郷里。先夫人杜氏,亦嚴正有法。平山府有妄告工人變者,皆力爲營救之,賴以 全活

16 者甚衆。此皆見之[22]太常許君靖[23]所錄行實,及郷先賢之所撰紀,而先瑩下棺之碑,

則無以銘之,惟有待乎子之言,以信於後人也[24]」。按孫氏世爲州之横山人,公之曾大父 諱伯[25],娶

17 劉氏[26],四子。慶祐,慶文,慶元,祿和。慶文,則公之大父也。娶趙氏,有婦德[27],

二子。平,威[28]。平早世。威,即公之考也。夙巧慧,少出入戰陳,毎患世之甲冑不堅壽。

其婦兄杜伸[29],則『考工記』所謂

18 「燕人能爲函」者[30],因密得其法,且能創蹄筋翎根別爲之,

19 太宗親射之,不少貫,寵以金符。故其從征邠乾諸州也,見其[31]不避矢石,乃[32]勞之曰,

「汝縦不自愛,獨不爲甲冑惜乎」。又命諸將衣其所進甲,目之曰,「汝等孰所愛重」。諸將各 以意對,

20 皆不之許,曰,「能扞蔽爾以爲我[33]立功者,非此人之甲耶。顧無以之對者,何也」。復 以錦衣錫之。前後所領平山,安平諸工人,皆俘虜之餘,殆少生意,數為表給衣,廩子女以 勸之,諸

21 工人至今感之如父母。年五十八[34],終於順天安平懷州河南平陽[35]諸路工匠都總管。

22 帝聞,爲嗟惜[36]久之。杜氏年八十八,下及五世孫,疾,公率其子拱,擏,振,孫[37]

謙,諧,誼等以問,見公佩金虎符,拱,擏皆佩金符,曰,「吾家起寒微,今一門貴盛,但 當竭忠勤以報

23 國家爾」。言竟,卒。嗚呼,當大變故,夫人之與氣運而升降者,以人視之,非必盡有所以致之者,

□其與奪之間,又未必盡得其平也。疑若一□於偶然而已,抑不知人之所見者以一

24 世爲終始[38],固不能如天之所見者之久且遠也。予固知孫氏之有以發之者也。然而公未老,

尚能盡力

25 國家,而拱等才且亦皆任事[39]。予他日又可以攷其淺深厚薄於此也。拱,今爲少中大夫 大同路總管兼府尹兼管本路諸軍奥魯兼管管内勸農事。擏,武略將軍,武備寺丞。振,忠翊 26 校尉慶元路定海縣尹兼勸農事。謙,襲世職,從仕郎保定等路軍器人匠提舉。諧,承務郎利

器庫提點。誼,進義副尉保定等路軍器人匠提舉[40]。銘曰,

27 昔龍之山,有誨而淪,必孫氏之先。蓋必有嗟其屈者,而謂天道之或愆。今曄其□華,□□□□。

28 亦有嗟者,謂賦予之或偏。彼嗟者愚,不究其終,而不探其源。孰馭龍山,游萬物巔。

29 渺下視乎神川,歴百世而循一環,不輊不軒,而得夫造物者之權。玄鐵符握,黄金色寒,

(13)

30 翠屏雷裂,瀚海雲翻。有物蕩盡,再造坤乾。有惻天心,莫救其然。孰其庇之,

31 孰其翼之。於此時而保全,乘此時而騰騫。人皆嗜殺,我獨惕焉。惟山西之名御史,曰雷黙 與劉雲。

32 都乎相輝,一代人聞。惟將作君,武臣桓桓。有子如公,復與雷劉之子驄馬聯翩。

33 相彼根株,有此蔓延。窮天地物,極天地年,又安有不定之天。夏蟲疑冰,孰大其觀。

34 後之嗟者,示此銘言。

35 大德三年歲次己亥夏四月二十三日,正議大夫浙西道宣慰使兼行工部事孫公亮立石。

36 承務郎利器庫提點孫男諧摹勒。雲中劉昇宋福刊。

【釈読案】

1 大元正議大夫浙西道宣慰使兼行工部尚書渾源孫公先瑩碑銘 2 集賢学士・嘉議大夫劉因撰并書

3 栄禄大夫・江西等処行中書省平章政事史弼篆額 4 中統元(1260)年,

5 世祖が即位されると,〔国家の体制が〕いまだ整っていなかった状態がひとしく革められ,

いにしえの制度がしだいに復興された。至元に改元されると(1264年),官制や法がたて られ,ほぼ完備したが,ただ御史台のみがいまだ設立されていなかった。そこで,今の浙 西道宣慰使兼行工部事の孫公継明(孫公亮)が,憤然として〔その設立を〕上言したが,

採用されなかった。〔至元〕五(1268)年,上言する者がますます多くなったため,はじ めてこれを設立した。〔はじめに設立を進言した〕ために

6 まず公を監察御史とされると,しばしば弾劾検挙を行い,

7 世祖はこれを気骨があるとされた。ついで外任の僉山東東西道提刑按察司事となった。御 史台は公が典礼をよく理解して実践していることを推薦し,山北遼東道〔提刑按察〕副使 に転任し,〔それから〕中順大夫彰徳路総管に改められた。正議大夫を加えられてから,

現職についている。私は真定ではじめて公と面識を得たが,その意見

8 や態度には,いわゆる良御史としてのそれがそなわっていた。その息子の拱が私と交遊す るようになってからは,さらにその詳しい由来もこのように知ることができたのである。

しかしながらその名声と地位が輝かしくもあきらかで,子孫が数多いことについては,お そらくその端緒となることが必ずあったのだろうと考えていたが,それでもそれを知るに はおよんでいなかった。ある日拱が公の書を持って私のところに来て言うには,〔公亮が 書中で述べるには〕「先公(孫威)は

9 末世に寄る辺を失った身でありながら,奮い立って官員の家の始祖となり,公亮らにもそ の〔官員の家としての〕しきたりに従うことができるようにしていただいた。これはおし なべて私の曾祖父および祖父が徳を修めて万物に益したことがもたらしたものだが,〔曽 祖父と祖父は〕徳を隠して出仕しなかったので,今はもうその事跡を考究することができ なくなってしまった。しかるに先公は資質として内に秘めた勇猛さに雄大な器量をもち,

一度請け合ったことは必ず実行し,施しを好んだ。

10 16,7才で,すでに功名に志を立てていた。金の貞祐の変(チンギス・カンの金国侵攻。

1211年)にあたり,すぐさま〔募集に〕応じて兵士となろうとしたが,親が反対したので,

そのため〔家から〕逃げ去り,西京(大同府)の守将の謀年に謁して,驍勇により近しく 目をかけられた。当時金国の皇帝は〔それまでの首都燕京を放棄し,〕南遷して〔開封へ

(14)

と向かっており〕(いわゆる「貞祐の南遷」。1214年),謀年将軍は急ぎ指示を仰ぎたかっ たが,〔使者の〕人選に悩んでいた。公は心に感じて奮起して行くことを請い,金主(金 国の皇帝,宣宗。在位1213-1224)に

11 真定で見え,返答を得,帰ったが,承信〔校〕尉を授けられ,正規での任用に擬えられた。

往復2000里で,わずか7日であった。西京が

12 国朝に帰附すると,配置された守将の馬侯は〔公が〕剛胆で才略があることをよくよく知 り,義軍千戸を授けることを明らかにし,またさらに平山府の鎧造りの職人たちを監督さ せた。その職位で潞州の役に従軍し,その族兄成と兄の子の公政を俘虜の中からなんとか 解放した。鳳翔の役では,

13 太宗は身の回りの臣下に詔して居民を分担して誅殺させ,命に背いた者は軍法にかけるこ ととしたが,〔公は〕すぐさま嘆いて,「もし皆を死地から逃れさせることができるならば,

我が身などまことに惜しくない。まして

14 主上に問われたならば,必ず〔自分の考えを〕お答えできるはずで,〔それが聞き入れられ る可能性があるのだから,〕必ずしも死ぬと決まったわけではないではないか」と言った。

かくて自らの分担となった者たちを全て匿った。河南の役では,汴(開封)が降伏してか らも,住民に城から出ることを許さないままであったので,毎日数え切れない餓死者がで た。そこで大帥スベエテイに願い出,〔金末の監察〕御史雷淵の親戚,莒州刺史盧整,同 15 知均州樊氏,南京警使王氏,張具瞻,馬正卿,王仲賢,王禄,楊玉なる者のような渾源名

族の数十家を〔城から〕出し,その上護衛して郷里に帰した。先夫人の杜氏も,また厳正 で模範となる人であった。平山府で職人がよからぬ企てをしていると根拠もない告発が あったが,骨折って様々な手段を講じて助けてやり,幸いにも命をつないだ

16 者は非常に多かった。これらはみな太常許君靖が錄した行実と,郷の先賢の撰した紀に見 えるが,先瑩に埋葬するにあたっての碑には,銘文が書かれていませんので,ただあなた のお言葉をお待ちして,子孫への証とします」。按ずるに孫氏は代々〔渾源〕州の横山の 人で,公の曽祖父の諱は伯,

17 劉氏を娶り,四人の息子がいた。慶祐,慶文,慶元,禄和である。慶文が公の祖父である。

趙氏を娶り,〔趙氏には〕婦徳があり,2人の息子がいた。威と平である。平は夭折した。

威が公の父である。早くから手先が器用で,若くして戦場働きをしたが,ことあるごとに 世の中の鎧が堅固でなく長持ちもしないことを憂えていた。その奥方の兄の杜伸は,〔『周 礼』冬官〕考工記にある

18 「燕人は鎧をつくることができる」という者で,それにたよって密かにその技を会得し,

その上で動物の腱〔の用途〕や羽飾りについて別に創意工夫したところ,

19 太宗が御自らこれを射ても,少しも貫通しなかったので,金符をめぐまれた。ゆえに邠乾 諸州(現在の陝西省)への遠征に従軍し,〔太宗が,公の〕矢石をものともしないさまを ご覧になると,そこで労っておっしゃるには,「汝がたとえ我が身を大切にしないとしても,

どうして〔汝が製作する〕鎧のために〔汝の身を〕惜しまないでいられようか」。さらに 諸将に命じて〔公が〕進呈した鎧を着させ,目配せして,「汝らはどんなところが気に入っ たか」とおっしゃった。諸将はそれぞれの意見を申し上げたが,

20 〔太宗は〕そのどれもみとめず,おっしゃるには,「汝の身を護り我がために功績を立てる のは,この者の鎧ではないのか。かえりみるに,こうした返答をした者がいなかったのは なぜだ」。ふたたび錦衣を公に賜った。前後して統べた平山,安平の職人たちは,みな俘

(15)

虜の出であり,生活の糧はごくわずかであったので,しばしば文書をたてまつって衣類を 給与し,子女に食糧を与えて励まし,

21 職人たちは今でも父母のように感謝している。58才で,順天安平懐州河南平陽諸路工匠 都総管として没した。

22 皇帝はこれを聞くと,久しくその死を惜しんだ。杜氏は88才で,〔子孫は〕下は5世孫 にまで及び,病に伏すと,公はその息子の拱・擏・振,孫の謙・諧・誼らを率いて見舞っ た。〔杜氏は〕公が金虎符を佩び,拱,擏もみな金符を佩びているのを見ると,「わが一族 は貧賎から身を起こし,いま一門は貴盛です。ただただ忠勤を尽くして

23 お上に報いなければなりません」とおっしゃり,言い終わると亡くなった。嗚呼,大いな る変遷(王朝交替)にあたって,夫人が運命とともに紆余曲折を経たことは,世間の有様 からみれば,必ずしも全てそうなるべき理由があったのではなく,その毀誉褒貶…,いま だ必ずしも全て公平とはいえないのである。おそらくは,全くの偶然より…しただけで,

そもそも他人の見たことも知らず

24 一生を終えるようなもので,もともと天が久遠を見通すようにはできないのである。私は もともと孫氏〔の発展には〕その基を開いた者がいたことを知っていた。かくて公はいま だ老いず,なお

25 お上に力を尽くし,拱らも才覚があってみな職務を担っている。私は他日また彼らの出来 不出来についてここ(碑刻)に考究できるだろう。拱は,いま少中大夫・大同路総管兼府 尹兼管本路諸軍奥魯兼管管内勧農事。擏は,武略将軍・武備寺丞。振は,忠翊

26 校尉・慶元路定海県尹兼勧農事。謙は,世職を承襲し,従仕郎・保定等路軍器人匠提挙。

諧は,承務郎・利器庫提点。誼は,進義副尉・保定等路軍器人匠提挙。銘じて曰く,

27 むかし龍山で,姿を隠していたのは,必ずや孫氏の祖先である。その運が開けないことを 嘆く者は必ずおり,あるいは天道の誤りではないかと言う。いまその□華を喧しくし,…

28 また嘆く者があり,その天性の資質があるいは偏っていると言う。その者は愚かであり,

その結末を究めず,その源を探っていないのだ。誰が龍山をおさめ,万物の頂にあそんだ のか。

29 はるか下に神川を視て,百世を歴してひとめぐりした。低からず高からず,造物者の権を 得た。玄鉄の符は握られ,黄金の色は冷たかった。

30 青々とした山々に雷が炸裂し,北方の沙漠に雲は翻った。全ての物は尽き果て,再び坤乾 をなした。天の心を悼むも,その状態を救うことはなかった。誰がこれを庇い,

31 誰がこれをたすけたのか。この時に保護して害を受けさせず,この時に乗じて高く舞い上 がった。人はみな殺戮を好んだが,我はひとりそれをおそれた。おもうに山西の名御史は,

雷黙と劉雲といった。

32 みなあい燦然とし,一代に広く知れ渡った。将作君は,武臣として赫々たる武威をもった。

公のような子があり,また雷・劉の子と〔同様に〕御史として活躍している。

33 それぞれの根源は,このように伸び広がった。天地の物を窮め,天地の年を極めており,

またどうして定まらない天がありえようか。浅い知識で,誰がその素直で謙虚なさまをたっ とぶのか。

34 後の嘆く者に,この銘を示して言う。

35 大徳三年歳次己亥夏4月23日,正議大夫・浙西道宣慰使兼行工部事孫公亮が立石した。

36 承務郎・利器庫提点孫の諧が摹勒した。雲中の劉昇・宋福が刻んだ。

(16)

【語釈】

[1]大元正議大夫浙西道宣慰使兼行工部尚書渾源孫公先瑩碑銘

劉因『静修先生文集』巻十六所収の同文(以下,『文集』と略称)の原題は「中順大夫彰徳 路總管渾源孫公先瑩碑銘」。執筆から立石の間に族人の出仕・昇進などがあったため,『文集』

と原碑の間には,下に示すように,かなりの文字の異同がある。

[2]世祖

『文集』は「今天子」に作る。

[3]繼明

『文集』は「公亮」に作る。

[4]世祖

『文集』は「天子」に作る。

[5]中順大夫彰徳路總管。既而加正議大夫

『文集』はこの16字を欠く。

[6]真定

『文集』は「鎮州」に作る。

[7]其

『文集』は「其」字を欠く。

[8]拱以公之書

『文集』は「公使拱持書」に作る。

[9]輩

『文集』は「輩」字を欠く。

[10]西京帥謀年

不詳。チンギスの金国侵攻の初期に,西京を拠点として防衛にあたったのは,紇石烈胡沙虎

(紇石烈執中,?-1213)であった。紇石烈胡沙虎は1212年に山西と河北北辺方面のモンゴル 軍を一旦撃退した後に燕京に凱旋し,時の皇帝衛紹王(在位1208-1213)を弑逆。その後に自 らも配下の朮虎高琪に殺される〔牧野1988:2-9〕。紇石烈胡沙虎が燕京に赴いた後の西京に ついては,記録に乏しく詳細を明らかにできない。関連史料に紇石烈胡沙虎を「謀年」と呼ぶ 事例は確認できず,これは紇石烈胡沙虎の後任者を指すと思われる。そうだとすれば,孫威が 兵卒として金軍に入った,あるいは「驍勇」ぶりを評価されたのは,紇石烈胡沙虎が西京大同 府を離れた1212年後半以降ということになる。

[11]授承信尉,擬正班叙仕

『文集』はこの9字を欠く。金代には承信校尉は正七品の武散階。

[12]守帥馬侯

不詳。上記語釈[10]でも述べたように,モンゴル・金戦争の序盤以降の,西京大同府の 状況は模糊として明らかでない。おそくとも1218年までにはモンゴル軍の前に陥落したと考 えられるが〔牧野1987:13〕,その後モンゴル軍のどのような将領がこの都市に駐屯したのか,

明らかでない。むしろ本碑は,かかる空白期間について言及する,貴重な史料だともいえよう。

[13]以

『文集』は「以」字を欠く。

[14]潞州之役

モンゴルと金国との戦争の間に,両軍は潞州とその周辺地域をそれぞれ何度か占領している

(17)

が,1224年9月には金国が潞州の守備を放棄し,残存の軍民を真定に移住させている〔高橋 2004:53〕。孫威が従軍した「潞州の役」とは,それ以前のモンゴル軍による攻勢のいずれか を指すだろう。なお,潞州で族兄と兄の子を俘虜から救い出しているが,碑刻①b「孫氏宗族 世譜」では族人の何人かが「潞州に遷って所在がわからない(遷潞州不知所在)」と記されて いる。おそらく孫威が大同で金軍に参加する前後に,少なからぬ族人が潞州に移住し,そこで 現地の金軍に参加,あるいは徴集されたと考えられる。こうしたことからみると,後掲の「孫 氏宗族世譜」は文字通り,金末の戦乱で一度は分散した渾源孫氏を,モンゴルに仕えることで 隆興したその子孫が総括するために刻されたものであることがわかる。

[15]出其族兄

『文集』は「力出其伯父」に作る。

[16]兄子

劉因「中順大夫彰徳路總管渾源孫公先瑩碑銘」は「族兄」に作る。

[17]鳳翔之役

『元史』巻四十二,太宗本紀三年辛卯春二月条によれば,オゴデイ・カアンの治世の第三

(1231)年の2月に,モンゴル軍は鳳翔を攻略している。

[18]河南之役

オゴデイ・カアンによる金国征服の最終段階である,1232年からの,黄河以南の金国残存 領域に対する遠征を指す。この結果,当時の金国の首都であった開封は1233年に陥落し,そ れを逃れて蔡州に逃れた金国最後の皇帝哀宗も,1234年の蔡州陥落時に自害することになる。

[19]御史□氏

『文集』は欠字部分を「雷」に作る。至寧元(1213)年の進士で,金末に監察御史となった 渾源出身の雷淵(1184-1231)を指すと思われる。

[20]之戚,及莒州刺史盧整

『文集』はこの9字を欠く。莒州刺史盧整については不詳。

[21]同知均州樊氏,南京警使王氏,張具瞻,馬正卿,王仲賢,王祿,楊玉 いずれも不詳。

[22]之

『文集』は「之」字を欠く。

[23]太常許君靖 不詳。

[24]也

『文集』は「也」字を欠く。

[25]諱伯

『文集』はこの2字を「某」とする。

[26]劉氏

『文集』は「何氏」とする。碑陰の「孫氏宗族世譜」も,伯の夫人を「劉氏」としている。「何 氏」とされた理由は不詳。

[27]婦徳

婦人としての貞節。婦言・婦容・婦功とともに,『礼記』昏義篇にある,婦人としての四つ の徳目のひとつ。

[28]平,威

『文集』は「威,平」に作る。

(18)

[29]杜伸

孫威の義兄であった以外は詳細不明。

[30]燕人能爲函者

出典は『周礼』冬官考工記「燕に鎧が無いのは,鎧が無いのではなく,その人々が鎧を製作 できるからである(燕之無函也,非無函也,夫人而能為函也)」。

[31]見其

『文集』は「攻拔」に作る。

[32]乃

『文集』は「帝」に作る。

[33]爲我

『文集』は「爲國家」に作る。

[34]五十八

『文集』は「若干」に作る。

[35]順天安平懷州河南平陽

『文集』は「平陽河南懷州順天」に作る。

[36]惜

『文集』は「恨」に作る。

[37]振,孫

『文集』は「振等,諸孫」に作る。

[38]□其與奪之間,又未必盡得其平也。疑若一□於偶然而已抑不知人之所見者以一世爲終始

『文集』はこの37字を欠く。

[39]尚能盡力國家,而拱等才且亦皆任事

『文集』は「事業尚未既,而拱有才氣,謙既以能世其業,而奏隷東宮,而諧亦頴悟」とする。

[40]拱,今爲少中大夫大同路總管兼府尹兼管本路諸軍奥魯兼管管内勸農事。擏,武略將軍武 備寺丞。振,忠翊校尉慶元路定海縣尹兼勸農事。謙,襲世職,從仕郎保定等路軍器人匠提舉。諧,

承務郎利器庫提點。誼,進義副尉保定等路軍器人匠提舉。

『文集』はこの96字を欠く。

碑刻①b「孫氏宗族世譜」(碑刻①aの碑陰)

画像と録文は次ページ及びp.80〜81を参照。

碑刻②「大元故正議大夫浙西道宣慰使行工部尚書孫公神道碑銘并序」(残碑)

【概況】

碑刻の現状:地面に倒れた際か,あるいはなんらかの人為的な手段により断裂したと考えられ る。現在はもともとの碑刻のごく一部の破片のみが,碑陽を表にして,半ば地面に埋もれて いるのが確認できるほか,その他の破片については所在不明。

サイズ:碑高(破片の上の頂点から断裂した下の先端まで)104 cm,碑幅(破片の左端から 最も右の断裂した先端まで)78 cm,寛(埋没しているため)少なくとも6 cm。

篆額:不明

年代:大徳四年秋以降(1300-)

墓主:孫公亮 立石関連人物:不明

(19)

【校訂文①】

1 雲朔□//

2 之里,并汾多□//

3 孫公其人也。公諱□//

4 氏業,繕治堅密,出新意□//

5 太祖聖武皇帝經略中夏,總攬//

6 太宗朝,從征秦晉,惻民被屠戮//

7 太宗異其風骨,曰,此兒他日必//

8 衆亦以通材許之。庚子歳,襲父職//

9 定宗朝□□□□□□□□□□//

10 憲宗特賚貂裘,仍勅繼稱父賜□//

11 世祖皇帝在潜邸,上命歳輸百//

12 私財,製甲冑□□襲以獻。天顔//

13 濟不給,諸局廩□自此始。又考制度,定程//

14 荷所□□,以人材抱負諭之,干將補衲,寶//

15 不遑有待,士諭偉之。五年,憲府肇建,特拜監察御史,□□□□□上諭大夫塔察//

16 一時選,較夫多識朝廷故事,洞達諸色情狀,材氣足以投赴事機,威望可以懾服豪//

17 自是風生白筆,氣凌霜簡,論列無虚日。時宿衛鷹房憑恃城社,頗縦恣,在他人弗措手者//

18 砍伐爲薪。公痛繩之以法,至知所畏避。上聞而以能目之。八年考滿,憲長奏公自//

19 □□□□時選擢正爲此,爾可再任,俾矜式新進者。既而察□爲外事□還西川行者□//

画像④ 碑刻①b

(20)

碑刻①b 孫氏宗族世譜

(21)
(22)

20 咥死□葬且給□□□□爲□五十仍奏治其罪。十年夏,宣授金符武德將軍簽山//

21 □姦貪者必置於法,州郡惴惴,奉約束惟謹,褰惟具瞻,有風動百城之目。東平路監□出//

22 □□□者十數輩,曽無一語護援,及去復伸餞禮,博德高唐耆老貯香于頂□□□□□//

23 畏服可知已。十二年,□□北遼東道提刑按察副使。遼東境土曠遠,諸王營帳□//

24 □氣□□□□□遼親王近侍五人,劫居民□□,□□□之,有司不敢究,民來//

25 □□□□□□□□□□□□□□□□□□百□□□□□□□□□□□//

26 □南北衢會,民物繁夥,自昔爲□朔名□,□□煩□,視□路□倍□□□□□//

27 □□□重膺民社,迺究竟利病,□□□□□以三事躬請於朝。其一□//

【校訂文②】『秋澗先生大全文集』巻五十八に同文が収録されているため,その全文を示す。な お,太字は原碑との重複部分。行数は暫定的に付したものである。

1 雲西[1]風土雄碩,龍山峻極,爲之奠焉。渾流交貴,神川[2]清淑,資其潤焉。故士生其間,

有瓌奇宏傑之稱,而劉,

2 雷[3]爲之冠焉。然山川炳靈,奚間今昔。況河洛爲帝王之里,并汾多攀附之臣。儷景風雲,

依光日月者哉。若乃

3 始以材技,有光世緒,終則挺輸忠藎,作時名卿,安榮福壽,慶流後裔者誰乎。故宣慰使工 部尚書孫公其人也。公

4 諱公亮,字繼明,世家渾源横山里。曾祖諱伯,大父諱慶文,咸勤力務本,不耀其光。顯禰 諱威,爲人跅弛不覊,早

5 以功名自熹,少有巧思,肄函人氏業,繕治堅密,出新意於法度之中。方太祖聖武皇帝經略 中夏,總攬豪傑,

画像⑤ 碑刻②

(23)

6 貯除戎具爲亟,迺挾所業投獻,上賞其能應時需,賜名也可兀闌[4],錫佩金符,充諸路甲 匠總管。太宗朝,從征秦

7 晉,惻民被屠戮,屢以蒐簡工匠爲言,賴全活者衆。顯妣杜氏,主内務有綱紀,嘗辨雪工徒 質逆之誣,因之脱死。

8 公生漠北[5],年十許歳,總匠君挈之入覲,太宗異其風骨,曰,「此兒他日必大享用」。蒙 賜御饌,自是得出入禁

9 闥矣。及長,資英明,多藝能,慷慨有大志,練習國典,通暁譯語,所交皆一時豪雋,衆亦 以通材許之。庚子歳,

10 襲父職,佩銀符。定宗朝,換金符。歳進課精,例賜錦幣,憲宗特賚貂裘,仍勅繼稱父賜名。

世祖皇帝在

11 潜邸,上命歳輸百鎧,有中七矢而不貫者,其堅完如此,及南征,果獲用。中統建元,授都 總管。上北征,駐昔没

12 敦[6],公出私財製甲冑六十襲以獻,天顔喜甚,錫銀笏□□□□□□忠結,□□□□命領 諸路雜色一□奏出□

13 女四十,妻工之鰥者,歳支衣糧,贍濟不給,諸局廩給自此始。又考制度,定程式,作諸路 恒法,公自承嗣選材

14 □下,招亡恤弱,出私財以代公費,□□獲而□軍興,至蒙賞進秩,可謂盡心所事,克荷所

□□。以人材抱負諭

1雲朔□//

2之里并汾多□// 3孫公其人也公諱□// 4氏業繕治堅密出新意□//

5太祖聖武皇帝經略中夏總攬//

6太宗朝從征秦晉惻民被屠戮//

7太宗異其風骨曰此兒他日必//

8衆亦以通材許之庚子歳襲父職//

9定宗朝□□□□□□□□□□//

10憲宗特賚貂裘仍勅繼稱父賜□//

11世祖皇帝在潜邸上命歳輸百// 12私財製甲冑□□襲以獻天顔// 13濟不給諸局廩□自此始又考制度定程// 14荷所□□以人材抱負諭之干將補衲寶// 15不遑有待士諭偉之五年憲府肇建特拜監察御史□□□□□上諭大夫塔察// 16一時選較夫多識朝廷故事洞達諸色情狀材氣足以投赴事機威望可以懾服豪// 17自是風生白筆氣凌霜簡論列無虚日時宿衛鷹房憑恃城社頗縦恣在他人弗措手者// 18砍伐爲薪公痛繩之以法至知所畏避上聞而以能目之八年考滿憲長奏公自// 19□□□□時選擢正爲此爾可再任俾矜式新進者既而察□爲外事□還西川行者□// 20咥死□葬且給□□□□爲□五十仍奏治其罪十年夏宣授金符武德將軍簽山// 21□姦貪者必置於法州郡惴惴奉約束惟謹褰惟具瞻有風動百城之目東平路監□出// 22□□□者十數輩曽無一語護援及去復伸餞禮博德高唐耆老貯香于頂□□□□□// 23畏服可知已十二年□□北遼東道提刑按察副使遼東境土曠遠諸王營帳□// 24□氣□□□□□遼親王近侍五人劫居民□□□□□之有司不敢究民來// 25□□□□□□□□□□□□□□□□□□□百□□□□□□□□□□□//

26□南北衢會民物繁夥自昔爲□朔名□□□煩□視□路□倍□□□□□//

27□□□重膺民社迺究竟利病□□□□□以三事躬請於朝其一□//

碑刻②[録文]

表 2 モンゴル時代先瑩碑一覧 ※  立石の契機:a 家門の顕彰, b 故人の顕彰, c 遷墓 / 改葬, d 祖先への追封, e 祖瑩の拡張, f 新たな先瑩の造営, g 碑刻の下賜,h 自らの昇進,i 祖瑩の昭穆の記録 ※  立石者・墓主・碑刻の被賜者の官位:数字に大文字(9A)は文官,数字に小文字(9a)は武官,O は流外官。 ID 著者と名称 年代 地域 家族名 世代数 典拠 契機 出典 系図 職位 付記 1 元好問「斉河劉氏先瑩碑記」 1228 - 57 斉河県 劉氏 3 n/a c 民国『斉河県

参照

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