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資料 2 補 論

ドイツにおける私立学校法制の歴史的展開 [1 ]はじめに

一国の教育制度全体の中で私立学校が如何なる位置づけを得ているかは、その国の教育 の在り方の根幹にかかわる問題でもある。教青史が示しているように、本来、教育は各家 庭や個人の f私事jであり、その「私事jの組織化としての学校も、原良JIとして私立学校 として発生し、発展してきた。国家〈公権力)が教育や学校に関与し、いわゆる公立学校 が整備されてくるのは、西欧諸国の場合概ね

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世紀以降のことになる。この場合、国家(公 権力)が、私人ないし立的団体の意忘と資金に基づく私立学校に対して示す姿勢(剖えば、

拡立学校の認可条件や私立学校での教育が国家基準にどこまで拘束されるべきかといった 問題)は、問時に公立学校とそこでの教育の内容と特質をもほぼ規定するものとなった。

つまり、国家(公権力)と私立学校の関保構造は、公立学校制度、ひいてはその国の教 育制度全体の構造や特質と表裏一体の関係にある問題なのであり、私立学校とそこでの教 育の営みが如何なるものであるのか、そしてそれと国家(公権力)が如何なる関係を構築 すべきかという問題は、同時に公立学校とそこでの教育の営みの内実にも重大な影響を及 ぼすことになるのである。その意味で、悲立学校に関する研究は教育学研究上の重要な領 域を形成するものとなると吉えよう。

ところで、平成6年度の学校統計によれば、我が国には幼稚園から大学まで17,

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校も の私立学校があり(全学校数の約2割)、在籍者数で見れば、特に幼稚園では約80%、短 期大学では約95%、大学では約73%がそれぞれ弘立学校に在籍しており、我が国の学校教 育が量的には私立学校に大きく依存していることが知れる。しかし、こうした私立学校の 量的比重の大きさにも関わらず、独自の教育観や教育方法に基づいて、公立学校では行え な得ないような自由で創造的な教育実践を提供するという、私立学校の本質的存立基盤と も苦うべき「独自性j という点では、我が国の怠立学校がその使命を十分に果たしている とは必ずしも言えない現状がある。むしろ、「歴史的にも現状においても私学教育の独自 性は相対的に乏しく、多くの私学は基本的には国公立学校の量的補充をその存在理由とし てきているといっても過言ではない。J(結城,

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p . 2 6 5 )

とさえ、指摘されている。

しかし、こうした我が国の私立学校に顕著に見られる独自性の希、薄さとしづ問題は、私 立学校とその教師の独自性追求の努力不足を問題にする以前に、私立学校の独自性の意味 と必要性、さらにそれを現実に保障するための前提条件とも言うべき法的・制度的諸条件 に関する学問的追求の蓄積の貧しさにこそ帰せられるべきなのではないだろうか。我が の私立学校に関する最も基本的な法律である「私立学校法J

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年制定)の第1条は、「こ の法律は、私立学校の特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高めることによっ て、怠立学校の健全な発達を図ることを目的とする」と規定している。この場合、ともす ると従来は、私学助成との関連から私立学校の「公共性Jが主たる論議の対象とされ、本

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京 一

来学問的に論議され深化されていくべき私立学校の f特性Jや「自主性」の法的・制度的 側面の検討は何故か等関視されてきた感が強い。このため、文部省の学習指導要領に従っ て教育課程を編成し、教員の採用や生徒の受け入れも公立学校のそれと間じ基準とするこ

とが、私立学校の「公共性j を示し公費助成を可能にする「免罪符Jともなっており、

立学校がその f特性Jや「自主性Jを発揮できる余地は、義務教育段階の場合には、小中 学校における「道徳Jを f宗教j に代えることぐらいしか残されてはいなし¥。

一方、 ドイツの私立学校はこうした我が国の状況とは些か趣を異にする。 ドイツでは国 立. (つまり州立)が原則となっている大学教育はもとより、どの教育段階においても公立 学校が量的には大半を占めており、職業教育学校以外の普通教育学校の場合、私立学校が 占める割合は生捷数で約5.8010  (1986年時点)にとどまっている (Fuhr,1988, S. 203) 

勿論、私立学校の庄倒的多数はキヲスト教会(特にカトリック教会)によって設置される 教会系列の学校となっているが、その他にお世紀初頭以来の改革教育運動(新教育運動) の流れを汲む私立学校があることが特筆されるO その中でも、日本でもよく知られるよう に な っ た シ ュ タ イ ナ ー 学 校 (Steiner  Schule,見JI名:自出ヴァルドノレフ学校, Freie  Waldorfschule)や田園教育舎 (Landerziehungsheim)系列の学校が特に重要な役割を果た

しているo

例えば、周知のように、シュタイナー学校は、国(各州)が定める教育課程の基準と泣 全く異なる独自の教育課程を繕成し、低学年では教科書さえ使用しない独自の教育活動を 行っているが、公立学校と問等の権利を行使できる正式の学校として国家の認可も受けて いる。このことは何もシュタイナー学校に銀らず、国が定める学習指導要領(Bildungsplan合) は、私立学校にとっては「単なる清報J(nur  Information)にすぎないとされていること に象徴されるように(結城, 1988, p.302)、 ドイツにおいては私立学校における教育活動 の自由が法的・制度的にも保障されている。しかも、この拡立学校における自由で創造的 な教育の実践活動が、ただ単に私立学校の内部に終始せず、 ドイツの会立学校の在り方を も 変 革 す る 司jr激Jや「模範Jとしての役割も果たしていることに注目しなければならな い(天野, 198 ,1 p.  120121)

1960年代以降のドイツの学校改革(学校民主化)において理論的立場から大きな影響を 与え続けたへノレムート・ベッカー (Hellmut Becker, 1913‑1993)は、こうした公立学校制 度の改革における怠立学校の役割を次のように述べている。

「私立学校における自由はドイツ教育審議会の教育行政改革(勧告)の中で、公立学校 のための強化された自治として要求されていたことにほぼ対応しており、またさらには、

法律家会議の委員会がこの問題で提案していることから想起されることにも法ぼ対応し ているということは、興味深く見ることが出来る。国家学校と紅立学校との距離が絡ま るという発展領向が明らかになることは重要である。何故なら、明らかに共同の公共的 機能という枠組みの中においては、間様の自由と同様の自律、同様の自治が意味のある ものとなるからである合こうして、私立学校は、国家学校のための自治モデルとなるの であり、照時に私立学校はその拡事性を引き合いに出して、公共的資{壬を回避すること

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もできないのである。j (Becker, 1988, S. 36lf. ) 

このヘノレム…ト・ベッカーの主張に端的に示されているように、私立学校に保障される 自由、例えば生徒及び教師の選択の自由、カリキュラムの自由、教授方法の自由など

(忍己cker,1991, S.169) と、それを基盤とする豊かな教育英践は、 ドイツの公立学校改革 の 方 向 性 を 提 示 し た ド イ ツ 教 育 審 議 会 の 幾 多 の 勧 告 や ド イ ツ 法 律 家 会 議 (Deutscher jristentag)の学校法委員会による教育法草案 (Entwurf知 εinLandesschulgsetz,1981) 

などに見られる学校の自治構想、の現実的根拠、モヂルを提供するものであった(Ibid.,S.  171)

以上の簡単な比較からも知れるように、「国公立学校の量的補充をその存在理出j とし ているとまで君われ、その「特性J

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自主性Jを必ずしも十分に発揮できないでいる日本 の私立学校に対して、 ドイツの私立学校は量的には掻めて例外的存在でさえあるものの、

その独自の自由な教育活動の実践を過して公立学校制度の改革のための f原動力J(Hefe,  Ibid., S.170) としての機能も果たすことで、極めて重要な「公共的責任j も担っていると

えるのである。

では、以上のようなドイツの教育制度全体における私立学校の独自の在り方は、何故に 可能となりまた如何にして形成されてきたのであろうか。本稿は、以上のような背景と課 題意識の下に、 ドイツにおいて私立学校とその法制度が教育制度全体の中で如何なる位置胡 づけをされてきたのか、その歴史的展開を後づけようと意図したものである。これまで、

我が国におけるドイツ私立学校の研究としては、シュタイナー学校や間関教育舎などの個 別の私立学校の教育臣的や教育方法が主たる関心を集めてきた。しかし、それら私立学校 の活動を基礎づけていた法的・制度的側面の検討は等閑に付されてきた。それは上述のよ うな、告本の私立学校の「特性J

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主体性j を法的・制度的な点で如何に保障すべきかと しづ問題がほとんど検討されてこなかった状況と符合している。その意味で、ウィーンの シュタイナー学校が国家の認可を受けて「公的権利Jを獲得する過程を検討した広瀬の研 究 (1994)は、新しい萌究の方向性を示すものであり、本研究を進める上で大きな刺激と なった。

以下、本論においては、教育(学校)に対する国家関与が本格化し、公立学校と私立学 校の区別が明確になる18世紀以降、ボン基本法を受けて私立学校の権利保障の整備が開始 される1950年代までを中心にして、 ドイツの私立学校とその法的・制度的展開過程在検討 することにする。

[2J学校の発生と国家的規制の開始

‑r

私立学校J概念の形成一

[2 ‑1  J

中世および宗教改革時代のドイツの学校制度

「私立学校J(Privatschule, private  Schulりという呼称ないし概念は、「公立学校j

(offentliche  Schule)としづ呼称、ないし概念を前提として成立する。つまり、私立学校と

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しづ概念が法的・制度的に形成されてくるのは、君主ないし国家(公権力)が教育活動や 学校への関与を開始し、公立学校の整備に乗り出した18世紀の絶対主義の時代ということ になる。従って、この18世紀以前の時代では、公立学校や私立学校といった概念が明示的 には適用できない、教育目的や教育水準を異にする多様な学校が存在したにすぎない (H kel,S.  13)。しかし、この18世紀以前のドイツの学校制度の展開にも、 18世紀に顕 著になる国家権力による学校への関与に繋がるいくつかの重要な端緒を確認することがで きる。

ドイツに限ちず広くヨ一口ッパにおける学校制度は、 4世紀以降の中世時代におけるキ リスト教会の活動にその基礎を置いている。すなわち、キリスト教の普及と平行して、教 は翠職者の養成の必要性から教育活動の組織化に努力する。特に聖ボニファティウス (Bonifatius, 673754)や翠ガノレス (Gallus,560‑650) らによる諺道践の建設は、問時にド イツにおける最初の学校であるいわゆる「修道院学校J(K1osterschulり の 開 設 も 意 味 し ていた。この 7世紀頃からの修道院学校の設立とほぼ関じ時期に、 f司教座聖堂学校J (Domschule)や「中央教会学校J(Stiftsschule) といった教会学校も設立されていった。

キリスト教会によって設立され運営される教会学校に対して、世俗権力による最初の統 制の試みが、フランク王国のカール大宥 (Karlder Grose)によってなされた。彼i立、 794 年の「布告J(Edi泣)および802年の f勅 令J (Kapii紅白日)によって、聖職者養成の百的 のみならず、一般の民衆教育のためにも教会学校が設立されるべきことを命じている。開 じく彼は、 789年のアーへン宗教会議においても、教会に対して学校を設立して、一般民 衆を教育すべきことを命じている。こうしたカール大帝の命令によって、既容の教会学校 が拡張されるとともに、一部では新たに「教区学校J(Pfarrsch叫りも設立されている。

カーノレ大帝の試みは、世俗権力(国家)が教会学校の利用という形態をとりつつも、一般 教育への配慮、に着手し、それを自らの課題としてみなした最初のもので、あった (pmer,

1970, S.17)。

中世の後半になると、カトジック教会や領邦君主から相対的に独立した地位を保障され た都市が登場し、そこでの生活の必要性から新たな学校形態が生まれた。まず、都市の公 共的行政の遂行を担当する官吏(書記、法律家など)の養成を目的として、遅くとも13世 紀の末には f都市学校J (Stadtschule)、fラテン語学校J(Lateinschule)ないし一部は「参 事会学校J(Ratsschule) とも呼ばれた学校が成立した。これらの都市学校は、教会学校 を模倣して作られ、当初は教師の大半も聖職者で占められていたが、日世紀になると世俗 の教師も車用されるようになった。また14世紀には大都市において、主として商工業者の 教育の必要性から、「ドイツ語審き方・読み方学校J(Deutsche Schreib undLeseschule)  が設立されている。このいわゆる「ドイツ語学校j は、ラテン語教育を主な教育内容とし た都市学校(ラチン語学校)とは異なり、文字通りドイツ語の読み書き教育を目的とした 下級学校で、あった。

都市学校およびドイツ語学校は、大半の場合、都市参事会 (Stadtrat、都市行政の中経 機関)の意思と財源、によって設立・運営されており、その意味でこれらの学校は既に f一 種の公的な性棒j を保持していた (Spranger,1949, S.14)。しかし、ここで看過できない

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ことは、こうした「公的な性格Jの学校と並んで 、多くの都市においては、私的な自発性 により設立・運営される、その意では私立学校の端緒的形態とも言うべき学校が遅くとも 15世紀末には存在していたこと、そしてこの私的な自発性に基づく学校の運営を都市参事 会が引き継ぐ場合も見られたことである。

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隅の学校J(Winkelschule) とは、かかる私的 な自発注により設立・維持された学校のうちで、都市ないし教会当馬によってその設立の 認可が付与されていない無認可の学校への蔑称、であった(pmer,1970, S.19, Heckel, 1950,  S.13f.) 

1515年、マルチィン・ルターによる句5箇条の意見書j の発表に端を発した宗教 改革は、以後のドイツの学校制度の在り方にも大きな影響を与えた。まず、宗教改革によ る社会的混乱の中で、数多くの修道院や教会およびそれらに付髄していた教会学校が破壊 され、また都市のラテン語学校やドイツ語学校の多くも生徒数の減少により閉鎖を余犠な

くされた (p見 出 合r,1970 S.21)0 信仰義認論および盟書中心主義の宗教観に基づき、万人

に対する教育の必要性の認識を抱いていたルターにとって、こうした学校制度の破壊状態 は重大な危機的状祝で、あった。ノレターが、害額(例えば1524年の「ドイツの全ての都市参 事会員に与える事、被等がキリスト教的学校を設立し維持すべきであるということについ てJ)や説教(例えば1530年の fその子を学校に通わせるべきことについての説教J)の中 で、全ての子どもへの教育の必要性と子どもを強制的に就学在せることは政府の権限と課 題であることをど幾度も強調した背景には、彼自身の宗教観・教育観と同時に、学校制度のが 崩壊という現実への対処の必要性があった。

宗教改革の過程では、領邦君主を教会の首長 (summa e

scopus)に据えるいわゆる領 邦教会制(Landeskirche)が形成され、教会首長としての領邦君主によって、領内におけ る 教 会 お よ び 学 校 制 度 の 整 備 を 目 的 と 内 容 す る 教 会 規 則 (Kirchenordnung)や学校規則 (Schulori lung)が数多く制定されていった。例えば、後のプロイセン王国の前身のプラ ンヂンブルク選挙侯閣のヨアヒム二世(ルター派)が1540年に制定した「教会規則J (Kirchnorlungim Churfursthen der Marken zu Brandeurg,wie man sich beide mit der  Leer und Ceremonien halten so ,1lBer1in  1540))には次のような学校規定が含まれていた

(田中, 1969, p.  34) 

「キリスト教を改革し、維持し、そして永続的な統治と秩序と借仰をもたらそうとする ならば、まず青少年から始めなければならぬ。凝り掴まって融通のきかない考え方をす るようになった老人は殆ど用をなさない。それゆえ、青少年をゆるがせにする者は神の 裁きを免れぬであろう。キリスト教告仰とよき治安の維持のために、青少年在学校に入 れて教育することはきわめて必要なる事柄であるにもかかわらず、学校は久しく甚だし き衰微に陥っている。ゆえに、朕はここに、すべての都市とマルクにおいて学校を再興

し、改革し、改善し、面してそれの必要な管理と維持がなされんことを者認する。J

た、これら領邦君主による教会規則(学校規則)の中で、牧師は地域の全ての子ども たちに宗教教育を施すこと、およびキュスター (Kuster、教会の雑用係)はその際の手助

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