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間安問地階地区総合研究棟新常
[!JIに伴う健婦調査
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竃の設置位置はすべて北辺倒であり 、共通している 。
くその他の遺構 〉
21号火葬菖(図
13)3
号竪穴住居祉の北部1.
5mのところで検出した土師器の艶形土器と須恵器の大型型の破片を利用 した蔵骨器である 。長さ
1m、幅50c
mあまりの
2つの穴が連接したような土坑を掘り、その一つの 基底に円い扇平な大型礁を敷き、さらにその上部にもう 一段の廓平礁を敷き、その上部に土師器聾の 鹿骨器を置いている。そして、その周囲を石で囲むように配 i 世した後、須恵器誕の破片で蓋をして、
石で押さえている。検 出時には、すでに石町重みで慣れており、土師器楚も割れ、内部にあった蝶骨 が一部外側に溢れていた 。従来は復元図(図
13)のような埋葬法であったと考えられる 。
蔵骨器に使用された型形土器は口径
27cm、器
iui24cmの薄手の器壁を も っ(図
13'1)。蓋に使用 された須恵器琵の破片は底部付近の破片であり、長さ
34cm、幅
24cmである(図
13'2)。
(4)
出土遺物
遺構出土品 ( 図
14. 15)については、すでに述べているので、省略する 。図
16: 54‑61はピットや 単独出土の古代の土姉器須恵器である 。図
16ωは寛永通宝、同
61は鉄鎌である。同
62は布目瓦 (平正)片である 。 このほか、各迫術や包古厨から、弥生時代中期中ごろを中心とした聾形土器の口 縁部片が検出されている(図
16:63‑69)。原位置をとどめていないが、本調査地 点西側の
9704割査 地占では核問の艶柑墓群が検出されており、古代に造成される 以前はこの一帯にも弥生時代の追摘が 存在した可能性がある。また、各遺構の盟土および
13師上而の包宮崎から縄文時代後期前半と後期末 を中し、とした土器片 3 0 点あまりが出土した(図
16:73‑93)。である。 後期前半(北久根山式)に遡 る資料も若干存在するが、中むとなる時期は、天城式 古閑式 l 町のもので、小破片ではあるが、同期
の深鉢形土部や浅鉢形土器類が出土している
。鼎 HI~石製およびチャート製の剥片とともに、後期後半
の九州系の玉の事材となるクロム白雲母岩の小片 ( チッ プ)が出土している。
( 5 )まとめ
今田町捌査では縄文時代娩!聞から近世末までの遺構 遺物を検出した。その中でも重要な成果とし てはやはり古代官遣の側溝と考えられる
8'9号講を検出したことであろう 。 これらの構は
9ω3調査 地占の東側にこれらに対応する側構が摂い占から推測すると、古代官道の延長部にあたる可能性が商 い。 この可能性の信感性は
9曲
3調査地点で検出された方形区画の東西辺町構がこの
2本の側溝を越え て本調査区内まで延びていないという事実から一層高くなる。両調査地点の問の状況が不明なので断 言はできな いが、この区画は先に予想
Lた宮置の西側溝に取り付〈可能性がでてきた。しかし、東西 方向の区画としては
12'13号構や
10・
11号海のように別の区画が存在したことを示
Lている。
10・
11号構は道路に取り付く脇道の側溝である可能性もあるが、削平と
5号滑によ って破壊され、
8'9号 構との関係は不明である 。
12. 13号構は
8.9号砕を切ってお旬、時期的に下るものであるが、調査 区の途中で
5号 i 昨に辿なる近世の構である可能性が高〈、この辺路を取巻く一帯の区闘がどのような 状況で、しかもどのように変遷したのかについて は、今佳より面的な閥査が継続きれなければ明確な 判断は下せない。 しかし、少なくとも東西南北を基調とした土地区画は、 この付近に限って言えば、
近世末まで継換されていたことは
5号構の存在から明らかである 。
この一帯は内川町河川敷と台地を隔てる段丘麗縁に位位しており、駅関連施設が存在したとすれば.
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