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——ピクトリアリズムとストレート•フォトグラフィー ——

はじめに

ポンティングの写真に確認できる姿勢は、事物を鮮鋭に捉える線、および、前景から遠景まで全てに ピントを合わせるパンフォーカスを用いて表現するという姿勢である109。このようなポンティングの写 真スタイルは、写真家としての生涯を通して一貫して行われたものであった。他方、写真家アルフレッ ド•スティーグリッツ(Alfred Stieglitz, 1864–1946)もまた、ポンティングと同じようにカメラが写しだす鮮 鋭な線とパンフォーカスを用いた表現を行った一人である110。しかし、スティーグリッツとポンティン グでは、その写真スタイルへ到達するまでの過程と表現方法において違いがあった。スティーグリッツ は、写真家として活動をはじめた初期においては、ソフト•フォーカスを用いていたが、1900年代後半 になると自然の線を明確に表現するために、パンフォーカスを用いるようになる。それは、ストレート

•フォトグラフィーへの彼の写真スタイルの転換を意味していた。

ポンティングや 1900 年代後半になってからのスティーグリッツが行った、ありのままの風景を明確 に写し出すという表現は、今日ストレート•フォトグラフィーと呼ばれている写真スタイルと類似する。

写真史において、ストレート・フォトグラフィーとは、一般に絵画を模倣せず、被写体を鮮明で詳細に 再現し、現実を正確に記録することを基礎としている写真を指す111。それは、1880年代半ばからヨーロ ッパで活発になっていた写真を芸術として社会に認めさせるための運動であるピクトリアリズム

(Pictorialism)を経て行き着いた写真のスタイルであった112

しかし、ピクトリアリズム運動における写真の芸術性に対する理解や定義は、曖昧なものだった。そ のために、美を主張する主題や表現を追い求めすぎ、明確な線の描写、詳細な被写体の再現、目の前に ある一瞬の時間を記録するという写真の特性が軽視されるようになっていく。さらに絵画を模倣するよ うな表現の傾向も強くなっていったという113。しかし、写真の特性である線の明確な描写や光による表 現が無視されている状況を危惧し、写真の特性を尊重すべきだと主張する写真家たちも次第に現れはじ める。そして、ストレート•フォトグラフィーが認識されるようになったのである。ストレート•フォト グラフィーという写真スタイルは後に、報道写真の基礎となる。加えて、第1章で取り上げた写真家ア ダムスが自然の崇高さを表現した際に用いた写真スタイルもまたストレート•フォトグラフィーだった。

写真家たちが芸術性を模索していた時代、芸術の解釈は様々であった。たとえば、写真家ヘンリー•

ピーチ•ロビンソン(Henry Peach Robinson, 1830–1901)のように写真は鮮明であるが、絵画を模倣し、印画 紙を切りコラージュのようにして作品とする者や、写真家ピーター•ヘンリー•エマソン(Peter Henry

Emerson, 1856–1936)のように自然を題材にし、ソフト・フォーカスを用いて作品とする者がいた114。そ

して、1890年代になるとそれまで高い評価を受けることがなかったアメリカの写真界でもピクトリアリ ズム運動が起る。

アメリカにおいてピクトリアリズム運動を推進したのが、他ならぬスティーグリッツであった。彼は、

アメリカの写真界における色調の欠如と独創性の無さについて問題視した115。色調の欠如とは濃淡が単 調であることを示している。アメリカにおける写真の傾向は、ほぼすべてが単調な黒か白によって表現 されていたということであろう。それは写真技術の未熟さをも暗に示唆している。さらに独創性に関し ていえば、アメリカの写真家たちは、田舎の風景、人体、肖像といったありきたりの題材ばかりを取り 上げていたのである。このような写真界の現状に落胆したスティーグリッツは、アメリカでしか撮影で きない題材にこだわり、写真技術の向上を目指した116

イギリスやアメリカにおいて、ピクトリアリズムに関する議論や運動が頻繁に行われていた頃、ポン ティングは、風景写真家として活動を始めた。しかし、彼は、写真の芸術性に関する議論には一切参加 しなかった117。たしかに彼は、ステレオスコープによって画像を立体化させるステレオ写真に興味をも っていた。日本の風景を撮影したステレオ写真も数多く残している。しかし、それは、彼が、視覚的効 果だけに興味を示し、写真の芸術性に関心がなかったからではない。第 1 章でもすでに述べたように、

実際にこの写真家は、芸術にも深く興味を持っていた。それは、自らをフォトグラファー(Photographer) とは決して呼ばず、かわりにカメラ・アーティスト(Camera Artist)と呼んでいたという彼自身に対する認 識に明確に示されている118。同じことは、彼の撮影姿勢からも理解できるだろう。たとえば、富士山の 写真では、自らが求める瞬間を撮影するために富士山頂に1週間滞在し、その瞬間をカメラに収めたと いう119。このように、彼は、シャッターを切る瞬間を選ぶことに妥協することはなかった。つまりカメ ラを完璧に使いこなし、その表現力を最大限にいかせる芸術家になろうとしたのである120。この写真家 は、スティーグリッツが作り出す写真界の流行とはかけ離れた場所でカメラ本来の表現力を尊重し、現 在の視点からすればストレート・フォトグラフィーと呼ぶことのできる写真を撮影していた。

本章では、エマソンの時代からスティーグリッツの時代におけるピクトリアリズム運動とストレート

•フォトグラフィーの概念を時代背景として扱う。そして、スティーグリッツと照らし合わせながら、

ポンティングの表現に対する姿勢について論じていく。そのために、ストレート•フォトグラフィーを 生み出すきっかけとなったピクトリアリズム運動、ストレート•フォトグラフィーの概念、そしてステ ィーグリッツのストレート•フォトグラフィーへの解釈とその過程について詳しく整理することから始 めていきたい。

1. スティーグリッツの略歴

まずはスティーグリッツの略歴から見ていこう。スティーグリッツは、1864年にアメリカに移住した

ユダヤ人系の家庭に生まれた121。1883年にカメラを購入した彼は、ベルリン大学で写真科学を学び、実 験室の助手として写真の実験をはじめる。1890年にニューヨークに戻る。

彼が1890年以降に所属した写真団体は、アメリカン・アマチュア・フォトグラファー協会(1891年)、

ニューヨーク・カメラ・クラブ(1896)、イギリスのリンクト・リング(Linked Ring) (1894)である122。リン クト・リングは、イギリスのピクトリアリズムを推進する団体であったが、スティーグリッツは、アメ リカ人で初のリンクト・リングの会員となった。1890年代から1900年代におけるピクトリアリズムを 推進する団体では、リンクト・リングと、フォト・セセッションが勢力を二分していたが、フォト・セ セッションはリンクト・リングに比べて写真表現の実験などをさらに積極的に行っていたという。そし て、スティーグリッツが編集に関わったのは、ニューヨーク・カメラ・クラブの機関誌『カメラ•ノー ツ』Camera Notes (1897)であった。

このような写真活動を経て、スティーグリッツは、1902年、写真団体であり、写真運動でもあるフォ ト・セセッション(Photo-Secession)を結成し、『カメラ・ワーク』Camera Workを刊行する123。この写真 家は、アメリカにおいて写真の芸術性を高めるためには、まず写真界自体に活力を与える必要があると 考えた。そして、そのためには積極的に写真の展覧会を行い、さらにアメリカ的な写真、つまり、ニュ ーヨークの鉄筋の橋などを撮影することで、アメリカ独自の写真の芸術性を目指したのである。このよ うにして創設されたのが、フォト・セセッションであり、このような運動もまたフォト・セセッション と呼ばれている。フォト・セセッションとは、本来、写真における過去の商業的、及び科学的な側面か ら決別し、芸術性を求めることを目的とした集団であった。さらに、1917年までフォト・セセッション のギャラリー「291」を運営する124。1946年に83歳で亡くなったスティーグリッツの作品は、現在ニュ ーヨーク近代美術館の永久保存コレクションとして認定されている。

2. 先行研究

すでに述べたように、ポンティングについての先行研究は、アーノルドによる伝記『ハーバート・ポ ンティング伝』やポンティングの写真集『新たな世界』が残されている125。しかし、彼が撮影した写真 について詳しく分析をした研究は現在見つかっていない。

スティーグリッツの先行研究を見ていこう。小林(2005)は、スティーグリッツの提示するピクトリ アリズムとは、絵画化した写真ではなく、絵画と同等のものとして扱われる独立した芸術であるとして いる126。そして、田野(2002)は、1890年から1905年のスティーグリッツの活動を考察し、この期間に彼 が写真を芸術まで高め、認知させることを目標とし活動していたと述べている127

さらに今度は、スティーグリッツやポンティングが活躍した 1900 年代のアメリカにおける芸術につ いて確認してみたい。トラクテンバーグ(1989)は、1900年代の芸術表現について「視覚芸術のあるべき

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