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—— アメリカ人女性ジャーナリスト、シドモアとの対比 ——

はじめに

本章では、アメリカ人ジャーナリストで写真家のエリザ・ルアマー・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore,

1856–1928)を比較対象とし、日本の工芸職人へ向けたポンティングの視点について論じていく。

ポンティングは、野外における撮影に長けた風景写真家であったが、京都では、伝統工芸の工房とい う室内で細かな作業をする職人も写真に収めている。この写真家が来日した時代、たとえば今のフィル ムにあたる感材などは、撮影者自らが作らなければならなかった。そのため、乾板の安定度が低く、適 切な露光時間を見極めて画像を得ることは難しかった。室内での撮影になれば、野外より暗く、その一 方、窓からの光は明るいために、明暗の差が大きくなる。撮影者にはさらに高い力量が求められたであ ろう。しかし、ポンティングが撮影した室内の写真からは、現像、焼きなどを含め優れた写真技術をも って機材を操作していたことが確認できる。

シドモアは、1884 年から1928年までの間に幾度も日本を訪れ、1891年には著書『シドモア 日本紀 行』Jinrikisha Days in Japan を出版している355。シドモアを比較対象とするのは、彼女がポンティング と同じ工房を二ヶ所訪ねて記録を残しており、その記述には、当時の西洋において、日本の工芸に対す る評価に大きな影響を与えたアーツ•アンド•クラフツ運動(the Arts and Crafts Movement)のイギリス人家 具職人でデザイナーのウィリアム・モリス(William Morris, 1834–1896)や、ジャポニスムの展開に寄与し たイギリス人工業デザイナーで植物学者のクリストファー・ドレッサー(Christopher Dresser1834–1904) からの影響が見られるためである。たとえばシドモアは、想像力を用いて作品を制作するのではなく、

西洋人に媚びるように華美な装飾を施す職人の姿勢を批判した。そこには、職人による美の備わった日 用品の重要性を唱えたモリスの思想と、美を意識せずに作品を作るべきではないと考えるドレッサーの 思想が反映されていたと言えるだろう。

シドモアのような先人たちの工芸に対する見解を背景に、ポンティングは日本を訪れた。彼は、シド モアのように物珍しい日本人の職人の姿に目を向けながら、そのような物珍しさを鑑賞者の目を引くた めの手段として自分の写真に取り込み、鑑賞者の興味を本来ポンティングが持つ被写体への着目点へ導 こうと試みた。たとえば、世界でも知られていた七宝作家並河靖之(1845–1927)の肖像写真には、並河の 個性を表現するためにレンズに入り込む光を調整し撮影した様子が窺える。このように撮影機材を操作 する姿勢からは、彼が独自の視点で被写体を解釈し表現しようと試みていたことが理解できる。風景写 真家にとって慣れない室内で撮影機材を操作し、一瞬のうちに並河という人物の人間性を表現すること

は容易なことではなかったにちがいない。

本章では、シドモアの記述と対比させることで、日本の工芸職人に対するポンティングの独自の視点 と被写体の解釈を明らかにする。その前提として、まずは万国博覧会への日本の取り組みとその評価、

ヨーロッパにおける工芸及び職人に対する考えについて整理する。そして、錦光山工房の職人と、七宝 作家並河靖之を扱い、先人たちと同じように日本や日本人に対する珍しさに目を向けながらも、工芸や 職人に対する当時の評価を超えて、ポンティングが彼自身の見解を表現する姿勢があったことを示すこ ととする。

1. シドモアの略歴

アメリカ人女性ジャーナリスト、作家、そして写真家のシドモアは、ワシントンに日本の桜を植樹す るということに尽力したことで知られている356。1873年にオハイオ州にある私立大学に入学し、2年間 在籍した。その後、ワシントン D.C.で新聞記者として見習いをしながら、ニューヨーク•タイムズ紙に 記事を書いていた。彼女は、1885年から1928年の間に幾度も日本を訪れ、1891年には著書『シドモア 日本紀行』Jinrikisha Days in Japanを出版している。兄が外交官だったこともあり、日本では、その地位 を利用し、様々な場所を訪れる機会を得た。また、写真の雑誌『ナショナル•ジオグラフィック』National

Geographic を出版しているナショナル•ジオグラフィック協会の最初の女性役員であっことでも知られ

ている。1928年にスイスのジュネーブで亡くなっている。

2. 工芸を中心に見る時代背景

2.1. 国際万国博覧会と日本への興味:日本の製品と職人

明治時代、日本は自国の製品を宣伝するという目的で海外の博覧会に積極的に参加し、また国内にお いても勧業博覧会などを開催していた357。その回数は、合計25回になるという358。ここでは、1873年 のウィーン万博と1876年のフィラデルフィア万博を中心に日本の製品と職人について整理していく。

明治政府が初めて公式に参加したウィーン万博は、オーストリアの文明と世界の経済の現状を示し、

経済の発展を称揚することを目的としていた359。万博への参加の際に明治政府は、機械などの近代技術 では他国に到底かなわないと考えた。そこで、優良な伝統工芸品などを中心に出品することを選んだ360。 それらの出品物にはたとえば、青銅、漆器、陶器、七宝などがある。特に、ウィーン万博における日本 の主要な出品物の一つであった七宝は、万博で日本側の顧問を務めていたドイツ人化学者ゴットフリー ド•ヴァグナー(Gottfried Wagner, 1831–1892)の推薦によって、はじめて博覧会に出展された。そして、そ の図案や精密な技法は、ヨーロッパの七宝家たちを驚かせ、注目を集めたと言われている361。このよう

にウィーン万博では、日本の七宝や漆器は優良出品物として高く評価され、また多くの賞を得たのであ る362

ウィーン万博での成功のもと、1876年のフィラデルフィア万博においても、日本は、工芸品を中心に 展示し、日本製品を宣伝した363。フィラデルフィア万博では、出品物を西洋向けにするようにという指 示を明治政府が出したとされている364。しかし、西洋向けの作品制作を重視し華美な装飾が施され、日 本の伝統的なデザインが失われていたことで、工芸品の質の低下を指摘されることになる。これは、殖 産興業を推進しようとする政府の姿勢の表れであった。そのような中でもフィラデルフィア万博が最初 の海外での出品となった並河靖之の七宝は、銅賞を受賞した。本章で取り上げる並河にとってフィラデ ルフィア万博は、その後の国際博覧会参加への足がかりとなったと言えるだろう。

また、万博には、陶器などの工芸品以外にも、日本の文化を紹介するために、観客が楽しむことがで きる会場設営もされていた。フィラデルフィア万博の出展物や渡米した関係者についてまとめた報告書

『米國博覧曾報告書 第二』によれば、日本家屋と売店が出品物として展示され、これらを建築するた めに合計9名の職人たちがアメリカに渡ったという365。ウィーン万博に続き、フィラデルフィア万博で も、会場に建築された日本家屋や日本庭園では、実際に、来場者がお茶を飲んだり、建物の中に入った りすることができるようになっていた366。西欧人は、日本の建物のみならず、大工などの仕事の様子や、

使っている道具などにも関心をもったという367

1876 年に出版された『フランク・レスリーのフィラデルフィア万国博覧会の歴史的記録、1876 年』

Frank Leslie’s historical register of the United States Exposition, 1876は、フィラデルフィア万博の記録を挿 絵とともにまとめたものである368。それらの挿絵には、日本家屋を建てる職人たちが、鋸を用いたり、

鉋をかけたり、手斧を用いたりする様子と、それらの作業工程を経てできた材木を実際に組み立てる様 子が順番に紹介されている369。もちろん、日本人以外の人々が会場設営等の作業をする様子も挿絵とし て紹介されているが、職人の技術と道具について詳細に順を追って説明されているのは、日本の職人だ けであった。

さらに挿絵には、日本の職人たちが焚き火で暖をとる姿、食事をしたり、睡眠をとったり、宿舎で話 し合いをしたりする様子も描かれている。西欧人は、日本の職人の作業だけでなく、かれらの日常にも 着目したのである。このことは、日本人が使う大工道具や技術が他国とは異なっていたということだけ でなく、日本の職人が「異国の職人」としても西欧人の興味を引く対象であったことを示していると言 えるだろう。

このような職人たちへの視点には、ヨーロッパ及びアメリカで広まっていたアーツ・アンド・クラフ ツ運動や、ジャポニスムの思想の影響があったと考えられる。そこで、以下で二つの思想を取り上げて、

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