弘前大学教養部「文化紀要」第33号第2,1991年
離 以
右依有嘗流弓道之志 上
而許輿初勘之巻畢
弥可被童精意者也 四部之離
附切梯別券
嬰鵡之離三生之離
…
一 一一一一 一 一一 一 一 明ナ 一 一 一 一品
ー・
.
* t p ,
1 s t
島'¥
弘前大学教養部「文化紀要」第33号第2,1991年
九 月
朱印写真※
ω
偉 花 押 喜 214
八木橋左太夫殿
注
ω
笹森勘解由左衛門︒津軽第四代藩主信政の時の石堂竹林流弓術の師範︒本間民部左衛門匡隆の高弟︒寸本間民部左衛門匡隆﹂はもと寸木村典膳﹂と云って紀州候に仕え禄三千石︒子細あって同士を打果し浪人︑松浦鎮信候の客分であった
のを元禄一五年(一七O二)二月津軽第四代藩主信政に禄五百石で召し抱えられ︑後に二百石加増して七百石となる︒
三国
神秘
弓道
の達
人と
云わ
れる
︒(
一ゴ
一一
段
t醐
耕一
一見
詰一
唯一
一
‑
A
一一類﹄)高弟として二戸三之助︑中畑孫兵衛︑笹森勘解由左衛門が数えられる︒
ω
斎藤新五兵衛喜傭︒笹森勘解由左衛門の高弟で石堂竹林流弓術の師範︒慶長年間津軽藩初代為信に抱えられた︑もと越後の浪人斎藤掃部介助則の七代の孫︒斎藤小左衛門喜澄の二子︒享保二年(一七四二)八月隠居して寸射祐﹂と改名︒
かねてから石堂竹林流弓術の皆伝が済んでいたので師範となった︒明和五年(一七六八)一一月八日病死︒
ヘ青森県文化財保護協会福﹃津軽J戸藩旧記伝類﹄三九四頁︑既出︑この伝書の年記が宝暦二年(一七五二)であるので隠居後の伝授であるが︑まだ寸射祐﹂を名乗っていない︒
あとがき
かつて八戸市在住のとき︑旧八戸藩の菩提寺・月渓山南宗寺(師同⁝都府)住職田口豊洲氏(故人)の主唱する仏教育
ほぽ
一
0
年間︑禅の手ほどきを受けた︒田口氏は京都花園臨済宗大学卒業後︑鎌倉円覚寺の専門道場
年会に入門し︑
で朝日奈宗源師について修行した人ではあるが︑南宗寺の参禅会では︑例年︑埼玉県野火止にある平林寺の円臆老師
弘前大学教養蔀「文化紀望書J第33号 第 九 1991年
を招き指導をいただいていた︒指導をいただいていたと去えば問えは良いが︑自分の場合は︑実は魂が欝いるがる程
鉄槌を被っていたのである︒参禅とは︑
e独り独り者揮のもとに勢じ︑心の在り様を按摩し︑厳しく点検を受けること
であ
った
︒
一年自にして瀬く老師から﹁拘子無仏悲しの﹁公案しを盟されたが︑疑著のまま弘前市に転註となっ
禅入門の前から出八戸藩の武芸古文欝告解説していたが︑兵法と心法の接点に得心できず苦渋の日が腕いていた︒
刊本として沢崎の通称﹃不動智神妙繰へ耕生宗矩の
薪 免
武藤の﹃五輪番恥広取り組
む日目でるった︒しかし未だ来だ殆ど得心できなかった︒八戸市から弘前市に移る頃︑その接点の模様について︑少
しは明るくなったという荒がしていた︒
今問︑弘前藩士︑当回流太万の修行者と思われる戸田茂太夫の筆写本﹃剣街︑む法神妙録﹄を判読し︑その原典﹃不
動智神妙録﹄に再び相対し︑また棺接することとなった︒
いま自分にとって﹃不動智神妙録﹄とは︑兵法と心法の接点を説く欝というより︑兵法と心法の融合の在り様忙つ
いて︑繰り返し繰り返し︑懇切丁帯広場み砕いて説いている欝と受ザ止めている︒ただしこの説き方は︑仏道から先
ず心の在り様を︑次いで﹁貴殿(欝生宗矩﹀の兵法にて申すべく設しとか﹁貴殿とたへて申せばしというよ
うに兵法の在ち様を例示し︑そのことによって両者の融合性・如性の関践を期待する方法?ある︒これは吋不動智
神妙録﹄の特織といってよいのかも知れない8この方法は注意しておかなければならない︒確かに柳生宗短誌︑沢山崎
を師として兵法と心法に関根し︑を書き残した︒以来この書は﹁柳生新陰流しの典範となった︒
しかし︑例えば右の次第のように禅僧を師とし︑露草と説く心法に度も接することなく︑ひたすら兵法の韮極を
215
求め
て︑
如に開援し︑自由話連な心境に達した兵法家もいる︒その代表的
︿歳
)
⁝十
を越
えて
跡を
お
その果てにおのずか‑心法の融合
人物として新免式譲を挙げることができる︒武蔵は司五輪書﹄﹁地
に﹁
(議
絡﹀
弘前大学教幾部「文化紀要J第33母第2,1991年
216
( 勝﹀
てかつにはあらず0・をのづから滋の器用ありて天理をはなれざる故か︑又は他流の兵法不足
その後なおもふかき道理を得んと続鍛タ鍛してみれば︑をのづから兵法の道にあふ事︑我五十歳の比な
り︒夫より以来は噂入るべき道なくして光陰を送る︒兵法の理にまかせて諸芸諸能の道となせば︑万事におゐて我に も
ひ見
るに
︑
なる所に
師匠なし︒(以下略ごと書き残した︒
兵法はもともと︑命の断涯に立って始めて生み出すことのできる街技の体系であり︑ぞいわば心法の深
一体在なす︒ぞれ故に︑武臓の﹁を
の
と
の現にまかせてLの
てもよく︑これは武臓の融合一如を示す貴重者一一諮と云わなければならな
い︒彼は﹁兵法の期一にまかせてし警に親しみ絵を書き︑仏像を彫った︒
武議の﹃五輪書﹄の年記は正保二年(一六四五)︑そして同年没︒祭矩の﹃兵法家伝書﹄の年記試正保一一一年︿
ム ハ 四
六)︑そして同年没︒両者とも死線をのり越えた実戦の経腫をもち︑兵法をもっった開時代人である︒しか
し︑宗矩は徳川家兵法師範となり︑部・沢臓のをひとつの契機として関娘し︑武議誌野に下りなが
ι
身を沈めることによって遂に開眼した︒そ円札せよ︑問者は兵法・心法の融合一如を極めた天下の双壁であった︒
﹃不動智神妙録﹄が﹁剣の至妙の境地は禅のそれと一致するという︑いむゆる難禅一如の思想を多くの事例を挙げて
説いた法論であり︑剣禅一如︑弓捧一如など︑あらゆ'る武装や芸能の一つの思想的ルl
ツし
であ
ると
︑
の解説の一簡を引用しべた︒このこ
いと
し
にま
た
し3
に凝視する必要のあることにも触れておなければならないだろうと思う︒
つ
また︑吋不動智神妙録﹄が京矩の兵法開眼の契機となり得たのは︑宗矩自身に沢轄の説く心法の真意を受りとめるだ
弘前大学教養部「文化紀要」第33母第2,19計年
けの高い術技と︑それを更に高めながら自分の工夫開発した術技をも含めて︑柳生新陰読の全体系掠りに日夜腐心し
ていたという実態があったから北外ならない︒
今聞紹介した資料のうち﹃剣術心法神妙録bの諒典︑通称叶不動智神妙録﹄をとりあげ︑弘事を濡えて期晃の一端
を述べてあとがきとした次第である︒ご九九
O
年一月
五呂
﹀ 217
弘前大学教養部 I文化 紀要」第33'j‑第2,1991"‑1'
... 闘 . .
219