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ドキュメント内 律 』 冊 子 本 (ページ 57-63)

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作法︑先陣一陣ノ分︑右同前也︒但シ︑馬上ニ鎗ヲ持テ突 合ヒタリトモ鎗トハ不云一陣ハ一陣︑先陣ハ先陣トパカ

リ云ブモノ也︒

写真仙鎗脇太万之夏

『武律」 のこの頁以後になると、と くに左側の方が判読できなし) 0

一︑懸口︑請止メ退口ニ不限︑鎗ヲ合スル兵

ニツ

ゾキ五人六

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真写

人一一テモ万ヲ抜テ鎗脇ヲ詰メ︑力ヲ添ルヲ鎗脇ノ太万ト云ブ︒況ヤ鎗下へ飛込ミ敵ヲ切梯フハ大成ル誉シ也︒但シ︑

鎗脇詰ル兵多クシテ三人四人一一不過モノ也︒子細ハ大方鎗ヲ口口口(以下数行破損甚だしく不詳)

鎗脇弓之夏

(ほこさき)一︑鎗合スル兵一一ツゾキ︑弓ヲ持テ掛リツ﹀鎗脇二v一チ︑敵ノ勢掛ル枝先ヲ矢次ギ早一一射口カシ︑鎗合スル兵‑

一カ

添ルヲ鎗脇ノ弓ト云フ︒但シ︑時ニヨリ鉄砲一一テ鎗脇詰ル事モアリ︒鎗脇ノ弓鉄砲ハ幾人一一不限ナリ︒左云ブテモ

多クハ又ナキモノ也︒古ヨリ五六人ヨリ多キハ不問︒

163 

鎗下高名之夏

弘前大学教養部「文化紀要」第33号第2,1991年

一︑鎗脇ヲ詰ル兵一一テモ︑又ハ後ヨリ走リ績キタル兵一一テモ︑

164  万ヲ抜テ鎗合ス最中一一飛込ミ切伏セテ鎗合ス下一一

テ首ヲ取 ルヲ鎗下ノ高名ト云フ︒但シ︑味方ノ鎗合ス兵ノ鎗付タル 首ヲ鎗ノ兵討取ルモ同前ニ鎗下ノ高名ト云フ︒敵味方少シ

モ不退︑勝負ヲ決スル最中一ごア取リガタキ首故一一賞翫スル

也︒鎗下ノ功名モ三人四人有ル事モあり︒又一人モナキ事 モ可有︒但シ︑敵モ味方モ惣テ手ノ先ヲ掛ケ虎口へ出テ鎗 ヲ合スホドノ剛者︑唯今ヲ限リト白刃交ヒ死生ヲ一ツ口口

写真側

口(以下数行破損甚だしく判読不能)

『武律』の後半部分は、和紙が綿 のように「塊」となっている。

写真側

ω

虎口︒虎の口とも云う︒一般には非常に危険な場所を指して云う︒城攻めのような場合には︑守る側からはその城の入

口で最も守りの堅い区域︑攻める方からすれば︑逆にここが一番危険の場所で︑生命を失う率の高い場所となる︒

ω

カセギ︒命をかけて働くこと︒

ω

録︒兜の鉢の下端に設けられ︑前面を除き︑頚のまわりを覆う防具︒

ω

勇め︒寸奮い立たせ﹂の意︒

ぽく間遠北︒遠くまで逃げてゆくこと︒

おも側面も不振︒寸後ろをふり返ることもなく﹂の意︒ 的 シ ダ ル ク

0 1

ねばり強く﹂の意︒

ω

白ミテ︒﹁勢いがにぶって﹂の意︒

倒シタリトモ︒とんでもないことであるけれども︒

弘前大学教養部下文化紀要」第33号第2,1991年

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HM シタリ︒﹁よくやったL

の態

嘩ト︒特裂な読み方で︑多くの人の一時に高く両を出す醸の

葉武者︒木の葉のようにうろたえる武者︒兵︒

鋒︒軍勢の先端又は中央︒

( )

ムラ捧り︒一一団となっての攻撃︒臨針︒しおどき︒

解説1

︑ 本 資 料 は 写 本 で あ る が

︑ も と も と 誌 が 息 男

の所在は不明であるの司近世武道文離詰

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トザ)は︑

網羅した文戴目録であるが︑﹃武律﹄という書名は載っていない︒

あったのかも知れない︒

ちなみに︑伊勢貞丈(ぽ時計一刊誌土手一一

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安藤

月麓

筆・

巻之

十八

の説明がある︒ や家間

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授け

た童

一一

回と

なっ

てい

る︒

ただ

しこ

の栗

νでなく別の饗名で

/)司軍師高名﹄の項に次

独身のかせぎは鑓を合ずるそ第一とす︒総じ

来伐の諺に去ふ︑其の品川端あり︒所謂一番

鑓︒是にさし続きたる鋤き倒梨あり︒一番乗︑乗込鑓︑蕗太刀鑓︑脇弓︒

叡て高名︑捉討高名︑山朋謹の高名︑場中高名︑凡そ縄問に叡て鑓にてなき品十五カ条あり︒祖しイスヤリと訟ふ︒ の強きを静めて呼ぶ事は︑古より鎗法ど強きかせぎはなき故に︑

域攻

の錦

︑ 165 

右の八条︑四条︑七条(鑓脇高名が抜け﹁似て高名﹂が本資料では﹁退口高名Lとしている)の各名称は︑本資料とほ ぼ 同 じ で あ る

︒ こ の こ と か ら 揖 察 す れ ば

︑ 史 民 律

﹄ と い

﹃ 軍 師 高 名

﹄ で 涜 和 し て い た 軍 法 の 書 で あ っ た と も 思

われ

る︒

またよ品律Lであれであれ︑この欝の内窓には吋申鶴粛鑑抜欝前集恥

弘前大学教養部「文化紀要」第33母第2,1991年

166 

が参考にされたのではないかと思われる︒それは次の一館があるからである︒

一錆にての侍衆簡の誉定九ヶ条の事

一に一番鑓・一一番鑓・鑓脇⁝一一様は刀錨脇・弓脇鑓・鉄砲鑓接︒

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場中の高名︒

一一

に場

出?

にて

手負

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懸本

の場

に一

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戦瀞

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一帯

︒ 開 く し て

︑ 味 五 返 事 一 場 に で

︑ 幾 度 も 有 之 な り

︒ 五 小 返 の 叫 官

︑ 或 小 選 際 の 高 名

︑ 戒 は 小 選 の 場 中

ての犠きゅへ静なりと被定︒

口の高名大智なり︒或は後れ退き引に︑味五

おのような﹁持衆しの合戦におりる評価は︑本資料に少なからず影響していると考えられる︒2︑JA律﹄の著者については︑本文中に﹁私の所存ヲ書キ加ブLとるり︑﹁本多忠勝Lの間近の一人と思われるが︑その﹁払Lが不明である︒3︑本多忠勝︒天文一七日(一五四八i

一六

O)

H慶長一五︒一ニ湾生まれ︒本多恵高の長男︒徳川家康に仕え︑永禄一⁝一年(一

五六

O )

一三議で拐薄︒蔀川の戦︑長篠の戦などで抜群の戦功をみげ︑酒井忠次︑櫛原康政︑井伊直政とならび徳川の四

天王と云われた︒拐揮捺額五七回の合戦を経験し︑身

ι

傷痕をとどめなかったという︒六六歳没︒

4︑本資料は﹁表紙﹂がなく仮綴の冊子本ではあるが︑後半の部分が﹁綜﹂のよう

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﹁ 塊

Lとなっている︒また第⁝一興ぷ﹁浅 利 文 嘩

﹂ の 印 が 持 さ れ て い る

︒ こ の こ と は

︑ 浅 利 家 に は 相 当 日 現 一 爪 て い た と 思 わ せ る の で あ る が

︑ 今 ま で 紹

介した資料に法この印がなかった︒かなり散逸したと思われる︒

︑ 本 資 料 の 内 容 は

︑ お け る 下 級 武 士 の 武 功 の 評 価 武 器 と し て

︑ な 状 況 の も と に お

的 問ιA /、

敵 多 衆 は 懸 号i

互 布 施 る せ 者 わ な し り

(以

下略

)

弘前大学教養部「文化紀要」第33号第2. 1991年

八︑小笠原流諸礼(態)(承前)

8︑﹃幕一流之書﹄

巻子本

真仙幕一流之書

夫幕者︑天照太神大六天摩王御取合之時︑摩王小神達

ヲ悪

眼ニ

テ奉

見︑

其眼之光ニ小神達驚キカナシミ給フ時︑

太神ノ御袖ヲ小神ヲ﹀イ給ふ︒﹁之眼ノ光ウスクナッテ

小神達タスカリ給フ︒其時天照太神不可負被仰ケリ︒其

ヨリ以来幕と云也︒恭モ秘夏穴賢々々︒

幕田町之夏

一流之次第井圃

大将軍之幕串者表加勝字也︒臨

167 

摩利支天党天

ザ 小 三 九 仔 ソ

幕一流之書』の書き出しの部分。「臨」の字の次に書くべき字 があった筈である。

写真(11)

弘前大学教磯部「文化紀要j 第33号第2,1991年

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168 

東ニ向テ鱒ハ

一 向 ︑

先護

身法

次ニ九字頬吊ヲ以テ幕ヲ加持ス︒

拠 ︑

柁 宅

待 ︑

そ 柁

も 創

刊 何

絵 ︑

( )

摩利支天究百返唱一ア暗々如葎令ト唱ヘシ︒千金莫縛

々 ︒

( 及 ﹀

一ヲ

ヨハ

ス︒

秘吏ナレハ

口一

博ス

︑幕

ノ大

古文

次第

ルヘシ︒五

一叫

漏ヲ

西ツ

ワリ

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一ツ

白ク

ツハ膏ク色ナルヘシ︒相或ル一ツハ

リテ乳スヘシ︒向テタツへシ︒ヒ

カエテハ関神ヤリ万ニタツヘシ︒ ︑縫事ハ手ノ競ノ役ナリ︒布長サ三十尺ナリノ︒告陰陽

口博

ハ幕布作夏︑男ノカ夕刊ブイナキ女︑不然ハ不 ︒

生ノ女︑不祭ハ

ニテ

可用

ハシシカキ布ヲ本

トス︒幕ノ

ヘシ

ヲ平縄

スヘ

シ︒

… 、

数︑廿八者天ノ廿八荷ヲ表ス︒対六ハ品川ムハ禽ヲ

表ス︒依之大将ノ廿八用也︒

一︑乳ノ吏︑廿八語表儀若ハ法華廿八品ヲ表す︒

テウ

︑幕串尋常八本也︒ヲ象ル︒尺ハ九八尺攻︒

時︑本尊一一八幡摩利支夫︑又入リ我氏

勝軍本ヲ尤立︑洗米︑香炉一一

へシ︒主人ト幕ノ問瓶子二ルヘシ︒比内

呉ヲ

蝶形

一一

モ提モ蝶形成ヘシ︒肴ハ一番

ノシ

一番

ニ栗

︑一

昆布引渡シナリ︒

ル ︑ 心

持︑打テ勝テ境ト取ヘシ︒

一︑師匠ハ授ヨリ前ニ護身法︑次其後銀吊ヲNM

テ一ノ幕串ヲ乳ノ本

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ドキュメント内 律 』 冊 子 本 (ページ 57-63)

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