1.芦
ノ ロ 遺 跡 の 立 地 と 周 辺 の 遺 跡(1)遺
跡の立地 と1995年度までの調査東北大学の富沢地区は、仙台市南部の名取川沿いの沖積平野に接す る三神峯丘陵の北側 に位置 している。現在 は理学研究科附属原子核理学研究施設 と職員宿舎 として利用されている。敗戦までは、陸軍幼年学校が置かれて いた場所である。戦後は これ らの建物 を利用 して、東北大学の教養部 として使用され、1963年に現在の原子核理 学研究施設が建設されている◇
三神峯丘陵は標高
65m前
後で、南東側は沖積平野 となってお り、 この両者の境界が長町 ―利府線にあたる。長 町―利府森は、仙台市太 白区長町か ら宮城郡利府町にかけて北東 ―南西方向に、延長約17kmに
わたって延びるも ので、北西上が りの逆断層 と考え られているが、断層は沖積層に覆われている (中田高ほか1976)。 長町―利府線 の北西側 には大年寺山断層 と鹿落坂断層が並行 して走ってお り、副断層を形成 している。大年寺山断層は、南東 上が りの逆断層である。 この長町―利府線 と大年寺山断層にはさまれた、幅lkm弱
、長さ約8kmの
範囲は、隆 起帯を形成 している。三神峯丘陵は この隆起帯 に相 当し、三神峯丘陵 と東北大学富沢地区との間の急斜面は、大 年寺山断層 によって形成 された低断層崖 にあたる。三神峯丘陵上の平坦面は台の原段丘 に相当 し、芦 ノロ遺跡周 辺は上町段丘に相当すると考え られている。現在 の富沢地区構内は、 ほぼ平坦 に造成 されているが、本来は三神 峯丘陵の裾か ら北側の金洗沢 に向か って、緩やかに傾斜 して下っていく地形であったもの と考 え られる。芦 ノロ遺跡の周辺は、仙台平野で も多 くの遺跡が知 られている地域であ り、 ここでは近接す る重要な遺跡につ いて簡単 に触れてお く(図 1)。 なお、今回の調査では縄文時代晩期の粘土採掘坑が検 出されてお り、仙台湾周辺 の縄文時代晩期の遺跡の分布 については、次の②で別に詳 しく紹介するので ここでは特に触れない。三神峯丘陵 一帯 に広がる三神峯遺跡は、縄文時代前期の集落 として古 くか ら知 られてお り、住居跡も発見 されている。丘陵 の南西端 には、 円墳
2基
か らなる三神峯古墳群が存在 し、埴輪が採集 されている。三神峯丘陵のさらに南側の沖 積地 に広がる富沢遺跡では、約2万
年前 にさかのぼ る埋没林 とナイフ形石器な どが発見 され、 当時の環境の復元 にとって極めて重要な資料 となっている。 また三神峯丘陵とその周辺は、窯業生産が盛んに行われた地域でもあ り、埴輪窯跡の宮沢窯跡(5世
紀)、 須恵器窯跡の金山窯跡(5世
紀)・ 土手内窯跡(7世
紀)な
どが知 られてい る。東 北大 学 の富沢地 区構 内に遺跡が存在す る ことが判明 したのは、 1976年 の野球 場建設工事 の際で あった。雑木 の伐採 がブル ドーザ ー を使 って行われ た際、若干 の土器 片が発見 され たため、建設工事が 中断 され、急速考古学 研 究室 によって試掘調査 が行 われた (図 5)。 そ の結果、平安時代 の竪穴遺構 な どの遺構が発見 され、土師器・須 恵器・須 恵系土器が多数 出土 した。 また縄文時代・弥 生時代 の土器や石器 も出土 した。 この結果、芦 ノロ遺跡 と して周知 の遺跡 として登載 され る こととな った。 また野球場 の建設場所 は変更 され、調査地点 は保存 され る こと とな って いる (年報3)。
そ の後、原子核理学研究施設で放射光 リング をは じめ とした大規模 な施設拡充計画 が持 ち上が った ことか ら、
この計画 に先立 って遺跡 の範 囲・性格 を確 認す るため に、 1985年 ・ 1989年 ・ 1991年 の
3次
にわ たる調査が行 われ て いる (年報3・ 9)。 この3次
にわ た る調査で、 密度 は低 いものの、研究施設 の各所で縄文時代・古墳時代・平 安時代 の遺構・遺物 が確認 された。 この成果 を受 けて、遺跡 の範 囲 も富沢地 区の全域 を含 む形で範 囲拡大 の措置 が取 られて いる。 また、2・3次
調査 で は、さ らに下層か ら、保存状態 の良 い泥炭層が検 出 され、3万
年以 上前 の埋 没林が存在す る ことも確認 されて いる。泥炭層か ら人工遺物は発見 されて いな い ものの、 当時 の環境 を復元す る 上で は貴重 な資料 とな って いる (年報9)。②
仙台湾周辺 における縄文時代晩期の遺跡
東北地方 中部太平洋側地域 には、北上川、阿武隈川の二大河川 をは じめ、鳴瀬川、名取川、広頑川、江合川、
迫川、 白石川、七北田川、吉田川な ど中小河川が流れている。 これ らの河川の下流部および河 日付近 には低平な 沖積平野が形成され、仙台湾 に沿って南北約50km、 東西約
15kmに
広がる仙台平野が存在する。 また、阿武隈川 やその支流の自石川 に沿って内陸部の角田・大河原方面へも沖積平野を追跡する ことができる(松本秀明1984)。 こ のような地理的環境か ら仙台湾周辺 には多 くの貝塚が形成 される。仙台湾周辺の地域は、地理的な立地 によ り、阿武隈川水系の比較的狭にな沖積地 と後背丘陵地、名取川・広瀬川流域 の海岸平野 とその周辺 にひろがる丘陵地、
北上川下流域、鳴瀬川・迫川流域の沖積平野 とその周辺 にひろがる丘陵地な どの地域 に区分 され る (須藤1998)。
芦 ノロ遺跡は、名取川・広瀬川流域の丘陵地上に立地する。
芦 ノロ遺跡周辺では、赤 生津遺跡 (仙台市教育委員会1990)、 長rlh遺跡 (泉市教育委員会1985)、 梨野
A遺
跡(仙台市教育委員会1983)、 沼原
A遺
跡 (仙台市教育委員会1983)、 門野山囲遺跡 (イ山台市教育委員会1983)、 芦見 遺跡 (仙台市教育委員会1988)か
ら縄文時代晩期の遺物が確認されている。赤生津遺跡は七北田川左岸 の最低位 河岸段丘上に位置 し、縄文時代晩期大洞 A'式 期 の上坑 と包含層か らの一括遺物が確認 されている。長噛遺跡は七 北田丘陵東端の小丘陵上に立地する。縄文時代晩期末葉の住居跡が1棟
検 出されてお り、晩期の住居跡 としては 仙台市内で唯―の検出例である。仙台市南部 に広がる蕃山丘陵・茂庭丘陵上には縄文時代晩期の遺跡が多 く確認 されている。梨野A遺
跡は蕃山丘陵内の標高190mほ
どのやや低 い丘陵上に立地 し、縄文時代晩期後半の土墳墓が4基
検 出されている。沼原A遺
跡は蕃山丘陵の南東端 に位置 し、標高125〜130mの
丘陵中腹 に立地 している。縄 文時代晩期初頭の土器が1点出土 している。門野山囲遺跡は茂庭丘陵の東側末端部の緩斜面 に立地 している。縄文 時代晩期中業の土器や石刀が採集 されてお り、この地域 には縄文時代後期 中棄か ら晩期中葉の集落が存在 してい た と推定されている。 また、東北大学構 内か らは青棄山丘陵上に位置する青葉 山遺跡
B地
点、E地
点か らも縄文 時代晩期後半の土器が確認されている (年報2、 16)。 これ らはいずれ も丘陵上に位置す る遺跡であるが、その他 にも山口遺跡、郡 山遺跡、富沢遺跡、南小泉遺跡、高田B遺
跡な どの沖積地 に位置す る遺跡か らも縄文時代晩期 の遺構 。遺物が確認されている。富沢遺跡は名取川 と広瀬川 に挟 まれた後背湿地を中心 に立地 し、縄文時代晩期 の土器が出上 している(イ山台市教育委員会1991)◇ 山口遺跡は名取川 と旧魚川 によって形成 された 自然堤防 と後背 湿地 に立地 している。縄文時代晩期の河川跡が検 出されてお り、北の丘陵地か ら流れ込んできた大量のオニグル ミ、 トチ ノミ、 ドング リな どが出土 している (仙台市教育委員会1984)。 郡 山遺跡は名取川 と広瀬川に挟 まれた 自 然堤防 と埋没 した旧河川上に立地 している。縄文時代後期か ら晩期の土坑やピ ッ トが検出され、晩期後半の遺物 包含層 も確認されている。縄文時代後期頃か ら集落が存在 した ことを示す重要な遺跡である (仙台市教育委員会1992)。 南小泉遺跡は広瀬川左岸 に形成 された 自然堤防上に立地する。古 くか ら弥生時代か ら平安時代の大集落遺
跡 として知 られていたが、近年の調査 によ り縄文時代晩期大洞 A'式 の遺物 も検 出され、付近 にこの時期の生活の 場所があつた ことが考え られている。高田
B遺
跡は名取川北岸の後背湿地上に立地 し、弥生時代の遺物が大量 に 発見 されているが、縄文時代晩期大洞C2式
の土器 も確認されている。松島湾では、西 ノ浜貝塚 (後藤編1989、 宮城県教育委員会1968)、 福浦島貝塚、里浜貝塚 (東北歴史資料館1989)、
浜田洞窟、峯貝塚、二 月田貝塚 (後藤編1970、 多賀城市1991)、 沢上囲貝塚 (後藤他
1971)橋
本囲貝塚 (多賀城市 史1991)な
ど多 くの遺跡が存在す る。西 ノ浜貝塚は松島湾の西北部にあ り、海岸 に突き出た標高15mの
舌状台地 か ら海岸部 まで広 く貝層や遺物が散布 してお り、大洞B式
〜A式
の土器が出土 している。里浜貝塚は各地区か ら 各時代の貝層が発掘 され、寺下地区、西畑地区、台地区な どか ら晩期 の各時期の貝層 とともに晩期の土器が出土している。二月田貝塚は七 ヶ浜町吉田浜の大 きな入 り江 に突 き出た舌状台地か ら低地 にかけて立地 し、大洞
B式
土器 と、わずかではあるが大洞
Cl式
、大洞A式
の遺物が貝層か ら層位的に出土 している。大洞A式
土器 には製塩 土器 も共伴 して出土 している。 また、大洞A式
期の住居跡や製塩 に関係す ると考え られている遺構な ども検 出されている。橋本囲貝塚か らは大洞
C2式
の上器が出土 してお り、 これに伴い製塩土器 も確認されている。名取川流域では、金剛寺貝塚 (宮城県教育委員会
1980)な
どか ら晩期の土器が出土 している。金剛寺貝塚は、名取市西部の丘陵縁辺上に位置する。縄文時代後期後半の 「金剛寺式」の標式資料 となった遺跡であるが、晩期 前葉か ら中葉にかけての遺物 も出土 している。
円田盆地周辺では、蔵王連峰の一部である青麻山の東麓の緩斜面には縄文時代の各時代の遺跡が多 く存在 し、
中で も鍛冶屋敷遺跡、鍛冶沢遺跡 (自石市1976)、 下別 当遺跡 (蔵王町
1981)な
どか ら縄文時代晩期の遺物が確認 されている。下別 当遺跡では、大洞B式
〜大洞C2式
期 までの土器が採集 されている。鍛冶沢遺跡では大洞B式
〜A▼式土器が多量に出土 している。 この地域は、遺跡の踏査や表採資料などで他にも晩期の遺物が多 く確認され ているが、発掘調査で得 られた資料は少ない。
阿武隈川下流域では、梁瀬浦遺跡、畑中貝塚 (宮城県教育委員会1986)、 椿貝塚 (亘理町1975、 東北歴史資料館
1989)、 金谷囲遺跡、館前貝塚、青木遺跡、倉元向遺跡、川名沢遺跡 (柴田町1983)、 沼 ノ内
A遺
跡な どがみ られる。梁瀬浦遺跡は、阿武隈山地に連なる角田丘陵の中の小丘陵上に位置する。包含層か ら大洞
C2式
、大洞A式
の土器が出土 している。畑中貝塚は阿武限川支流の小河川によって形成された扇状地緩斜面上に立地 し、縄文時 代後期か ら晩期の貝層が広が り、焼土、柱穴群などが検出されている。椿貝塚は阿武隈山地に連なる雁田丘陵の 丘陵先端部 に立地す る。縄文時代晩期大洞Af式 期の貝層が検出され、その他 にも大洞
B式
〜A式
期の遺物が出土 している。川名沢遺跡は高館丘陵か ら派生した舌状丘陵緩斜面上に立地 し、縄文時代晩期大洞BC式
〜A式
の土 器がみ られる。倉元向遺跡は羽山丘陵の北東麓に位置 し、縄文時代晩期大洞BC式
、C2式
の土器がみ られる。仙台湾周辺の晩期 の遺跡全体 としてみれば、決 して少ない遺跡数ではない。 しか し、晩期の各時期ごとにみる と、晩期 中葉〜末葉にかけて遺跡数はやや増加するものの、晩期前葉 に相当する遺跡は、他の時期に比べると比 較的少ないという傾向が見 られる。芦 ノロ遺跡周辺でも、晩期前葉のまとまった資料が出上 している例はな く、
仙台湾周辺の縄文晩期前葉の上器 を考える上で、非常に重要な資料である。
2.調
査 経 緯(1)調
査地点の位置調査地は、仙台市太 白区三神峯一丁 目、原子核理学研究施設構内の北寄 りの場所にあた り、芦 ノロ遺跡の範囲 に含 まれ る (図 1・ 5)。 本章
1で
述べたように、調査地点の周辺では、1985年以来の1〜 3次
調査で、縄文時代 か ら平安時代にかけての遺構 。遺物が発見されていることか ら、今回も全面の調査が必要 と判断された。今回の調査は、本学原子核理学研究施設の電源室 と照射・測定室の新営に伴い行われた。電源室予定地を
1区
、 照射・測定室予定地を2区
として調査区を設定 した (図40)。 また、 この調査 に併行 して、原子核理学研究施設 の ある富沢団地の排水管改修工事が行われてお り、立ち会い調査の結果、一部で遺構が確認されたため、その部分 を,,水管区と呼び、本調査 を実施 した。1区
と2区
の距離は約20mと
近接 してお り、調査着手時 には標高約50mの
ほぼ平坦な荒れ地であった。調査 区 の北東 には金洗沢が開析 されてお り、沢をはさんで土手内の丘陵に面 している。1区
の北東角よ り、金洗沢へ と続 く傾斜面 までは、直線距離 にしておよそ45m程
である。2区
は、1991年に行われた第3次
調査のN‑8区
の南側 に 近接す る。N‑8区
では、約2mに
及ぶ近代の盛土の下か ら、LR斜
行縄文 を施文する深鉢の大型破片が発見 さ れている (年報9)。排水管 区は、
1区
の南東角よ り南東方向に直線距離にして約60m離
れている。,F水管区の西側には、1985年の第1次
調査 のB区
が近接 している。B区
では、多量の土師器や須恵系土器のつまったピ ットなど、平安時代の遺構・遺物が発見 されている (年報3)。