田田己ヨ マスコミの情報 剛友人・知人の話
Ⅷ辨囮Ⅷ
[=.宗教上の理由
□。ただ何となく
他方、「信じない」理由をたずねる問21の②(図30)では、「非科学的だ から」が最も多かった。「その他」として「自分自身で認識(確認)出来て いないから」、「信じることは無意味である。現存こそすべてである」、「見
えない」などがある。
図30死後の世界の存在を信じない理由は何か
40
30
20
10
●
名0
ただ何となくⅧ 皿
無回答
剛Ⅷ
[=.非科学的である
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(3)死ぬとどうなるかをたずねる問22(図31)では、「無または土になる」
が50%で最も多かった。これに「わからない」が36%、「魂が他の世界へ行 く」が12%で続く。「その他」として「物質になります(元素にかえる)」、
「色々あると思う」、「熱力学第1、第2法則にしたがうのみ」がある。ちな みに、大学生の場合には「魂が他の世界へ行く」が45%で最も多かった。
医師と学生の間には興味深い違いが見られる。
ここで問21の結果をも踏まえつつ若干分析してみると、医師には魂が他 界で生き続けるという来世信仰や、別人・別物としてこの世に生まれ変わ るという再生観を持つ者が少ない。沖縄の人たちが信じるところでは、人 間の霊魂は人の死後も永続するので、人の霊魂は永遠不滅であると力。、沖(28)
縄では、霊魂と肉体は別個のものであるという意識が本土よりも一層強欝
といわれるが、どうであろうか。むしろ、彼らの多くは魂というのは意識 の働きであり、この意識の働きは頭脳の働きであるから、人が死んで頭脳 が腐敗してしまえば、意識の働きも失せ魂も消失すると考えているようで ある。前述した通り、「非科学的」思考は排斥される傾向にある。
沖大法学第十五号
図3l死ぬとどうなるか
わからない35.7%
一無。±になる50%63名
別の物に生れ変わる 別の人に生れ変わる
魂が他の世界に
J%O学
●
(4)問23(図32)では、「誰かにみとられて死ぬのがよい」が圧倒的に多 く、「どちらともいえない」が続く。ちなみに、大学生に対する調査でも、
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医師と同じ回答にほぼ同じ割合の支持が集まった。この質問に関しては、
両者に大きな意識の違いはあらわれていない。
脳死と臓器移植に関する一考察
図32誰かにみとられて死ぬのがよいか、誰にもみとられずに死ぬのがよいか
406080100%
0 20
薑蕊讓篭鰯ii
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[二コみとられたい
□無回答
鯛魎囲みとられたくないどちらともいえないわからない
「誰かにみとられて死ぬのがよい」理由を具体的に記入してもらう問23 の①では、「死に水を取ってもらう」、「自分と共に生きてきた家族の息づか い、暖かさを最後まで感じていたい」、「それが普通の感情だと思う。理由 はない」、「一人で死んでいくのはさびしい」、「自分の死を確認してほしい から」、「本人にとって幸せと思うから」、「自分の人生をみとってくれる人 がいると、一生が有意義だったと思うから」、「最後に受容してくれる人の もとでやすらかに死にたい」、「自分の最後が誰かに確認されることも、自 分が世の中に存在していたという事実の一部であると思うから」、「最後の 瞬間まで人の絆がほしいから」、「一人では不安になると思う」、などの理由 があげられている。大学生では、さび(み)しさ、むなしさ、恐ろしさを あげる者がほとんどであったが、医師の場合にはさらに多様な理由が示さ れている。なお、「誰にもみとられずに死ぬのがよい」理由(問23の③)の 検討は、回答数が非常に少ないため、割愛させていただく。
「誰かにみとられて死ぬのがよい」の回答者に具体的に誰にみとられ て死ぬのがよいかを問23の②でたずねたところ、「家族」、「妻」、「妻、子供」、
「妻、両親、子供」などとして、身内をあげる者が圧倒的に多い。確かに、
これら以外の回答を想像することは困難である。ただ、病院で死を迎える のがほとんどであるという現実からは、そういう希望がどこまでかなえら
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れるかが別の問題として残るであろう。
3.感想欄から
感想欄に寄せられた種々の貴重な意見を紹介するとともに、若干のコメ ントを加えてみたい。
(1)「曰本では、とくに沖縄県では『脳死』=『人の死」の考えを社会で 得るには難しいと思われる。『脳死』→『移植』はさらに科学的データをそ
ろえても、実施はあり得ないであろう」。
なぜ曰本(とくに沖縄)では脳死が社会的に認められにくいのであろう か。死生観や来世観の問題からであろうか。ちなみに、小西が実施した調 査では、ある県内大学生が「沖縄の場合、死後も肉体に魂が宿っていると 考えているので、脳死と判定して臓器を取り出して、他人に移植すること もよいとは思えない気がする。文化的背景からも肉体を切りきざむのはよ くない」として、魂と肉体の特別の関係を問題Iこしていたのが思い出され(30)
る。
(2)「今曰、このようなアンケートを書く機会を与えて頂き、有難うござ います。臓器移植(経済的に低コスト)をおしすすめる-部の風潮(とく に医師あるいは医事評論家と称する人間)をしっかり批評し、途上の必要 悪として(和田移植がそうだったように)ならば目をつぶる覚悟はある。
扇動にのり、良心をうる人身売買的なものに流されないでほしい。・・・
脳のみが、人の至上であると断定する竹内教授の人格を問いたい」。
この感想の意図は十分に理解し得る。ただ、和田移植を例に出しつつ臓 器移植が必要悪として容認されている点は、それが医療不信に結びつかな いのか素朴に疑問である。次の感想にも、同様の懸念を感じる。
(3)「『人の死』を論ずる時、それは本来医師が行うべきものであり、純然 たる医学的判断であるべきである。『社会的死』などという言葉は、文学の 中にのみあるべきであり、きわめて情緒的・感情的なものに過ぎない。医 学・生物学とはまったく区別されるべきである。脳死臨調のメンバーを見 ても文人や作家、政治家などが名を連ねているのは、まったく奇異きわま
沖大法学第十五号○つ
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りないことだ。このやり方は、医学の世界に政治や文学を持ち込み医学を 混乱させるだけである。曰本でも古来より人の死は、医師が臨終の場に立 ちあい、家族に患者の死を確認.告げるのが一般的に行われて来たわけで あり、このような厳粛な場面に、政治家や文学者の立ちいるすべはないは ずである。臓器移植の前提としての脳死を論ずるのではなく、まず『脳死』
そのものが『人の死」であるということを切りはなして論ずべきであって、
臓器移植の問題は、その次である。それには脳死に関する医学会のコンセ
ンサスが必要である」。
この長文の中には、個々人の死を医師が最終的に判定するという当然の 事柄が、力強く表明されている。医師としての自信・確信や医科学的知識 への信頼も強くあらわれているように見える。その信念には敬意を表した い。ただ、それはともすれば「和田移植」に象徴されるように医師や医科 学の箸り・勇み足に連なり、一般人(医療の素人)の医療に対する誤解や 不信をもたらすのではないかと懸念されもする。問題が人の生死に関わる ことだけに、誰しも大いに関心があろうし発言もしたかろう。またそうし た一般人の知恵は、積極的に医科学の発達に活かされるべきである。閉ざ された科学に進歩は期待し得ない。この意味において、脳死臨調のメンバー が医学者に限られなかったことは、むしろ当然であろう。しかし他方で、
この感想では脳死と臓器移植を切り離すべきことや脳死に関する医学的コ ンセンサスの必要性など重要な指摘がなされている。これらの点はすでに 検討した。
(4)上記(3)の感想といわば対照的と思われるものに以下の二つの感想が ある。
「(1)命ほど大切なものはない(命は地球よりも重い)、(2)有史以来、いや
動物でさえも『死』は心臓が停止し、暖かみを失ってもなおかつ認めがた いものとしてあったと思う。腐敗が始まって、やっと死んでしまったのかと思うものである。意識がなくなり、心臓だけが動いている時、本人は苦
しんではないと思う。(ただし)個体はなおかつ生き続けようとしている。脳死と臓器移植に関する一考察
究
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個体の社会的関係性(家族・仲間など)をまったく知らぬ者が、たかだか 数十年の科学の発達をよりどころにして、過去の真理=『心臓死」をくつが えすなど許せるものではない」。
「本質的に、人の死を定義することは今後も不可能。しかし、社会的文 化的合意のもとに死を定義し、模索することは必要。現時点においては脳 死を人の死とすることは、時期尚早。理由はただ、そうしたくないという 人が大勢まだいるから。今後はそういった人たちが少なくなり、脳死を人 の死と認める方向へ行くであろうし、私自身もそれを支持する。しかし、生
物学的に本質的に脳死が人の死でない可能性は十二分にあると思われる。ま
た人は、生物学的な存在だけではないことも常に考慮しておく必要もある」。われわれはこれら二つの感想に健全な思考を読み取るのであるが、いか がであろうか。
(5)「移植医療そのものは認めるが、乱診乱療となる危険が極めて大きい。
とくに曰本の大学の医療に対しては疑問以外何もない。もし移植が限りな く乱用されたら医療費は膨大となり、一般の疾患は保険の対象からぞくぞ くカットされる。厳密な適応と実施が必要である」。
これは、移植をとくに経済的観点から考察しており興味深い。
(6)「私は1988年6月から1990年6月までアメリカで医学臨床研修をやり、
そのうち4カ月は末期心不全医学および移植を専門とする医学チームの一 員として、貴重な体験をしましたが、(心)移植はもはや実験でなく、ある 程度確立された医学であると確信しています。ただ、免疫抑制についてもっ
と改良の余地があると思います」。
自己の体験に基づく大変貴重な感想であると考える。ただ、当地アメリ カでは久しい議論と経験の蓄積があった。それにしても、やはり免疫抑制 (剤)の問題が移植医療にとって、今後も大きな課題なのであろう。
(7)「臓器移植は必要だが、日本人の今の死の概念からは、脳死の状態で 臓器を取り出すにはかなりの抵抗を感じる。移植チームにおされあおられ、
脳死の判定を早める可能性も非常に大きい。ましてや、自分の家族が脳死
沖大法学第十五号
ノヘ二hJ
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