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在宅でのアドバンス・ケア・プラニングにおけるオープン・ダイアローグの可能性について

心と心が互いに会う仕方、場所、目的、条件、および歴史の研究は、今日の日本に とって大切だ。なぜならぼくたち日本人は、たがいの心に近づく方法をもたず、そ ういう努力をする元気さえもたないことが多いからである。 」

(8)

これは鶴⾒俊輔が戦後(1952 年)に記した⾔葉である。いま、医療・介護の現場で、「もし ものときについて話し合う」⼈⽣会議の際に、コミュニケーションの重要性が謳われている にもかかわらず、専⾨家たちは、患者や利⽤者の⼼に近づく⽅法を模索している。例えば、

在宅での医療・介護者間の情報共有の⼿段である「連絡ノート」にしても、コミュニケーシ ョンというより情報の伝達の⼿段にすぎない。もちろん「コミュニケーション」とは伝達

(通信)という意味もあるが、医療・介護、とくに ACP に際して問題とされているコミュ ニケーションは伝え、伝えられることによる相互理解である。

鶴見はさらに、コミュニケーションは、 「コミュニケーションとディスコミュニケーシ

ョンとの⼆重の性質をもつべきものとして理解されるべき」で、「コミュニケーションの分 析は、同時に、そのコミュニケーションによって意味が通じなかった部分の分析をふくむも のでなければ⼗分でない」と述べている。(9)

つまり、「ディスコミュニケーションは、決して、いつも悪いものとして考えられるべき ではなく」、ディスコミュニケーションは、「通信可能物の領域をひろげていくと同時に、そ れに呼応して、もやもやと⼼の中にわき⾃⼰じしんにしか通⽤せぬ新来の私的記号を増や すことによって、通信不能物の領域を広げていく」。また、「⼈間が⼆⼈以上存在していると

ころには、かならずディスコミュニケーションが根強く存在している。⼈間にとっての根本 的な状態は、コミュニケーションである以上にディスコミュニケーションである」(10) にも かかわらず、専⾨家たちは、このディスコミュニケーションの状態を乗り越えようとする。

それは、「ディスコミュニケーションをつねに悪とし、理性的説得の⽅法にたよればコミュ ニケーションは克服できる(デューイ)」(11) と信じるからである。つまりそこには、コミ ュニケーションに対する神話が潜んでいる。

さらに鶴⾒は、「コミュニケーションは新たな問題を提起すべきディスコミュニケーショ ンを孕んでおり、このことを避けて(デューイ流に)コミュニケーションを賛美することに 終始することは、みのりある考え⽅ではない」(12) と述べている。

このように考えると、医療現場では患者のつらい体験から⽣じる感情の共有というより、

事実の共有に重きがおかれるところにディスコミュニケーションが⽣まれる。このディス コミュニケーションの⾃覚から⽣まれるものは、これまでとは異なるかたちの対話の空間 をつくること、新たなコミュニケーションをデザインしていくことである。そのデザインの ひとつが、OD といえないか。

ワークショップでのリフレクティング・トークで、⾮専⾨家グループと専⾨家グループ間 のディスコミュニケーションの要因となっていたのは、⽴場と⾔葉のちがいであった。同じ

⾔葉を使っていても、⾒ている現象(できごと)が同じでも、患者・利⽤者という⽴場と専

⾨家という⽴場とでは、捉える意味内容が異なり、共通⾔語となり得ていなかった。

逆にコミュニケーションを成⽴させていたのは「応答」である。相⼿の質問に答える(質 疑応答)というより、話されたことをきちんと理解しているということを、応答を通じて相

⼿に⽰し、その発⾔に対して新しい視点(気づき)をもたらすことである。この視点からワ ークショップを観ると、次のような問題が⽣じていた。①⼀般参加者は、いま何が問われて いるか、それに対してどう応答していくべきかを考えないで、思いつくままに発⾔してい た、②専⾨家は、⾃⾝の役割の中で知りうる範囲での事実(体験)を⾃⾝の⾔葉で述べてい た、③専⾨家は、話し合いの⽅向性をコントロールすることで確実性を求めていた。さらに

④専⾨家は、説明や解釈を与えることに終始することでモノローグ的アプローチとなって いた。以上から、両者の発⾔は、お互いの異なった視点が接続される(つながれる)ことな く、パラレルとなり、対話には⾄らなかった。

リフレクティングは、従来の観察する者(ケア専⾨家)と観察される者(患者・利⽤者)

という固定化され⼀⽅向的なベクトルでの観察ではなく、<観察する患者・利⽤者>と<観 察されるケア従事者>という新しいベクトルでの観察の可能性を⽣み出す。在宅医療・介護 現場でのミーティングでは、常に患者・利⽤者は観察される対象であり、専⾨家は、患者・

利⽤者を観察することで彼らの問題を「解決する、消す」ことに⼒点を置く。しかし、リフ レクティングでは、問題を「消える、⾒えなくなる、解消する」へと変え、話し合いの場を 双⽅向の協働の場へと転換させる。(13)

つまり、患者・利⽤者は、専⾨家のリフレクティングに⽿を傾けることで、⾃分のおかれ

た状況に新しい意味を⾒出すことができる。そのことで「ストーリーが書き換えられ」(14)

⾃分たちが普段慣れ親しんでいる⾔葉が新たな理解へと再構成される。それらは、傾聴を主 とする⼼理・カウンセリングの領域でよくみられる効果であり、その意味で OD は、ナラ ティブセラピーと共通点をもつが、対話主義という点では、哲学対話との共通点があるよう に思う。

では、哲学対話とはどのようなものか。共同研究者のひとり堀江によると、哲学対話の基 本要素は、考えたいことを「問い」の形で簡潔に定式化し、個⼈が実際に体験した「具体的 なもの」に基づいて、問いに対する「こたえ」を共同で粘りづよく探るものである。この哲 学対話と OD との共通点は、①専⾨性の⼀時的解除、つまり、対話する「その時だけ」に限 って対等・平等を⼼がける、②異なる意⾒ではなく、異なる多様な「視点・考え⽅」を受け

⼊れる(つまりお互いの差異を認め合う)、③対話をサポートするファシリテーターを置く という点である。(1 ⽉ 18 ⽇「対話ワークショップ」より)

専⾨家も患者・利⽤者も、医療・介護の環境(システム)に取り込まれている以上、患者 は患者としての役割の中で⽣き、専⾨家は専⾨家としての役割(制服を脱がないという暗黙 の了解)の中で⽣きている。このシステムは容易に変わるものではないが、医療・介護の現 場での患者・利⽤者は、⼼⾝ともに「絶えず変わりうる存在」である。医療者という変えよ うのない枠組(役割)の中で、患者のもつ変わりうるものを抱えている、そこに ACP の難 しさがある。

OD は患者と患者にかかわる⼈たちとの対話を通して、⽣きることの中で「病い」や「⽼

い」や「死」について共に考えていくプロセスであり、そのこと⾃体は治療の<資源>とは なり得るが、治療・介護の⽅針を決定するものではない。ところが、現在の ACP は、結果 ありき(治療・介護⽅針の決定や終末期の意思決定)で、プロセスに時間を割くことにあま り価値を置いていない。患者や利⽤者の意思(リビングウィル)を確かめることは、なにも 死を⽬前とした究極の(延命治療をするかしないかだけの)意思決定ではないはずである。

確かに、「リビングウィル」が「事前指⽰書」と訳され、延命するかしないかの意思決定で あるという捉え⽅が浸透しているが、リビングウィルを「⽣きている間の意思」と広い意味 でとらえるなら、死に⾄るまでの⽣の中で、⽼いや病いに向き合いながら、⾃分が何を希望 するかという意思決定である。「⼈⽣会議」という⾔葉を字義どおりにとらえるなら、そう いうことだと思うのであるが、国や医療現場では必ずしもそういう意味にはとらえていな い。つまり、「⼈⽣会議」が共通⾔語とはなってはいない。対話を通して、医療者の枠組や 意識を少しずつ変えていくことができれば、OD の可能性も多少は⾒えてくる。

また、インタビューからみえてきたことは、在宅で多職種が参加して⾏われる担当者会議 は、問題を明確化して、ニーズを確かめ、しかるべきサービスを提供するものであるが、⾔

語化以前のこと(例えば、患者・利⽤者の思い)に⾃覚的になっていないという点であった。

また、「話し合いの⽅向性をコントロールすることで確実性を強めたいという誘惑」(15)

⾒え隠れし、患者・利⽤者を含めた参加者全員の共同作業とはなっていない。治療・介護プ

ランをつくりあげることのみに価値がおかれ、プロセスそのものの価値を⼤切にする場と なっていないことから、コミュニケーションは、対話ではなく、単なる伝達となっている。

それはインタビューの中で何度もでてきた⾔葉、マンパワー不⾜、時間不⾜が原因のひと つとなっている。⽇本の医療・介護の仕組みから考えると、国からのバックアップがなけれ ば「1回 60 分の治療ミーティングを何度も重ねれば病院はつぶれる」(16) だろう。また、

⽇本での在宅医療推進の経緯とスウェーデンの OD 成⽴の経緯とは、明らかに異なる。ス ウェーデンでは、OD は、精神疾患のある患者を、⼊院、薬物療法から解放するために「診 療所と訪問看護・介護ステーションのアウトリーチ機能を組み合わせて、診療報酬の採算に 乗せる」(17) という在宅ケアを選択する中で効果を上げている。それに対し、⽇本では、在 宅医療の推進は、⾼齢化による医療費の削減から退院を余儀なくされた結果できあがった ものである。つまり、スウェーデンの OD が、⼊院や薬物療法の否定から発せられたもの が、⽇本では在宅医療という形ですでに確⽴している。確かに厚労省のアンケート調査結果 でも、「最後は住み慣れた⾃宅で」と希望する国⺠は多い。しかし、それらを保証するだけ のバックアップシステムもマンパワーも不⼗分な中、「最後は⾃宅で」を⼤義名分として進 めているので、現実、⾃宅でケアすることが難しく、病院をたらい回しにされるケースが多 い。逆に⽇本の精神医療の領域では、こうしたアウトリーチという制度が整っていないの で、ACT(包括型地域⽣活⽀援)という⽅法を模索し、在宅ケアシステムに取り込もうとし ている。

いまひとつは、患者・利⽤者の姿勢も⼤切である。インタビューで答えていた⼀般参加者 は、リビングウィルを作成しており、それをもとに医療者との話し合いに臨んでいた。患 者・利⽤者も、厚労省のガイドラインにあるように「市⺠⼀⼈⼀⼈の意識改⾰が必要」で、

⽇ごろから ACP に臨むための⼼構えをしておかねばならないだろう。

ACP が進んでいない中、OD を取り⼊れることは時期尚早といえないこともないが、な ぜ ACP が困難であるかを考えると、そもそも対話のない中で結論(⼈⽣の最期の決定)を 出そうとしていることが問題なのである。ACP を進める中で、対話の場をつくり、治療プ ランを作り上げるプロセスに価値をおくことで、OD の可能性が⾒えてくるような気がす る。

[註]

(1) 斎藤環著・訳、『オープンダイアローグとは何か』、pp.88-89、医学書院、2015

(2) 同上、p.93

(3) 同上、p.94

(4) 同上、p.53

(5) 同上、pp.38-39

(6) 同上、p.84

(7) 野村直樹・斎藤環編、『オープンダイアローグの実践』、pp.34-35、 ナラティブとケア

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