• 検索結果がありません。

習 近平に期待するもの

ドキュメント内 yasu19 (ページ 82-90)

第5章  中国共産党の天命政治

第7節  習 近平に期待するもの

第5章 中国共産党の天命政治

彭 麗媛は、日本で言えば美空ひばりのような超有名歌手である。彼女の歌声を聴いてみ よう!

http://www.youtube.com/watch?feature=player̲embedded&v=b8KV6Qp8ldI

彼女は将軍でもあるが、さすがにその軍服姿も素晴らしい!

http://matome.naver.jp/odai/2136436225704738201

また彼女のファーストレディーぶりは、品と貫禄があって、しかも美しい!

http://j.people.com.cn/94474/8192810.html

次に、矢板明夫がその著「習 近平・・・共産中国最弱の帝王」(2012年3月、文芸 春秋)で述べる人物像を紹介する。彼は次のように述べている。すなわち、

『 習 近平を知る人の話や、香港などで出版されている習 近平に関する書物の中には、

さまざまな習 近平評がある。共通しているところは、物事に対し、自分の考えや意見を はっきりと持っており、それを押し通そうとする執念を持っていることだ。』

『 習 近平には胡 錦濤が持っていない強引さがある」とは多くの中国の政府関係者の共 通認識である。』

『 習 近平を良く知るある共産党古参幹部によれば、中国の歴代の指導者には概ね二つ のタイプがある。毛沢東と鄧小平は時代を切り開く革命家であり、江沢民と胡 錦濤は経 済発展を重視する官僚だが、習 近平はそのいずれでもない。「若い頃は苦労したかも知 れないが、しょせんお坊ちゃんだ。正直に言うと、彼に中国を任せることには不安があ る。この老幹部に限らず、多くの共産党関係者は、習 近平という今までにないタイプの指 導者が今後、多くの矛盾を抱える巨大な中国の舵をうまくとれるかどうかについて大きな 不安を抱いている。習 近平は共産党内の厳しい権力闘争の中で、有力者が一人づつ消え ていく中、各派閥の妥協の結果、たまたま残った人物であり、党内の支持基盤はけっして 盤石なものではなく、その政治手腕も未知数だからだ。(注:矢板明夫は「たまたま残っ た人物」だというけれど、私は「残るべきして残った」と考えている。確かにその政治手 腕は未知数だが、未知数ということは大いに可能性もあるということであって、私が習  近平に大いなる期待を持っている所以である。』

さらに、芹沢勤はその著「習 近平の正体」(2010年4月、小学館)で、習 近平のブ レインについて、次のように述べている。すなわち、

『 中国共産党60周年を祝う国慶節(2009年10月1日)前後に、習 近平は多忙 を極めた。外賓のラオス共産党書記長やカンボジア国王、アルメニア外相と立て続けに会 談し、北京では引退幹部と接見した他、青少年団体による科学技術普及の催しに参加し、

さらにロシア国境に近い黒竜江省ハルピンまで足を運んで大慶油田の50周年記念行事で 講演。この間、党中央委員会総会に出席し、香港やマカオで行なわれた建国60周年記念 座談会にメッセージを送るなど、ほとんど休みがなかった。そんな激務の習 近平に影の 如く寄り添う人物がいた。筆頭秘書の鐘紹軍である。(中略)彼は地方大学出身である。

鐘紹軍は習 近平が浙江省党委書記時代に採用した秘書で、もともとは浙江省の党委員会 に勤務しており、二人には同郷であるとか、大学の同窓とか、有力な幹部に推薦されたと いった特別の関係は一切ない。国家副主席を兼ねる習 近平ほどの最高幹部になれば、党 中央弁公庁勤務の有能な官吏が秘書としてつくのが通例だ。そうした慣例を無視し、中条 の基準に合わない地方出身者を筆頭秘書として使い続ける辺りに、習 近平の部下を評価 する基準が垣間見える。習 近平は、けっして情に流されて長年の部下を使い続けている訳 ではない。有能であれば新たな部下の採用にも積極的だ。習 近平は次代を担う若手幹部 の教育機関、中央党校の校長を兼務しているが、4人いる副校長の一人として、64年生 まれで45才の李書磊を任命した。中央党校の副校長は中央官庁の次官クラスに当たり、

他の三人はいずれも60代。李書磊は異例の抜擢人事だった。李は14才で北京大学の図 書学科に入学し、「神童」と呼ばれたほどの俊英で、24才で文学博士を取得した。その 後、党校で文学史を教えるほか、教務部や養成訓練部といった中枢部門の責任者を歴任。

この間、91年から93年間での2年間、河北省秦皇島市青龍県の党委副書記を務め、2 004年2月からの二年間は、「秦の兵馬俑」が出土したことで知られる陜西省西安市の 党委副書記をこなすなど行政経験も積んでいる。地方勤務が長かった習 近平は、李が単 なる中央のエリートではなく、地方を経験している点を重視して副校長に抜擢したのでは ないだろうか。習 近平は党校校長として若手幹部を前にしばしば講演し、国家副主席と しては各地の視察で講話を行なう機会が多いが、ほとんどの草稿は李書磊が準備している と言われる。李書磊は習 近平を支えるブレーンの中心といっても過言ではない。』

2、習 近平は軍の掌握できるか

矢板明夫がその著「習 近平・・・共産中国最弱の帝王」(2012年3月、文芸春秋)

で述べる「習 近平と軍との関係」を紹介する。彼は次のように述べている。すなわち、

『 胡 錦濤と比べて習 近平は軍とさまざまな深い関係を持っている。習 近平は軍を掌握 するのに、三つの強みがあると言われている。まずは大学を卒業した直後の20代の時 に、中央軍事委員会で仕事をした経験がある。それから、妻の彭 麗媛は解放軍総政治部 歌舞団の団長で現役の少将。軍人歌手として軍内で高い人気を誇っている。さらには、軍

内に太子党出身の仲間が多くいて、総後勤部政治委員の要職を努める劉源を始め、各部署 と部隊に知り合いを通じて、すでに巨大な人脈ネットワークを形成している。軍から見れ ば習 近平は身内という感覚がある。』

『 2012年秋の習 近平政権誕生後、軍内の太子党はますます勢いづき、軍拡に向け てさらに声を大きくしていくと思われる。彼らの膨張志向に対し、習 近平が迎合すれ ば、中国軍はますます手がつけられなくなり、対外格調と脅威増大で国際社会から中国は ますます孤立する。それだけでなく、軍関係産業に投入する予算をさらに拡大すること で、中国経済にも影響が出かねない。しかし、もし習 近平が軍の膨張を抑えようとすれ ば、軍から強い反発が出ることが予想される。毛沢東や鄧小平のようなカリスマ性のない 習 近平は、軍を抑えることは難しい。(中略)数年後、仮に政権が安定したとして、習  近平が形だけの軍改革に着手しても、軍の利権を本格的に縮小させるような大改革はでき ないと見られる。太子党人脈のしがらみの中で、習 近平は身動きが取れない筈だ。』

3、習 近平は農民の支持を得られるか

「習 近平の密約」(加藤隆則と竹内誠一郎の共著、2013年4月、文芸春秋)では、習  近平と農民との繋がりについて、次のように述べられている。

『 習15才の時、一家離散の末、党幹部の住む北京の中南海を離れ、陜西省延安市梁家 河村に送り込まれた。文革期、都市の学生たちに肉体労働を経験させた下放政策である。

このときの経験が、総書記への階段を上る、迂遠だが、確実な第一歩となった。乾燥した 黄土大地の山間にへばりつくように置かれた梁家河村は、省都西安から北へ約400キ ロ、建国前、共産党が本拠地とした延安からさらに北東へ約70キロにある。トウモロコ シやコーリャンが主食の寒村だ。同行した他の青年14人は同じ宿舎に住んだが、習は、

山腹に幅3m、高さ3mの横穴を掘った「ヤオトン(窯洞)」と呼ばれる地元特有の横穴 式住居で農民と同居した。新華社通信は当時の様子をこう紹介している。『習 近平はほ とんど休む間もなく、土地を耕し、炭を運び、堤防を作り、糞を担ぎ、どんな作業もし、

どんな苦労も経験した。農民たちは、50キロから100キロの麦を担ぎ、5キロの山道 を肩も変えずに歩く習 近平を見て、苦労に耐える若者だと思った。農作業もでき、知識も あり、知恵も歩かれは、次第に農民たちの信頼を得た。(中略)村民の強い推薦で文革集 結間近の1974年、ようやく入党が認められ、20才で村のリーダーである党支部書記 に推挙された。習の話を聞こうと、彼のヤオトンは村の集会場と化した。今でも、習が 使った机や椅子、夜間の読書に灯したランプ、深緑色の布製バッグがそのまま置かれ、往

時を偲ぶことができる。』・・・と。建国前、共産党が本拠地とした延安からさらに北東 へ約70キロにある。

習 近平のヤオトン

  ( http://gate.sinovision.net:82/gate/big5/news.sinovision.net/portal.php?

mod=view&aid=204868 より)

ドキュメント内 yasu19 (ページ 82-90)

関連したドキュメント