第二に,主権が無体的な資格であるとすれば,それが存する主体は無体 的人格(法人)である。どころが複合的な法人が存在するから,主権は一人 10jと同じく一合議体のなかにも,また国王と同じく全人民の集会のなかにも 存しうる。だから主権は君主国におけると同様に民主国においても存在する のであって,
F .
ホルンのように逆のことを主張する人々は,無体的な事物 についてまったく無知なのである。ブーフエンドルフは書いている r主 権 は,一人間に適合するようには,無体的人格あるいは一合議体には適合しえ ないという理由が,私にはわからない。主権的評議会の全成員は,各自を個 別的に考察すれば平等で あるということ,また各自はそれにもかかわらず団 体全体の主権的権威に服従するといつこと,これにはなんら矛盾はないので ある。全市民一般と各人個々,人民集会と家族のなかにいる各市民一ーその あいだにある速いを理解するのにも,大した頭はいらない。……無体的な団 体全体は諸個人とは別の法人だから,またそれは自らに固有の意思,行動,権利をもっているのだから,個人として解された各人にも,彼らのうちのた だの一人にも適さないものを,この団体に帰属させることは,なにによって も妨げられない…・こっして民主国や武族国においては,主権の存する主 体は,決然としたものでもなければ,認識することの困難なものでもない。
もっとも,今日投票で使っている人々が,明日は敗北する人々のなかに入る かもしれないが。すべてこうしたことは,無体的な意思の統ーをなんら破壊 するものではなしその意思は,複数の人格から椛成される団体にふさわし いものである。これらの人格は,身体は別々だが,それらを単独のー全体に するだけのなんらかの約束によって,共に結びついている人格なのである。
…無体的な団体が問題となる場合,この団体の一般意思は個別意思の結合
から生ずるのであるが,それらの個別意思が,なんらかの徳や,その徳に裏 づけられた資格を定められることは,なにによっても妨げられない。こうし て,一合議体の権力が主権的権力であるからといって,別々に考察された各 成員もまた主権的権力をもっということにはならない。同様に,各人の投票 がそれ自体では法を確立するには十分で、はないからといって,共に結びつい た複数の票もまたこのような効果を生みだす力をもたないということには,
まったくならないのであるJ。これらの行文は 11自然法と万民法』第
7
編第 5章第5節から抜粋されている。それらは,プーフエンドルフのような絶対 君主主義者のペンのもとでは,意外なものにみえるかもしれない。というの もそれらは 11社会契約論」の著者自身が非難しえなかったはずの,民主主 義の理論を含んでいるからである。ルソーがこれを読んだとは確信をもって 断言できないけれども,それらが見いだされる段落の見出しそのもの一一「主権は君主国におけると同様に民主国においても存在すること」一ーは,
おそらく彼の注意を引きつけたはずである。いずれにせよ,彼がそれらを読 んだとすれば,それらは彼自身の主権論に手がかりを与えることができたの である。
ルソーによれば,プーフエンドルフが民主主義について肯定していること は,一切の正当な統治つまり一切の正規の国家にとって価値がある。主権の 存する主体は,いかなる場合にも「ただ一人の人間」ではありえないはずで ある。というのも,主権者は本質的に法人であって,法人格の観念は一個人 に適用することができないからである。これが『ジュネーヴ草稿j (第l編 第4章)においてルソーの援用する論拠である。彼は言う r国家のなかに は,それを支える共通の力とこの力を導く一般意思とがある。そして一方の 他方への適用が主権を構成する。だから,主権者はその本性によって法人で しかないこと,彼は抽象的で、集合的な存在しかもたないこと,またこの語に 付与される観念を,たんなる個人のそれに結びつけることはできないこと,
がわかるのであるJ(ウ、、ォーン,第1巻, 460頁)。
すでに見たように, プーフエンドルフは法人格の観念を rその無体的 な状態において考察された」諸個人に臨時せずに適用していた。この点につ
用語法の諸問題と基本的な諸概念 175 いて,ルソーはプーフエンドルフに同調していたと人は考えた。事実メスト 必 に よ れ ば レ 川f用いた表現ー「無体的で集合的な人格J (["社会契 約論」第3編第6章), i無体的で集合的な団体J(向上,第l編第6章)ーー は i無体的ではあるが集合的ではない人格,つまり無体的で個人的な人格 が存在しうることを暗示.していようJoiまさにこれがルソーの考えに違いな い」とメストル氏は付言する。このような解釈を確証するために, メストル 氏は「社会契約論.n (第2編第7章)の一節を引用するが,ルソーはそこで,
「われわれがすべて自然から受けとった身体的で独立した存在を,部分的で、
無体的な存在によってとり代える」ところに,契約の効果があると言明して いるのである。ところが,この場合に問題となっているのは法人ではなく,
契約の前後において人聞がおかれている〈無体的な状態〉だけなのである。
じつはルソーは,個人を,いかなる資格によるにせよ,法人とみなしうると は考えていない。彼はプーフエンドルフが示した区別を拒絶するのである。
彼にとっては「単一の法人」などまったく存在せず i複合的な法人」ある のみである。この点については,先に引用した「ジュネーゥー草稿』のテキス トは明快で、あり,それは,ルソーが法人という語を今日の法学者たちが解す
。
るのと同じ意味にとっていることを,示しているのである。彼にとって法人め
は「集合的な団体」でしかありえず,後者は,精神的なつながりによって,
共通の利害によって,そして大部分の場合,契約によって,結びついた,複 数の個人から構成されている。だからルソーが「無体的で集合的な人格」
と書くとき,それは無体的なまたは集合的な人格という意味なのである。と いうのも,個人的な,または単一の法人はまったく存在しないからである。
法人がもちうるのは i抽象的で集合的な存在」のみである。つまりそれは
「人工的な団体」または「理性から生ずる存在」なのである。ルソーはこの ことを繰り返し断言している。彼は言う i政治体は法人にすぎないから,
理性から生ずる存在にほかならないJ,と。この定式的表現は「戦争状態」
(ウ、、ォーン,第1巻, 301頁)のなかに見いだされる。ルソーはそれを『社 会契約論j (第1編第7章)で繰り返している。彼は言う iそして,国家を 構成する法人を,それが一人の人間ではないがゆえに理性から生ずる存在と
みなし……」。ルソーがここで国家についてl'j・定していることは,あらゆる 法人にとっても価値があり,政府や部分社会にも等しく当てはまる。
法人は一般にそれらの存在を契約に負うが,しかし例外なくそうだという 訳ではない。国家や大部分の部分社会が契約にその起源を有するとしても,
政府についてはそうではない。しかしながら,ルソーが政府を法人とみなし ていることは疑いえない。なぜなら,彼は「社会契約論.n (第
3
編 第1
章) で書いているからである。「政府はそれを含む大きな政治体の紡図である。それは一定の権限を授けられた法人であり,主権者のように能動的であり,
国家のように受動的で、あって,他の同じような関係に分解することができる」。
政府は主権者の意思を執行するために,また主権者と臣民との関係において 媒介となるように,主権者自身によって創設された「人工的な団体」である
U '
社会契約論」第3編第l章参照o
。だから,まさにルソーの場合には,メ ストル氏が指摘する(456‑7頁)ょっに,法人には二重の起源がある。それ らのあるもの一一一これが一番多いが一ーは,それを構成する人々の意思にそ の存在を負い,他のものは,それを生みだした主権者の意思によってしか存 在しないのである。だがいずれにせよ,それを設立するのはその構成員の結合である。この結 合の心理的基礎は「共通の利益」であるが,法的にはその結合は,政府の場 合を除き,協約または契約によって行われる。この結合から,団体の全成貝 に共通する意思が,あるいは自生的に,あるいは協約にまさに則って生じて くる。事実,共通の意思一一一般意思一一ーの存在が,団体全体を単独の人格 とするのである。団体全体とその各成貝とに共通するこの一般意思は,法人 全体の本質的要素をなすものである(メストル,前拘書, 457‑8頁参照)。
一般意思の理論は国家についてだけ有効なのではない。それはもっと一般 的な射程をもっており,すべての「無体的で集合的な人格」に等しく当ては まるのである。
(1),部分社会は「団体意思J をもっている。この意思は,その団体の成員 にかんしては一般的であるが,国家との関係では, もはや法律の表明を歪め る特殊意思でしかない。ルソーのテキストは,この点についてわずかの疑問