農業プロレタリアート
原文:http://bit.ly/1LAll9I
「はじめに」で、プチブルジョワジーとかつての労働者たちのわずかな独立と同時に、放 棄された耕作地が大農場となり、小規模農家が大規模農家の圧倒的な競争に潰されたとき に、小農もまたかつての工業と農業作業の連合が解体された様子を見た。それまでのよう に地主や借地権の持ち主となるかわりに、いまやかれらは大農家や地主たちの使役人とし て己を雇用させるしかなくなった。しばらくはこの地位も我慢できるものだったが、かつ ての地位に比べれば立場は悪化した。工業の発展は人口増加と足並みを揃えてはいたが、
製造業の進歩がやがて速度を落とし、機械の永続的な改良により製造業が農業人口余剰を すべて吸収するのが不可能になった。この時点以降、これまで製造業地区だけに存在し、
しかもたまにしか見られなかった貧窮が農業地区でも見られるようになった。同時期に、
フランスとの25年にわたる戦争が終わった。各種戦場での生産の低下、輸入の停止、ス ペインにおける英軍への補給に伴う需要は、イングランドの農業に人工的な繁栄をもたら しており、さらには軍のために、大量の労働者が通常の職業から徴用されていた。こうし た輸入取引の抑制、輸出の機会、労働者の軍事需要が、いまや唐突に終わった。そして必 然的な結果として、イギリスが農業不況と呼ぶものが生じた。農民たちは穀物を低価格で ウルし中区、結果として低賃金しか支払えなかった。1815年には価格維持のために穀物 法が可決され、小麦価格がクォーターあたり80シリング以下で続いた場合には穀物輸入 を禁じることになった。こうしたうまくいくはずもない法律は何度か改定されたが、農業 地区での不景気を緩和するには成功しなかった。唯一の成果は病気を変えたことでしかな く、外国からの自由競争下であればもっとこの病状は急激なものとなって一連の危機と なっただろうが、それが慢性的なものとなり、農業労働者たちに重たくかつ均一にのしか かるものとなっただけだった。
農業
プ ロ レ タ リ ア ー ト
プロレタリア階級誕生からしばらくの間は、製造業で破壊されつつあった主人と人 との関係が、ドイツでいまだにどこでも存在する農夫と作男たちとの関係としてイングラ ンドでも発達した。これが続いている間は、作男たちの貧困はそれほど目立たなかった。
かれらは農夫と運命を共にして、クビになるのは最もギリギリの必要性が生じた場合だけ だった。だがいまやこのすべてが変わった。作男たちはほとんどどこでも日雇いとなり、
農夫たちが必要と思ったときにだけ雇用され、したがって、しばしば何週間も仕事がな く、特に冬の間はこれが顕著だ。父権的な事大だと、作男やその一家は農場に住み、子ど もたちはそこで詩断ち、農夫はその場で次世代のための仕事を探そうとした。当時は日雇
いは例外であり、通例ではなかった。だからどの農場にも、厳密に必要とされるよりも多 数の作男たちがいた。したがって、農夫たちにとってはこの関係を解体し、作男たちを農 場から追い出し、日雇いに変えるほうが利益にかなう。これは1830年に向けてかなり広 く行われ、結果としてそれまで隠れていた過剰人口が解き放たれ、賃金率は強制的に押し 下げられ、貧困率はすさまじく上がった。この時点から、農業地区は永続的な貧窮の本拠 地となった。これは工業地区がむかしから一時的な貧窮の本拠だったのと同様だ。そして 日々悪化する地方部教区の貧困への初の対処方法として政府が適用せざるを得なかったの は、救貧法の改定だった。さらに、大規模農業の絶え間ない拡張、脱穀機など各種機械の 導入、女子供の雇用(これはいまはあまりに一般的なので、その影響は特別公式調査団に より最近になって調査されたほどだ)で、大量の男性が失業した。つまり、ここでも工業 生産のシステムが、大規模農業と父権関係(これはこの地ではきわめて重要なものだ)の 廃止、機械、蒸気、女子供の労働という形で登場したのだ。そうすることで、それは労働 人口の中で最後の最もじっとしていた部分を革命運動に送りこむことになった。だが農業 はじっとしていた期間が長かったぶんだけ、労働者への重荷も増しており、古い社会構造 の解体の結果ももっと暴力的に前進することとなった。「過剰人口」はいきなりあらわと なり、工業地区とはちがって、生産増加のニーズにより吸収されなかった。製品の消費者 さえいれば新しい工場はいつでも建てられるが、新しい土地を作り出すわけにはいかな い。遺棄された共有地の交錯は、平和の実現に続いた不景気時には、あまりに無謀な投機 となった。必然的な結果として、労働者同士の競争は最高潮に達し、賃金は最低水準にま で下がった。旧救貧法がある限り、労働者たちは地方税から救済金を受け取った。賃金は 当然ながらさらに下がった。農民たちがいたので、最大限の数の労働者が救済金を受け取 ろうとしたからだ。余剰人口により必要となった貧困救済金は、この手法によりさらに増 えるばかりで、新しい救貧法は(これについてはあとでもっと述べる)、その対処法として いまや施行された。だがこれでも事態は改善されなかった。賃金は上がらず、余剰人口は 処分できず、新法の残酷さは人々に極度の不満を抱かせるばかりだった。貧困救済金です ら、新法可決の直後には減ったものの、数年たつとかつての高い水準に戻ってしまった。
その唯一の影響は、かつては半ば物乞い状態の人々が300万から400万人いたものが、い まや完全な物乞いが百万人生まれ、残りはいまだに半分物乞い状態だったが、いまや救済 金がもらえなくなっただけだった。農業地区での貧困は毎年増えた。人々は極度の欠乏の 中で暮らし、家族全員が週に6、7、8シリングでやりくりしなければならず、ときには文 無しだった。1830年というはやい時期に議会の自由党議員がこの人口について描写した ものを聞いてみよう。
「あれはイングランドの農民または物乞いです。というのもこの二語は同義なの です。その父親は物乞いであり、母親の父は滋養に書けておりました。子供時代か ら食事はひどいものであり、不十分でした。そしていまや、起きている間はずっと 満たされぬ飢えの苦痛を感じているのです。しかし服も半ばまとわず、わずかな食 事の調理に足る以上の暖を取ったこともないので、天候にあわせて冷気も雨もやっ てきてはとどまります。結婚はしておりますが、夫や父親としての最高の喜びを味 わったこともありません。その伴侶と子どもたちは、自分と同じくしばしば飢え、
暖を取れることもほとんどなく、ときには病気でも治療もなく、いつも希望なくし て悲しく、貪欲で利己的で面倒な存在なのです。ですから当人自身の表現を借りれ
ば『そいつらを見るだけでウンザリ』であり、自分のあばら屋に帰るのは、茂みで は風雨からの保護が少ないからというだけの理由です。」この者は家族を喰わせね ばならないがその能力がない。「このため物乞い、詐欺、口論がもたらされます。
そして結局は元の木阿弥。意欲はあるのですが、同じ階級でもっとエネルギッシュ な男たちのように、大規模な密猟者や密輸人になるだけの勇気は欠けています。で もたまにはこそ泥をして、子供にはウソをつき盗むよう教えます。豊かなご近所に 対するへつらうような奴隷じみた態度は、かれらが疑念と厳しさをもってこの人物 と接していることを示しております。結果として、この人物はご近所を恐れつつ憎 んでおります。でも決して暴力的な手段でかれらに危害をくわえはしません。必死 にもなれないほど落ちぶれ、完全に堕落しております。その惨めな仕事は短いもの となります。リューマチとぜんそくで救貧院に送られるしかなく、そこでかれは何 一つすてきな想い出もなく息を引き取り、そして同じように生きて死ぬべき別の悲 惨な人物のために場所を空けることとなるのです」
この著者が付け加えているところによれば、この農業労働者階級の横には、別の少しば かりエネルギーがあり肉体的、精神、道徳的に恵まれた階級があるそうだ。その人々は、
同じくらい悲惨な暮らしをしているが、もともとこんな状態に生まれついたわけではない 人々だ。こうした人々は、この著者によれば家族生活においては少しはましながら、密輸 人や密猟人となってしばしば沿岸部の獲物管理者や歳入担当官と血みどろの争いに陥り、
しばしば投獄されて、社会に対してますます恨みをつのらせ、このために財産保有者に対 する憎しみの点で、前者の階級よりも先んじているとのことだ。
最後にかれはこう述べた。「お情けにより、この人々全体が『イングランドの力 強い農民』と呼ばれているのです」
現在に至るまで、この記述はイングランドの農業労働者の相当部分に当てはまる。1844 年6月に『タイムズ』紙は記者を農業地区に送り、この階級の状況について報告させた が、その記者が書いた報告はまったく前出のものと同じ内容だった。一部の地区で賃金は 週6シリングを超えない。これはドイツの多くの地区以下であり、しかもイングランド では生活必需品の価格はすべて少なくとも2倍はするのだ。こうした人々がどんな生活 を送っているかは想像できるだろう。食べ物は少なく劣悪で、服はボロ、住居は過密で荒 れ果て、小さく、オンボロの小屋で快適性は一切ない。そして若者たちにとっては下宿屋 で、男女がほとんど分けられることがなく、婚外性交が挑発されることになる。一ヶ月で 仕事のない日が一、二日あるだけで、こうした人々はすさまじい欠乏にさらされるのは避 けられない。さらに、団結して賃上げを求めることもできない。というのも散らばってい るし、一人が低賃金で働くのを拒否しても、失業者は何十人もいるし、救貧補助金で助け られているからきわめて少額の賃金でもありがたく働く人も多い一方で、仕事を断る者に 対しては、怠け者の放浪者と同じくだれもが嫌う救貧院以外には、救貧法の管理者たちか らの救済措置はまったく与えられていない。 というのもその管理者はまさに、その者に 仕事を与えてくれる可能性のある農民その人か、そのご近所や友人たちなのだ。そしてこ んな報告がくるのは、イングランドの特殊な地区一つや二つではない。それどころか、こ の苦境は全般的で、北部と南部、東部と西部で同じくらいひどいのだ。サフォークとノー フォークの労働者の状態は、デヴォンシャー、ハンプシャー、サセックスの労働者のもの