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第四の解釈は、習慣性概念それ自体を否定し、 『イデーン I』における空 虚な自我極の立場に逆行するものである。

第 五節 構 成論における習慣性の位置づけ

D) 第四の解釈は、習慣性概念それ自体を否定し、 『イデーン I』における空 虚な自我極の立場に逆行するものである。

まずもって、 「空虚な自我極」という『イデーン

I』期の古い自我論に立ち戻

る解釈

D

に関しては、本章第二節及び三節での議論を踏まえ、ここでは考 察の俎上から除外することにしよう。したがって、ここでは、習慣性を形成 するその仕方について論じる解釈

A

から解釈

C

までの3つを検討すること とする。

さて、解釈

A

は、ノエシスの意味付与作用を通して質料と作用から対象

認識が成立するという、 『イデーン

I』期の対象構成論に留まりつつも、習慣

46

概念そのものは現象学の考察の内に引き入れようとする立場である。先の区 分を行ったインガルデン本人も、この解釈

A

に賛同する旨をその場で述べ

ている

(vgl. Hua I, 218)。この解釈に従えば、習慣性の形成はノエシスとノ

エマの相関関係によって明らかにされることになる。たとえば、 『デカルト 的省察』第

32

節、あるいは『イデーン

II

』第

29

節で示されているように、

意志や信念等の比較的高次の作用は「純粋自我の持続的思念」として、特に

「コギト」としての自我への帰属性を強調される類のものである。これらの 作用は、過去地平への沈殿化と、そこからの再現前化を通して、習慣的なノ エマとして把捉される。すなわち、以前存在した思念が現在も存続している ことを自我が反省的に把捉することを通して、それが「習性的思念」として ノエマ的に構成されると考えられる。あるいは、ごく日常の場に目を転じて も、私達の所持する諸習慣の中には、繰り返しの練習や決心を経て、私達が 自発的にそれを習慣たらしめようとして身につけるに至ったものも数多く 存在する。むしろ、ある程度の発達を経た「人間」の習慣の多くは、そうし た広い意味での教育や学習の努力を経て獲得されたものであり、そのような 意味においても、習慣を構成する自我の自発的な作用によって私達の習慣が 成立するという解釈は、理解可能なものである。インガルデンは、あらゆる 体験流を生き抜く主体が存在するという仮定の下、習慣的なノエマを形成す る特殊な作用の存在を認めるのである。

しかしながら、そのような自我による顕在的な意味付与作用が、あらゆる 習慣の形成において絶対的な条件として必要かという点に関しては議論の 余地がある。ベルクマンとホフマンは、この点に関して、特殊な作用を経ず とも習慣化はあらゆる現象に認められるという解釈を展開している

69

。彼ら は、フッサールの習慣性概念が多義的なものであることを強調し、インガル デンの指示する解釈

A

における習慣は、特定の「コギタチオの習慣性」と いう、狭い意味での習慣性しか捉えていないと批判する。そして彼らは、解 釈

B

及び解釈

C

を、その狭義の習慣性概念の規定から脱却する方途として 積極的に評価するのである。

解釈

A

を採用するインガルデンに対して、解釈

B

ないしは解釈

C

を推す 論者としてはベルクマンとホフマンのほか、フンケなどが挙げられる

70

。解 釈

B

と解釈

C

は両者共に、習慣性の形成の絶対的な条件としてコギトの意 味付与作用を置かないことに関しては軌を一にしている。しかし、 解釈

Bは、

自我の意味付与作用を基調として習慣性の形成を考える立場からは距離を

69 Vgl. Bergmann & Hoffmann, [1984], S. 297f.

70 また、前章で取り上げた「受動的習慣性」の解釈を行った中山も、解釈Cを採 用する論者として位置づけられるだろう。

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取りつつも、習慣性の形成と自我の作用遂行が並列的に進行するとしている 点では、作用と習慣性の関係について曖昧な部分を残している。すなわち、

解釈

B

の立場を率直に解するならば、習慣性の形成は自我の特殊な作用に よるものではないが、同時に、習慣性が形成されるのは自我の作用遂行、な いしはその意識体験に対してのみであるということになる。この解釈

B

の 立場に即して言えば、たとえば中山の主張した先触発的・先自我的な次元に おいて形成される「受動的習慣性」という領域までには考察が至らないであ ろう

71

。とはいえ、作用の遂行そのものに習慣化という現実性が伴っている という、習慣性のある種自己生成的な視点は、習慣化があらゆる体験の様相 に付随して登場してくるものと考えたとき、非常に示唆に富んだものともな っている。

これに対して、解釈

C

は、古い対象構成論から抜け出し、発生現象学へ と 舵 を 切 る こ と を 明 確 に す る 立 場 で あ る 。 こ こ に お い て は 「 構 成

(Konstitution)」と「発生(Genese)」の概念が明確に区別され、

「構成」が、

所与性へと至ったある対象に対する諸作用による「意味の規定」の次元と規 定される一方、「発生」はその対象そのものの構成を担う次元、すなわち先 自我的な先構成の様相であると規定される(vgl. Hua I, 217)

72

。この「発生」

の次元に習慣性の形成の場を置いた場合、習慣性概念は「意識体験の単なる 相関者」という制限をまったく受けず、それまでの現象学的分析に大きな転 回を加えることになろうとインガルデンは示唆している(ebd.)。

従来の対象構成論を維持しようするインガルデンは、この解釈

C

に対し て消極的な姿勢を取っているが、人間存在とその発達における習慣性の役割 を積極的に評価しようとする本論にとって重要なのは、むしろこの解釈

C

の立場を推し進めることにこそあろう。先述したように、ベルクマンとホフ マンは、インガルデンによる解釈

A

を狭義の習慣性解釈として批判してい るが、かといって、インガルデンの主張するような「作用ないしは意識体験 の相関者」としての習慣性があること自体は否定していない。彼らが強調す るのは、フッサールの習慣概念が多義的に解釈されるべきであり、意識作用

71 中山、[2013]、199-200頁参照; vgl. Hua IV, 311; Mazijk,[2016], 428.

72 フッサールの「構成」概念を研究した古典的な論者としてはソコロフスキーの 名が挙げられる。彼は1964年の著書において、「静態的な構成」と「発生的な構 成」という形で構成の概念を区分している(Robert Sokolowski, The Formation of Husserl’s Concept of Constitution, Den Haag, Martinus Nijhoff, 1964.)。また、

フッサール自身が『デカルト的省察』において、「いかなる自我の能動的な関与の ない受動的発生」(Hua I, 29)について論じていることも無視されてはならない。

48

を基調とした対象構成に還元し尽くせるものではないということである

73

。 解釈

B

C

を合わせ持つような持論を主張するフンケは、超越論的自我 それ自体の構成の次元に習慣性の役割を認め、超越論的自我の自己時間化の プロセスと習慣化のプロセスを連動的に描いている

74

。いわば、自我それ自 体の発生と、習慣性の発生の問題をフンケはリンクさせるのである。ホ―レ ンシュタインは、このフンケの解釈に対し、彼が「習慣の発生」の問題と、

「過去把持と未来予持による意識流の発生」の問題とを完全に混同している として批判しているが

75

、しかし、後藤が指摘しているように、フッサール 自身、『デカルト的省察』において、 「「完全な具体化」におけるモナドに先 行する自我――すなわち、絶対的自我が、「流れる生」の中から、「「超越論 的発生」の法則性」に従って構成されるという問題次元を示唆し、この自我 を、「留まり続ける習慣」によって「固着する自我」として規定している」

ことは見過ごせない点である

76

。フッサールによれば、超越論的モナドは、

それ自体すでに超越論的に構成され、時間化されたものとして、 「超越論的 習慣性」を持つ(Hua XV, 541,550)。それは、自我の構成以前の、自己時間 化してくる根源的な超越論的主観性が有する習慣性である。この根源的な超 越論的主観性は、モナド化に先立つ絶対的自我の構成よりもさらに前に位置 し、この自我構成そのものを可能にしている次元として考えられる。これに ついてフッサールは次のように述べている。

「自己統覚を通して、超越論的自我は、統覚的で超越論的な能作の中に 入り込み、その能作は自我に属する超越論的習慣性 、、、、、、、

によって、その自我 に特殊な世界としての存在意味を与えることができる。〔その自我は〕

純粋な極ではない。これは抽象化されたものでしかない。その自我がそ うあるところのものは、その触発と活動において、それに相応する習慣 性と自我の意識流の具体的な基底において存在する」(Hua XV, 541)

73 Vgl. Bergmann & Hoffmann, [1984], S. 283. 彼らは、フッサールの習慣概念 の捉え難さの理由の一端として、習慣性概念と紐づけられる自我概念それ自体が 多義的であることや、意識流においては受動性と能動性の境界が流動的に変化す るものであることを挙げている。また、フッサールにおける習慣性の概念的な配 置や使用例については、モランが包括的に解説している(cf. Moran, [2011].)。

74 Vgl. Funke, [1961], S. 520f, 523ff, 534f.

75 Vgl. Elmar Holenstein, Phänomenologie der Assoziation, Den Haag, 1972, S.

61. ここには習慣とその周辺概念、たとえば「記憶」との相違などの問題が関わ っている。この点については後に改めて論じるものとする。

76 後藤弘志『フッサール現象学の倫理学的解釈』、ナカニシヤ出版、2011年、

133頁; vgl. Hua I, 100ff.

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