前章においてはまず、コギトの主観としての純粋自我との関連において、如何に して習慣性概念が現象学的分析の主題として出現してきたのかを論じ、そして習慣 性という性格を含んだことにより、フッサールの分析において、自我の反省作用に 依らない「発生」という次元が顕在化してきたことを明らかにしてきた。本章にお いては、この「発生」ないしは「先構成」の場面を、受動的志向性における受動的 綜合の領野として明らかにし、そこにおいて如何に習慣性が形成されてくるのかを 考察していく。そこにおいて主に扱われるのは、(1)習慣性の形成の根源が、過去 把持の沈殿化を基調とした内的時間意識の構造の中に見出されること、そして、(2) 習慣性の働きが、原理的に自我の作用を介さない「受動的綜合」としての「連合」
の機能として見出されることである。また、本章の後半においては、その連合の記 述の延長として「類型」の概念、そして「触発」や「習慣的動機づけ」の概念を考 察し、習慣性が受動的な先構成の次元においてすでに活動していることを確認する。
第一節 志向性の諸区分に応じた習慣性概念の再配置
前章において紹介したインガルデンによる習慣の四つの解釈(特に解釈C)にお いては、習慣性の形成を論じるにあたって、「構成」と「発生」の次元が区別され ることが論じられた。上記の問題が、いわゆる「能動性」と「受動性」、さらには
「静態的現象学」と「発生的現象学」の領域設定に関わるものであることは明白で ある。フッサールによれば、「静態論的」構成とは「既に”発達”した主体性と関連付 けられた」構成である(vgl. Hua XII, 257)。フッサールは1927年の『現象学的心 理学』において、静態的現象学の問題群として、(1)「志向的諸体験一般の本質」、
(2)「志向的諸体験の個別的諸形態の研究」、(3)「普遍的な意識流の本質的性質」、
(4)「自我という主題」及び「習慣性の本質形式」の四つを挙げ、これらが最終的 には「発生」の問題へと繋がっていくのだと論じている(vgl. Hua IX, 286)。この発 生とは、「形相的な諸法則によって生全体と人格的自我の発達を支配し続ける普遍 的発生」であり、それゆえフッサールは、「最初の“静態的現象学“の上に、より高次 の段階において動態的(dynamisch)ないしは発生的な現象学が設立される」と論 じる(ebd.)。この動態的ないしは発生的な現象学は、「最初の基づける発生」として、
受動性における発生の研究を担う。そして、この受動性においては、「能動的なも のとしての自我は関与しない」と指摘され、ここにおいて受動性の定義が明確に行 われている(ebd.)。すなわち、「受動性(Passivität)」とは、自我意識の関与しな
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い発生の場面において働く構成能作であり、しかもそれは、「生全体と人格的自我 の発達を支配し続ける」というように、自我意識が形成された後もそれを根底で基 づける本質規則性として捉えられるのである。フッサールは、このアプリオリな発 生の問題に伴って、連合が大きな課題となるとし、「実在的な空間世界が心にとっ て習慣的に妥当するものとして構成されるのも、アプリオリな発生に基づいたこと」
(ebd.)なのだと論じる。ここにおいては、自我の周囲世界の構成においても習慣化 の働きが認められていること、そしてそれが根源的に受動的な発生の場に根差して いることが示されている。
これに関連してフッサールは、さらに後年の『デカルト的省察』において、「発 生」の概念を「受動的発生」 と 「能動的発生」の二つに区分している(vgl. Hua
I, 29, 111)。前者はインガルデンにおける「発生」の概念に相当し、「自我のあらゆ
る能動的関与のない」受動的綜合の次元を意味している(Hua I, 29)。他方、後者は 従来の対象構成に相当し、自我の諸作用が関与する「高次の発生」(ebd.)として捉 えられる。前章で述べたように、ベルクマンやフンケらは、両者それぞれにおいて 習慣性の働きを認めたのであったが、実際、フッサール自身の記述に即しても、習 慣性概念は自我ないしはその作用の関与の仕方に応じて、幾つかの階層に区分でき る。
たとえば、『受動的総合の分析』においてフッサールは、「主観性の一般的な本質 に属す習慣性は、まさに受動性と能動性においては別様にあり…」(Hua XI, 360)
と指摘している。ここにおいては、まず受動性における習慣性が、「過去把持への、
そして過去把持を通して仮死状態にあるような忘却への移行であり、この忘却は再 生産、すなわち再想起という標題の下で受動的に再覚起されうるようにある」(ebd.) と表現されている77。こうした性格を持つ習慣性は、過去地平において再覚起に備 え、以後の体験に対して受動的ないしは潜在的に影響を与え続ける(EU, 336; vgl.
Hua XVII, 318)。たとえば、習慣化された態度決定の中でも、とりわけ「連合的動 機づけ/受動的な動機づけ」と呼ばれるものは、自我の意識にとっては秘匿されつ
77 再想起は基本的には能動的志向性に属する自我の作用として考えられる能作で ある。しかし、「受動的に再覚起されうる」というこの言明は、再想起という言葉 を使いつつもその実態は、受動的綜合としての連合の能作がそこで考慮されてい ることを示唆している。たとえばフッサールは、不明瞭な再想起や鮮明さを欠い た再想起を「空虚な再想起」と呼ぶが、この「空虚な再想起とは本来、再想起で はなく、記憶の深みから浮かび上がってくる過去把持的沈殿物のもつ覚起、ない し触発的刺激なのである」(Hua XI, 113)とし、それを通常の意味での再想起と 明確に区別している。また、『経験と判断』においては、過去の記憶が自我の作用 としてではなく、自然に「ふと思い浮かんでくる」という現象があることが指摘 されている(vgl. EU, 336)。
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つも、無意識に自我の諸行為を方向づける働きを持つと捉えられている(vgl. Hua IV, 222f.)。この記述においては、習慣性はあくまで非顕在性ないしは潜在性に留ま ったまま、受動的に自我の体験を基づけていると考察されている。
他方、「受動性における習慣性」に対して、「自我の能動性における習慣性は、同 様ではない」(ebd.)と述べられる。というのも、「能動性における習慣性」の「能 動性」とは、コギトの自我を前提にするからであり、たとえば「私は緑の党を支持 する」という政治的信念のように(vgl. Hua I, §32)、自我の能動的な態度決定に際 して自由に「準現在化(Vergegenwärtigung)」され、自我の持続的思念として妥当 性の承認を受ける習慣性を意味するからである78。いわば、「能動性における習慣 性」とは、先のインガルデンの解釈Aに相応する、ノエマ的な習性的思念と言いう るだろう。
このようにフッサールの習慣性概念は、志向性の「能動性/受動性」に即して区別 されうる。受動性における習慣性は、基本的には過去把持的移行において自我にと って「忘却」されており、逆に能動性における習慣性は再想起され、対象化された 習慣性である。
しかしながら、前者の受動性における習慣性には、さらに二種類の区分が想定さ れうる。まず一方では、以前の自我の能動的作用に起源を持つが、今は受動的とな っているような習慣性が考えられる。フッサールはそれを『受動的綜合の分析』に おいては、「二次的感性(sekundäre Sinnlichkeit)」と呼び(Hua XI, 342)、『経験 と判断』においては「二次的受動性(sekundäre Passivität)」と呼んでいる(EU,
336)。そこにおいては「習慣的なものの一般的な意識法則」として、「あらゆる習
慣的なものは、受動性に属す」ことが述べられ、したがって「習慣的になった能動 的なものもまた」同様であるとされる(Hua XI, 342)79。能動性において構成され たものは過去把持的移行に伴って背景に沈みこみ、受動性へと転化する。しかし、
それは「その起源の刻印」を有しており、その意味では「二次的感性」ないしは「二 次的受動性」としての習慣性もまた、「自我の習慣性」として捉えられる。
それに対し、フッサールは「根源的受動性(ursprüngliche Passivität)」(EU,73)
と言われる次元をさらに想定している。この受動性は、「根源的に構成するが、た だ先構成するだけの時間流の受動性として、能動性以前の受動性」(EU, 119)と解 される。いわば、この「根源的な受動性」こそが真に「能動的なものとしての自我
78 とはいえ、再現前化されるためには、それ以前に過去把持において沈殿化して いることが前提とされることに注意せねばならない。その意味では、「あらゆる習 慣的なものは受動性に属す」というフッサールの主張は適切である(Hua XI, 342)。
79 その意味では、従来の対象構成論におけるノエシスの相関者としての「習性的 思念」(「能動性における習慣性」)も、究極的には受動性に属すと考えられうる。
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の関与がない」受動性として(Hua IX, 286; Hua I, 29)、「第一の基づける発生」
として扱われるべきものである(Hua IX, 286)。前章で触れられた超越論的自我の 発生そのものに関与する「超越論的習慣性」や、本来的な「受動的習慣性」は、そ の原初の構成の場をこの領域に持つと考えられよう。
先の引用にも見られるように、能動的発生から区別された受動的発生、とりわけ
「根源的な受動性」における「発生の原法則」とは、「根源的時間意識の法則」で あり、これが再生産の原法則や、連合及び連合的予期の原法則として機能している
(vgl. Hua XI, 344)。そして、「時間流の原発生」においては「過去把持」が「発 生論的原法則性」の第一の側面であり、「未来予持」がその「第二の側面」と言わ れる(vgl. Hua XI, 73)。ベルクマンとホフマンは、フッサールにおいて「自我」と
「時間」、そして「習慣性」の問題は複雑に絡み合っていると指摘しているが80、と りわけ「発生」という観点に立って「受動的習慣性」等を論ずるにあたっては、「時 間化」や「連合」の問題を避けては通れないことは明らかである。そこで次節以降 においては、この時間化の問題を、過去把持の能作を中心に概観してみよう。
第二節 『時間講義』における過去把持の分析 2-1. 反省の無限遡及の問題と受動性の次元の開示
フッサールの現象学において「習慣」と「時間」の問題が密接にリンクしている ことは、既に幾度も強調してきた通りである。たとえば、第一章第三節において見 たように、当初、「空虚な極」として規定された純粋自我が、習慣性を所持する自 我として修正されるに至ったのは、純粋自我が諸体験の流れを統一する主体、「自 我生」を生き抜く主体として捉えられたことにその契機があった(vgl. Hua IV, §
28-29)。周知の通り、フッサールは『イデーンI』においては時間性の問題を敢え
て避けて考察を進めることを明言しているが、それでも、諸々の体験は「全てこの 連続的な“根源的“時間意識において構成される」と述べるなどして、体験流の構成 における時間化の根源的役割について示唆している(Hua III, 245)。シュタインボ ックは、フッサールが「発生」の概念を明確に用い始めたのは1915年以降である と述べているが、同時に、フッサールは発生的次元の存在について自覚する以前か ら、その分析に着手していたとも指摘している81。その意味では、1904/1905年頃 に執筆された『時間講義』も、不完全ながらも発生の問題に着手した草稿と評価で きるものである。
この『時間講義』は1913年に公刊された『イデーン I』よりもさらに以前の草
80 Vgl. Bergmann & Hoffmann, [1984], 283.
81 Cf. Anthony Steinbock, Home and Beyond Generative Phenomenology after Husserl, North western U. P., 1995, p. 40, 37, 261.