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章結 都市の有機的⼀体性をあらわす

ドキュメント内 著者 植田 曉 (ページ 163-200)

イタリア独⾃に育まれたテッスート・ウルバーノ

本章では、イタリアおけるチェントロ・ストリコの全体像を分析し、保存活⽤する上で、

イタリアに育まれた固有の5つの⽴脚点、テッスート・ウルバーノ、建造物の類型学、都市 形態学、真正性、「都市の構造」(ストゥルットゥーラ・ウルバーナ)の、それぞれの特徴に ついて理解を進めた。その結果、テッスート・ウルバーノという概念を、他の4つの概念が 補うかたちの理論構築があったことを理解しえた。本章結では、この関係を確認したうえで、

テッスート・ウルバーノという概念について、その特性と成⽴の経緯を検証したい。

【1.イタリア独⾃の5つの概念の関係】

・テッスート・ウルバーノという概念が、建造物の類型学と都市形態学という2つの側⾯

を有すること、近年では双⽅の概念を複合的に活⽤していること、

・テッスート・ウルバーノのふたつの側⾯にたいして真正性という価値観が加わったこと、

・「都市の構造」は歴史的な重層性を根底におくテッスート・ウルバーノとは異なり、現 存する空間を重視すること、

・「都市の構造」とは、異なる「都市のかたち」が連結し、ひとつの市街地を形成するこ とによってうまれる都市像をさすこと、

以上の4つの枠組みを理解した。つぎにテッスート・ウルバーノの定義と成⽴の経緯を、時 系列に検証したい。

【2.第2次世界⼤戦前のテッスート(・ウルバーノ)】

今⽇のイタリア都市計画が⽴脚する歴史的都市の研究は、中世都市研究を経て、誕⽣した と考えられる。20世紀前半とは、この道筋が形成された時期といえる。中世都市研究は地理 学をはじめとした他分野では19世紀より、都市史や都市計画の分野では20世紀初頭から着

⼿された。ドイツから始まったこの研究は、パリ⼤学都市計画研究院においてマルセル・ポ エトやピエール・ラヴダンが都市形態学的分析として発展させ、この研究をイタリアでジョ ヴァンノーニ、ピッチナート、ゾッカらが踏襲した経緯を把握した。上記の研究以前には、

ローマ時代の計画都市とルネサンス以降の近世の計画都市は、中世によって断絶した異なる 研究だったと考えられる。中世都市研究の⽅法論が提唱されてことにより、イタリアのロー マ前史、ローマ時代、中世、近世の都市といった、各時代によって異なる特性を⽰す市街地 の重層性を主題とした都市論が可能となったことを導いた。

20世紀の前半とは、上記の中世都市研究をイタリアにおける研究として消化する期間だっ たと理解しうる。その第⼀歩として、都市の全体像を概念化・抽象化せずに表現する第⼀歩 として、「繊維」を意味する⽤語を市街地のメタファーとして⽤いるようになったと考えら れる。ジョヴァンノーニは「フィブラ(fibra)」という表現を中世の時代に形成された市街 地の全体像を指し⽰す⽤語として、1920年代末から⽤いた。マリオ・ゾッカやピッチナート は計画された古代都市の全体像を指し⽰す⽤語として、テッスートという表現を1930年代 初頭に⽤いた。しかしこの表現に分析的な意図が込められていたわけではなかった。あくま でも具体的な市街地を想起させ、そのイメージを包括的に論じるために⽤いたメタファーだ

ったと考えられる。

イタリア独⾃の、テッスートの分析に結びつく展開は、たとえばラヴダンによる分析が公 共の⼟地と建造物が占有する⼟地という地と図の関係を描いていたのにたいし、ピッチナー トがポルティコやロッジア、教会といった公共空間を図化するようになった点を指摘できる。

【3.第2次世界⼤戦後から1949年までのテッスート(・ウルバーノ)】

この期間は都市全域を歴史的重層性という視点から捉える社会的要求が⾼まり、都市計画 分野でも俯瞰的な概念が求められた。テッスート・ウルバーノという概念の揺籃期と考える ことができる。

国を挙げて取り組む体制が整ったのは、第3章で理解したように、戦後の国⼟の復興の⼀

環として、チェントロ・ストリコの保存活⽤をINUより国に答申したことに起因した。さら にその実践に向けて、ムラトーリ、クアローニらがチェントロ・ストリコを、

・⼈々の⽣活の場である都市の中⼼として機能し続けること、

・「博物館としての都市」として保存活⽤すること、

以上の2つの側⾯から保存活⽤することを提唱したことが、将来の⽅向性を確実に定めた。

またこの時期には、テッスート・ウルバーノの背景となる、しかし当初は現代建築の設計 に向けた⽴脚点として、建造物の類型学にかんする考察をムラトーリが深めていた。

【4.1950年から1963年までのテッスート・ウルバーノ】

この期間はテッスート・ウルバーノという概念の醸成・普及期と考えることができる。

テッスートという市街地のメタファーとしての⽤語が、より具体的な意味合いを以って、

テッスート・ウルバーノとしてイタリアで⽤いられるようになったのは、1950年のことと 考えられる。ムラトーリは、第3章第5節で述べた保存活⽤の対象としてのチェントロ・ス トリコの全体像を、市街地の歴史的な重層性と⾯的な広がりからなる有機的⼀体性と論じ、

その総称としてテッスート・ウルバーノを定義した。またパリ⼤学都市計画研究院のガスト ン・バルデは同じ年に、都市の社会学的分析的分析⼿法としてテッスート・ウルバーノを提 唱した。いずれも都市をカタスト調査から分析すること、市街地全域・地区・街区・個々の 建造物という数段階のスケールから論じることなどを⼿法していた。この提案をとおしてム ラトーリは、フィブラとテッスートという⽤語を、テッスート・ウルバーノという⽤語に集 約したと理解できる。バルデによるテッスート・ウルバーノの定義の普及には限界があった。

その理由として、当時のINUにおける中⼼的な課題とは隔たりがあったためと考える。

テッスート・ウルバーノという⽤語は、両者が論⽂を発表した1950年を境に⼤いに普及 したことを、都市計画家の具体的な発⾔の⽐較をとおして理解した。そこに⼤きな⽅向性を 与えたのは、エドアルド・デッティとムラトーリだったことを浮き彫りにしえた。

デッティは戦前から続く中世都市の形態学的分析の⽬的を⼤きく転換した。従来のイタリ アの中世都市研究はラヴダンの⼿法に習い、個別の都市の形態が⽰す地と図の関係をモデル 化し、分類することを⽬的としていた。デッティはラヴダンによる、市街地をスケルトンと して観察する⽅法論を継承しつつ、公共空間を詳細に分析すること、地形と関連づけること、

市壁外の細かい⼟地利⽤や造成、植⽣に着⽬することをとおして、都市の固有性を分析する

⼿法に変換したことを明らかにした。

ムラトーリが確⽴したテッスート・ウルバーノは、建造物の類型学を背景としていたこと は、陣内(1978a, b)の紹介により、わが国でも広く知られている。そこで拙稿では建造物の 類型学を確⽴した背景に⽴ち返ることとした。

ムラトーリが建造物の類型学を構築したのは、INUにおけるチェントロ・ストリコの保存 活⽤に向けた、都市計画の実践的な展望を検討する取り組みと並⾏していたと考えられる。

ムラトーリはその構築にあたり、晩年のエトムント・フッサールやマルティン・ハイデガー との交流から、当時の欧州で先端的とされた哲学にもとづく、時代ごとに変化する主体と客 体の関係を整理した。また、ベネデット・クローチェによる4つの精神活動を組み替えた枠 組みを提唱した。こうした哲学的考察やクローチェに批判的ながらも影響下にあった理論を 統合し、⽂明史ともいうべき歴史から、新しい建築が踏襲すべき規範を導き、将来に向けた

⽅法論を確⽴するために建造物の類型学という理論を構築したことを理解できた。

ムラトーリによる建造物の類型学の概要は、建造物の3要素を技術、機能、美しさと位置 づけ、「空間」と、⼈々のアクティヴィティを物理的に制御し構造⼒学的にも意味のある壁 としての「構造」から成り⽴つとした。また、各々の建造物が内包する多様性と歴史的な重 層性を尊重することを重視した。建造物の類型の中⼼に据えるべき課題は、「多様性と歴史 的な重層性を俯瞰し、⾒いだすことのできる空間形成の⼀定の傾向」であり、それが⽂明の 証のある側⾯と論じた。以上の考察を経て、ムラトーリは「空間」と「構造」が織りなす地 と図の関係から、個々の建造物と市街地をシームレスに結びつけられる図式を描き出した。

これは陣内(1978a,b)がわが国に連続平⾯図として紹介した図式である。この建造物が群を なした都市空間から、建造物の類型をより確実なものとして導きうる、とした。

つまりムラトーリは建造物の類型学において、都市を新しい建築をこれからも重層させる 受け⽫として説いた。この考察とは逆に、都市を主体として、建造物の類型学によって分析 できる有機的な全体像をテッスート・ウルバーノという概念として論じ、チェントロ・スト リコの空間特性と歴史的な重層性を分析する⼿法を提⽰した。この⽅法を総括すると、個々 の建造物の特性を読み取り、その集合から再び読み取ることのできる共通の傾向から、市街 地の全体像を把握する⽅法といえる。そのため、このテッスート・ウルバーノを、建造物に よるテッスート(tessuto edilizio)とも記述した。

テッスート・ウルバーノと建造物の類型学を結びつけた最⼤の成果は、都市と建造物の有 機的な関係性を、ひとつの⽅法論の元に描くことができるようになったことだろう。この概 念を1950年に発表したムラトーリが、同時にヴェネツィア建築⼤学の学⽣を率いてフィー ルド調査をし、実証的研究をしたことは、陣内(1978a,b)が我が国に広く伝えた。

こののち、ムラトーリの当時の助⼿を務めていたパオロ・マレットやジャンフランコ・カ ニッジャは、カタストを中⼼とした史料と学⽣たちのデザインサーヴェイを基本としながら、

テッスート・ウルバーノのより実証的な分析⼿法を構築した。両者はひとつの「室(細胞、

セル)」を基本となる建造物を定義づけることから、建造物の発展に伴う類型やテッスート・

ウルバーノを検討することができると論じた。この考えに⽴脚し、マレットは空間構成をモ デル化する⼿法を⽣み出し、カニッジャは建造物と都市の発展の過程を類型学的に追う⽅法 を⽣み出したことを理解した。

尚、建造物によるテッスートという表現が都市計画界やジャーナリズム、美術評論に携わ る⼈々によって積極的に利⽤されはじめたのは、1954年の暮れ以降だった。この時期はムラ

ドキュメント内 著者 植田 曉 (ページ 163-200)

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