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連作「フランスの諸地域と諸都市」(第一次大戦前の製作)

本章187では、ジェフロワにとって、大規模かつ重要な計画となった連作「フランスの諸地域と諸都 市」のうち、第一次大戦前に製作された5点、すなわち、《パリ万歳》、《ブルターニュ》、《トゥールー ズの栄光》、《ブルゴーニュ》、《ノルマンディー》を考察対象とする(cat. (2)-1, 2, 3, 4, 5)。まず第1 節にて、これら5点の製作のクロノロジーを確認した上で、第2節にて各タピスリーの考察を個別に 行う。次いで第3節にて、これら5点の造形を総括し、最後に、第一次大戦がゴブラン製作所の運 営にもたらした影響についても触れる。

1節 大 戦 前 の連 作 製 作 の クロノロジー

前章にて概要を確認したとおり、本連作計画の実行は、第一次大戦期(1914〜1918 年)を挟む、

約22年間に及ぶ。つまり、ジェフロワが最初に計画を提案した1908年から、最後のタピスリーの製 織が完了した1930年4月までである。約4年間の大戦は、この22年間を5期に分けたうちのおよ そ第 2期に位置する。本論で対象とする13点の製作のクロノロジーを、大戦の前後に分けて捉え るならば、戦前に契約が結ばれたと考えられるのが《パリ万歳》以降《ベアルン》までの7点、戦後は、

《オーヴェルニュ》以下の6点となる。しかし、戦前7点のうち最後の2点の製織は、実際には戦後 に行われた為、本章では、この2点を除く、最初期の5点を考察対象とする。

本節ではまず、この 5 点に関して、製作所側による提案から、行政側による計画の決定を示すア レテの発行、そして製織完了までの経緯を、一次史料における言及を拾いながら、時系列に沿っ て整理する。

本連作第 1 点目となる《パリ万歳》が、アドルフ・ヴィレットに依頼された下絵の主題が、「春」から

「パリ万歳」へと変更されたことを契機とする点は、前章ですでに論じた。「第一計画」の詳細を示す 1908年7月8日付けの文書の中で、モネやシェレら、すでに社会的評価を獲得していた同時代の 大家に名を連ねるヴィレットに対し、「四季」と題した連作の第 1 点目として、竪機によるタピスリー

「春」の為の下絵を、3,000フランで依頼する旨が、ジェフロワより発案され188、同年12月23日発行 のアレテにより、4,000フランにて「春」の注文が正式に決定された189。約2ヶ月後、1909年2月15 日付けの文書では、ヴィレットが製作所に下絵を提出し、これに対し 4,000 フランが支払われたこと が確認でき、同時に、この下絵が「春」ではなく「パリ万歳」と題され、「フランスの諸地方と村々のた めの連作に取って代わ」ったと報告されている190。この変更は、「話し合いの結果」だとしているが、

187 本章は、OKASAKA 2017bに加筆・修正を加えたものである。

188 『Vol. 2 図版・資料編』、資料(3)、【1】。

189 「1908年12月23日付、公教育・美術省大臣によるアレテ」、Arch. nat., F/21/4284 dossier no. 32.

190 『Vol. 2 図版・資料編』、資料(3)、【3】。

おそらくこれはジェフロワとヴィレット間でなされたもので、主題の変更は、いわば事後報告というか たちで政務次官に伝えられたと推察される。というのも、1908年7月の時点で、ヴィレットを除く3名 への依頼に関しては、下絵の図柄がある程度具体的に示されるか、もしくはシェレのようにすでに 下絵制作が完了していたのに対し、ヴィレットへの注文内容はタイトル以外には具体的に言及され ずに曖昧で、ヴィレットの「技量と精神」を賞賛するにとどまり、従って、注文内容の変更を加える余 地が4名の中で最も残されていたと考えられるからである。ヴィレットより下絵が提出された1ヶ月後、

早くも1909年3月8日には製織が開始され、1910年11月16日にタピスリー《パリ万歳》は完成し た191。2 年に満たない製織期間は、本連作の中でも最短であり、かなり早いペースで織り上げられ たと言える。

次いで、《パリ万歳》の完成を数ヶ月後に控えた1910 年7月、ルイ・アンクタンに対し、5,000フラ ンで《ブルゴーニュ》の為の下絵制作依頼が、同年6月1日付けのアレテにより決定された192。ジェ フロワ側からの本件の提案を示す史料は現存せず、1911年3月26日付けの支払い記録から、画 家からの下絵提出と製作所への登録(no. 424)が確認できるにすぎない193。本作の製織は、すで に1911年2月28日には開始されていることが分かっており、下絵の完成には、アレテ発行から5 ヶ月程度を要した計算になる。《ブルゴーニュ》の製作は本連作の中で最も時間を要し、1920 年 2 月3日に完成、つまり、大戦期を挟む約9年に及んだ。

そして、《ブルゴーニュ》製作が決定された翌月、1910年8月19日には、次なる2点、《ブルター ニュ》と《トゥールーズ》の下絵制作を、それぞれジャン=フランソワ・ラファエリとアンリ・ラショに対し て依頼する提案がなされた194。これと同時に、同文書では、本連作以外の作品も提案されている が、《ブルターニュ》と《トゥールーズ》の製作を1911年度予算で賄えるか否かが論点であり、ジェフ ロワとしては、本連作継続の為に、1年に2点程度、少なくとも1点のペースで新規提案を推し進め ようとする意図が窺える。《ブルターニュ》は、1910年 10月21日発行のアレテにより、5,000 フラン でラファエリが下絵を制作する旨が決定され195、約半年後の1911年5月に下絵の提出と画家に対 する支払いが完了した196。その後、1911年10月29日に製織開始、5年強の歳月をかけ、大戦中 の1917年1月30日に、《ブルターニュ》は完成した。これにやや遅れて《トゥールーズ》に関しても、

4,000フランでの下絵制作を決定したアレテが1911年3月17日に発行され197、これに対し、ラショ

191 本連作の製織期間については、原則、モビリエ・ナショナルの所蔵品データベースSCOMの情報に基づ くが、必要に応じて、以下も参照した。BEAUVAIS 1999.

192 「1910年6月1日付、公教育美術省大臣によるアレテ」、Arch. nat., F/21/4854 dossier 9.

193 「1911年3月26日付、支払い証明書」、Arch. nat., F/21/4825 dossier 9.

194 『Vol. 2 図版・資料編』、資料(3)、【6】。

195 「1910年10月21日付、公教育美術省大臣によるアレテ:美術省政務次官による提案に関して」、Arch.

nat., F/21/4854 dossier 9.

196 「1911年5月26日付、支払い証明書(ジェフロワの署名入り)」、Arch. nat., F/21/4854 dossier 9.

197 「1911年3月17日付、公教育美術省大臣によるアレテ」、Arch. nat., F/21/4261 dossier 4.

は、同年 3月 20日付けの政務次官宛て書簡で、依頼を受諾する旨を伝えている198。同書簡中に 確認できる、「すでに製作所所長と、部分的に合意を交わしています」という一文は、下絵注文の 正式な決定以前に、ジェフロワからラショに対し、直々に下絵制作の打診が行われていたことを示 唆している。ラショはその後、1913年5月1日に下絵を提出し199、最終的に《トゥールーズの栄光》

と題されることとなるタピスリーは、1913年6月1日から1919年4月28日の間に織り上げられた。

以上、ジェフロワが就任してから最初の 3 年間で提案されたこれら 4 点の製作の進捗状況は、

1911 年作成の2つの報告書でも確認できる200。とりわけゴブランの予算担当の下院議員が作成し た、直近の製作所の運営状況を伝える「(A)報告書」のうち、「アトリエでは、〔・・・〕ヴィレットの素晴 らしいカルトンに基づく1点のタピスリー、『パリ万歳』がほとんど完成しているのを見ることができる。

これは、フランスの諸地域と諸都市を讃えるための連作のうちの最初の1点である」という記述に始 まる箇所では、これに続いて、「アンクタン氏による美しいモデル『ブルゴーニュ』も同様に、製織が 開始されて」いること、そして、「近い将来〔の計画〕」として、ジェフロワが政務次官に対し、《ブルタ ーニュ》と《トゥールーズ》を提案している旨が報告され、後者 2 点は、「諸地方連作を、見事な方法 で継続させるもの」だとして、ここには本連作への期待を読み取ることができる。

最後に、1913年度予算を使用しての《ノルマンディー》製作であるが、本作は上述した4点とは異 なり、ジェフロワの提案からアレテ発行までに1年以上を要している。この間、正式な下絵発注の許 可を得る為の、ジェフロワ側から政務次官に対する交渉の文書が複数残されていることから201、本 件に関しては、おそらく予算の都合による製作可能な作品数の制限を主な要因として、交渉上の 困難があったものと推察される。1913年1月22日、製作所を視察し、ジェフロワの意向を受けた教 育・芸術事業部局長より、政務次官に対し、《ノルマンディー》の下絵を 12,000フランでルイ・アンク タンへ依頼する許可が請求され、この内容をそのまま許可するかたちでアレテが発行されたのは、

1年以上経過した1914年3月23日のことである。その間ジェフロワは、次年度予算のうち少額を、

前金として1913年度に繰り上げることで、本作の製作許可を得られるよう交渉したり202、本作は「美 術大臣の承認を得た計画」であるとその重要性を強調するなどして203、予算獲得、つまりは本連作 の続行に奔走している。アンクタンへの《ノルマンディー》の下絵制作依頼は、本連作 2 点目の《ブ ルゴーニュ》以来、2 度目となる。アンクタンは、友人宛ての書簡(日付不詳)の中で、「『ノルマンデ

198 「1911年3月20日付、アンリ・ラショから美術省政務次官宛書簡」、F/21/4261, dossier 9.

199 BEAUVAIS 1999, p. 35 ; 「1914年3月29日付、支払い証明書(ジェフロワの署名入り)」、F/21/4261 dossier 4.

200 「Vol. 2 図版・資料編」、資料(3)、【7】、【9】。

201 《ノルマンディー》の下絵制作許可を求めるジェフロワ側からの文書は、1913年から1914年初頭の1年間 に4通確認できる。「Vol. 2 図版・資料編」、資料(3)、【15】、【16】、【17】、【18】。

202 「Vol. 2 図版・資料編」、資料(3)、【16】。

203 「Vol. 2 図版・資料編」、資料(3)、【18】。

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