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連作「フランスの諸地域と諸都市」(第一次大戦後の製作)

本章では、連作「フランスの諸地域と諸都市」のうち、第一次大戦後に製作された 8点、すなわち、

《ピレネー》、《ベアルン》、《オーヴェルニュ》、《フランシュ=コンテ》、《セーヌ河のニンフ》、《プロヴ ァンス》、《リムーザン》、《ケルシー》を考察対象とする(cat. (2)-6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13)。

まず第1節にて、第一次大戦期がゴブラン製作所の運営にもたらした影響を確認する。次いで第 2節で製作のクロノロジーを確認し、第3節にて作品個別の考察を行う。第 4節にてこれら8点に 対する考察の総括を行い、最後に第5節ではジェフロワ没後の本連作の展開をみていく。

1節 第 一 次 大 戦 とゴブラン製 作 所

1914年6月28日のオーストリア=ハンガリー大公の暗殺事件を契機として、第一次世界大戦は 勃発した。フランスは、三国協商を通じたロシアからの要請を受けて、8月1日に総動員を開始して 参戦、ロシア、イギリスと共に連合国側の陣営で戦うこととなった。首都攻略を目指すドイツ軍は、パ リから70キロメートルの地点まで侵攻するものの、マルヌ河畔で食い止められた。

ゴブラン製作所は、普仏戦争時のような実質的な被害は被らなかったものの、平時と同等の稼働 率を維持することは困難であった。1918 年 7月 11日付けの、戦時の製作所の運営状況を伝える 文書によれば365、その要因には、人員損失に加えて、タピスリーの原料の高騰、羊毛、絹、染料の 不足があった。タピスリー職人は、全部で60名程度が在籍していたが、そのうち半数以上の37名 が兵役に就き、戦死を含む数多くの被害者が出ていると報告されている。中でも染色工房はかなり 縮小され、職人1名で稼働させている状態であった。他方、戦前から開始されていたゴブラン・ギャ ラリーの再建計画も中断された。

戦時のゴブラン製作所は、タピスリー製作を縮小せざるを得ない状況にあったが、それでも、諸地 域連作、ヴヴェの「おとぎ話」、《ヴァトーへのオマージュ》(cat. (4)-1)などをはじめとする数点の製 織は続けられた。

1918年11月11日、ドイツ政府との間に休戦協定が締結され、翌1919年のパリ講和会議開催と 6月のヴェルサイユ条約の調印を以って、大戦は終結した。1918 年の休戦協定締結には、大統領 レイモン・ポワンカレ(Raymond Poincaré, 1860-1934, 在任 1913-1920)に請われて首相に再び就 任したクレマンソーが尽力した(第二次クレマンソー内閣、1917年11月16日〜1920年7月20日)。

これが、「勝利の父」と呼ばれる所以である。また、普仏戦争後にプロイセン領となっていたアルザ ス=ロレーヌに関しては、フランスの領有権が認められ、アルザス語の禁止とフランス語の公用語 化を定めた教育制度改革が進められた。

戦後、戦争の混乱が終息していく中、ジェフロワは、予算担当議員に対し、タピスリーによって

365 「1918年7 月11日付け、1917年のゴブラン製作所の状況に関する覚書」、Arch. mob., boîte 6.

「我々が経験した戦争の時代を記念すること」を希望した366。そして実際に、ボンフィスに基づく絨 毯と椅子(cat. (5)-ii-3, 4, 5)、ジョルムに基づくタピスリー(cat. (5)-ii-2)で構成される「戦争のサロン」

が製作され、後の1925年のアール・デコ博に出品されることとなる367

戦争の勃発によって、製作所の生産力はかなり低下したと考えられるが、「戦争のサロン」の企画 にみるように、国家の機関として、戦後の戦勝記念に貢献する意を示した。

366 「1921年、ギュスターヴ・ジェフロワによる、下院議員兼美術省予算に関する報告者ピエール・ラマイユの 為の覚書」、Arch. mob., boîte no. 6, 『Vol. 2 図版・資料編』、資料(3)、【21】。

367 アール・デコ博における展示については、第IV章、第2節、(2)で詳述する。

2節 大 戦 後 の連 作 製 作 のクロノロジー

1908年に開始された当該連作は、4年間の第一次大戦の期間を挟み、戦後も継続された。戦後 期に計画が進められた8点のうち、戦前に制作が決定されたのは、《ピレネー》と《ベアルン》の2点、

残りの6点は、戦後に制作を正式に決定したアレテが発行されている。戦前からの製織が完了して いない作品があった為(《トゥールーズの栄光》は1919年4月28日に完成、《ブルゴーニュ》は1920 年2月3日に完成)、8点はいずれも織機が空いてから、つまり1919年以降の製織となる。

本節ではまず、これら 8点に関し、製作所側による提案から製織完了までの経緯を、一次史料に おける重要な言及を引用しながら、時系列に沿って整理する。

まず、戦前から提案のあった《ピレネー》と《ベアルン》は、共にスペインと国境を接する地域であ る。最終的には、前者をエドモン・ヤルツ、後者をガストン・プルニエが担当したが、1913 年、最初 にジェフロワが提案したのは、プルニエに《ピレネー》を依頼するというものであった368。次いで、

1914年2月4日の文書では、「美術大臣の承認を得た計画を確実に継続する為に必要な」作品と して、《ベアルン》をプルニエに、《ピレネー》をヤルツに依頼する意向を述べている369。画家が逆転 した理由は定かではない。前章の最後に考察したアンクタンによる《ノルマンディー》と同時期に提 案されたこれら2 点について、アレテの発行は確認できないが、ジェフロワが下絵注文の正式な依 頼を政務次官に交渉している段階の1915年1月20日付の文書では、ヤルツが、戦争が始まる前 にすでにマケットを提出していることを伝えている370。その後、大戦が終結すると、1919 年 2 月 27 日には《ピレネー》が、1920 年 7 月 7 日は《ベアルン》の製織が始まった。両作が織り上がるのは 1924年であり、その他の6点に関しては、1923年まで計画の動きはほとんどみられない。

以下6点は、アテレの発行順に整理する。1923年からジェフロワ没年の1926年まで、当該連作 に関しては、毎年1点ないし2点というペースで契約が結ばれた。

まず、1923年3月17日付け、ジェフロワから美術大臣宛ての文書の中には、「オーヴェルニュ」、

「フランシュ=コンテ」、「リムーザン」という 3 つの地名とそれぞれの下絵担当画家の名が確認でき る371。ジュール・ザング、レイモン・ルグー、エドモン・タピシエの 3名は、「ゴブランで企画中の連作

『フランスの諸地方』を継続させる為に十分な能力を持った」芸術家だと紹介される。当時製織中で あった《ピレネー》と《ベアルン》の完成を間近に控え、同年中にこれらの画家にモデルを提出して もらい、翌1924年から新しい作品の製作に着手したい様子である。これら3点のうち「オーヴェルニ ュ」については、同年に正式な注文が決定した。1923年 6月 9日発行のアレテにより、ザングが、

368 『Vol. 2 図版・資料編』、資料(3)、【16】。

369 『Vol. 2 図版・資料編』、資料(3)、【18】。

370 『Vol. 2 図版・資料編』、資料(3)、【19】。

371 『Vol. 2 図版・資料編』、資料(3)、【22】。

約4 x 7メートルを予定とする「オーヴェルニュ」の下絵を25,000フランで制作する旨が決定してい る372。また、同じく、同日発行の別のアレテは、ルネ・ピオが「プロヴァンス」を主題に 25,000 フラン で下絵を制作する旨を決定しているが373、それ以前の文書に、ピオの名は確認できない。以上、

1923年中にアレテが発行されたのは、《オーヴェルニュ》と《プロヴァンス》の2点であった。

1924 年になると、前年に提案された《フランシュ=コンテ》と、《セーヌ河のニンフ》の下絵注文が 決定された。前者に関するアレテは現存しないが、1925 年頃より製織が開始されていることから、

1924 年以前には制作が決定されたと推察でき、また、画家への支払い記録より、下絵の報酬は

24,000フランであったことがわかっている374。一方、後者に関する史料は乏しく、画家ジャン・スリエ

ールが下絵を制作したこと、またこれに対し 20,000 フランが支払われたことが確認できるのみであ る375。以上、1924年の契約は、《フランシュ=コンテ》と《セーヌ河のニンフ》の2点であった。そして 同年10月になると、前年に決定された《オーヴェルニュ》の製織が開始されている。

次に、1925年にアレテが発行されたのは、すでに1923年にジェフロワが提案していたタピシエに よる《リムーザン》1点である。本作に関しては、2度、アレテが発行されており(1925年7月11日、

同年7月15日)、下絵は2度に分けて、それぞれ10,000フランずつ、合計20,000フランが画家に 支払われた376。また、この年より、《フランシュ=コンテ》と《セーヌ河のニンフ》の製織が開始され た。

そして、最後の 1点が《ケルシー》である。1926 年 4月 19日発行のアレテにより、画家ガストン・

バランドが、20,000フランで下絵を制作する旨が決定された377。しかしながら、同年12月24日付け のジェフロワから美術大臣宛ての文書によれば、下絵はすでに 1925 年のうちに画家から提出され ており、事実、1925年8月7日には製織が開始されている。

以上が、戦後新たに契約が結ばれた 6 点である。いずれもジェフロワの監督下で提案され、アレ テ発行に至っているが、その大半が完成するのが1929年から1930年のことであり、ジェフロワ自身 がその完成作を見ることは無かった。ジェフロワ没後は、本連作を拡充させる動きはなく、フランス 国内全ての地域を網羅することなく、「中断」している。

372 Arch. nat., F/21/4285, dossier no. 49.

373 Arch. nat., F/21/4258, dossier no. 9.

374 Arch. nat., F/21/4234, dossier no. 31 ; F/21/4854, dossier no. 39.

375 Arch. nat., F/21/4270, dossier no. 62.

376 Arch. nat., F/21/4275, dossier no. 17.

377 Arch. nat., F/21/4167, dossier no. 37.

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