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ドキュメント内 棲神 第拾六號 (ページ 189-200)

a的部門より親仁志台︑砕同爾家

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A︶ 

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l=:I 

宗敬は信仰を以て︑其本領となすものなるを以て︑多分に情的券子を含む乙とは言を侠た

F

る所で

ある︒故に世の進化に逆ひ︑保守的傾向を有するは侮るべから

F

る所なりさ雄も︑市も亦︑村誠に於

τ

︑杢然否定する所に向って︑それが信仰を立てる事の不可能なるは勿論である︒

弦に於いて︑最も接蓮せる宗教は﹁阜の串﹂たる哲皐の上にその基礎を有し之に依って其の信念を

輩固ならしむるものでなければならぬ︒即も︑絶劃平等不可思議なる︑宇宙の大究在を究明するを以

τ

其の第一義ごなし︵平段︶之を有限なる吾人の意誠内に反映し来るぐ﹄同時に︑有脱化して人格的資

在を現出し︑之を標準とし︑之を封象として︑敬仰し憶保し︑漸戎改善︑誕化するを以って第二義的

︵目的︶とせねばならねo

市して︑此の雨義を完備して始めて異の宗敬と云ムペく︑一枇合救済の賞.はじめて具はるのである︒

若し︑結にそれが第一義を快く宗教ゐ

b

Zすれば︑是れ畢寛︑迷信的邪教にし

τ

︑晃b売る科皐の光

明に遭へば︑哀れ榔郭の夢醒め果て︑︑果敢なら﹄最後を見ねばならぬのである︒

現在︑宗教と稀するもの︑その敢移しきも︑而ち︑

一悌

致︒

乞除

︿の

外︑

皆唯

︑天

日時

︑崎

一不

等に

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て成れるもの多く︑深遠なる哲却の上に立てるもの︑殆んど之を見出し得ないのでゐる︒故に鞄近科

皐の鍛槌に接して多︿の宗敢の牙城は︑累卵の危舎に頻して居る有様であるo

然るに︑偽敢は大畳世掌の幽玄なる知見に依って立数し︑古今一切の哲皐設営網羅し︑凡ゆる科皐

ぞ含蓄して︑向ほ徐裕ある基礎を有するを以て︑如何科研賞し︑討究すると雄も︑動か

F

る乙

v r 一

盤 石

の如︿︑悌日の光輝は︑持た愈んγ願揚されんごしてゐるのである︒

而して︑裁にそれが第二義を快く宗致ゐbとすれば︑それは︑但︑一片の哲皐として詐される事は

とまれれ︑吾人は宗教として︑その債値

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認むる事は不可能であると思ム︒縦令︑それが設︿所︑如何

に巧妙にして一知の間然する所な︿︑善︿宇宙の本却を究明すると雄色︑之を人格化して︑信仰の封

象とする事なくし℃は偉夫なる戚化を輿へて︑一切人類を指導する事は到底不可能であるからである︒

然b︑唯︑不可思議なる絶封的賞在を捉へ来って︑之を目的とし︑之を標準とし︑之に依って安心立

命すイしと説くとも︑要するに︑乙れ無味乾燥の空論に止まるのである︒

窓を以って︑凡ゆる宗教は一三して︑人格的責在を立てぎるものごてはな︿︑その人格的賞在の明

瞭であればあるだけ︑戚化力の大なる事を意味するものでゐるo

之を要するに︑異の宗教は︑先づ県佐に満足を奥へ︑而して後︑戚情に封して確たる慰安を得せし

むるものでなげればならね︒而して︑吾人は設に全偶数の

E

努とも云ふべき︑台営両家の宗教的異偵

の何れが勝れるかにつ

3

︑刺

か研

究せ

る所

を述

べて

みや

う一

B︶ 台家の哲準的部門

法華経所詮の極開は︑

E

に諸法貧相である︑而して︑台家は法華経を主依となすと離も︑而も辿門

を以て︑それが表となすが故に其の世界観は︑一如的宜在論にして︑随って益法界そ以て︑

一法

性の

願現ご見るのである︒故に︑善悪邪正︑生死担架共に︑一法性の上に起る作用に外ならずと説くので

ある

︒則

ち︑

天地の形相に必ず性ゐb︑性ある所必ず復た体あり︑而して性体のゐる所必ず力︑作︑

因︑縁︑果︑報是に依って現はるのである︒市も報を亨けたる所︑その佳︑相なゐを以て︑本末究一克

して平等である︑︵約俄一諦︶随って︑十回介の依正は︑皆悉く此の因果の一大珂法に依って経緯さるべき

もの

であ

る︒

故に︑十如は十界の通体︑十界は十如の別相となる︑市して︑十如の謀本は力作にあらや︑因縁に

あらず︑叉︑果報にもあらずし

τ

︑相性体の中にゐつては即ち性である︒故に︑十界各んγ其性を本と

して

展轄

反覆

し︑

一は善の輸を迭b

て備

と額

はれ

一は惑の輸を作って衆生と現じ︑雨者の間隔は賀

に天壊も菅ならぎるが如く見ゆれども︑市も︑畢一克する所︑共に是れ一大法性の額現の左右に外なら

んのであると云ふ︒

是を以て︑十界三千の諸法は︑ス宝︿唯一心の礎動と見るべ︿︑則も一念︑僅かに動りば三千愛に忽

然として現はれるのである︑却ち乙れ一念三千である︒

斯の如くにして︑金法界迷悟の諸法営以て︑一日明性の願現ミなし︑再轄して是を一心に揮するので

あるま設くのであるo而して︑・径俄中の三諦論に至つては︑空中に椴と中古あれば断無の空にゐらず︑

偲中に宰と中とを現ずれば︑頼縁の般にあらや︑中は困よb︑丞般を牧むれば無得の中にあら守︑般

よb見れば一切服︑空よb見れば一切空︑中は仮定を統介すれば︑中の外に限定なく︑堪一郎三︑非前

後︑

含生

本具

︑非

造非

作也

言︒

きれば︑台家の宇宙観は︑一貫異却を以て絶待平等︑不可思議なる貸在・あり芭なし︑n4

一不

すに

諦論を以てしてゐるのである︒之れ貨に︑

一元

論の

究一

党︑

一大国宗の性兵論にして︑正に天地法界の

真理ぞ叩いて泣戚な主ていの戚がある︒而して︑台家は此法性の一如を以

τ

︑妙法蓮華経の正体ごし

てゐる︒故に︑天地は妙法に牧まり︑妙法は天地を接頴するのであり︑地獄乃至九界の業悶業呆も亦︑

妙法の願現と見るのである︒

悲を以て︑﹁十加十界の諸法は今維の正作なるのみ﹂さ論断する事が出来るのである︒以て︑台︐家の

法華経観の大立を知るべ主であるo卸も︑抗ち仁宇宙の現象を捉へず︑之を頴現する根本質在を以て

智恵e的部門より額十

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一八三

異如Z競し︑蓮華と名づけてゐるのであるo故に︑台家に於℃は︑現象郎賞在に非守して︑賓在即現

象であ

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︑事に由ての却ではなく︑聞に由ての事である︒即も︑台家の本領が所謂︑問事無碍なれど

も︑その主とする所︑聞にあるは多照を要せぎる事貨でゐる︒故に︑諸法の妙を論ずる場令︑必ず︑

先づ之を法位に住せしめねばならぬ︒何となれば︑宇宙の玄妙は︑唯︑静的問体にのみ存するからで

ある

然し︑此の台家の所論︑果して杢︿遺漏な

3

か?︑又︑末法今時に於いて︑之を基礎とせる宗教が︑ ︒

果して大なる戚化を奥へて︑宗教本来の使命を完全に果し得るか︑否か?︑

吾人は以下︑営家の哲事的方面を論述して︑雨者の批剣を試み︑以て︑其の宗敬としての異偵を論

ぜんさするものである︒

C︶ 営家の哲皐的部門

宮家も亦︑法華経を以て主扶とし℃むゐ事は天台と同様なれどち︑市も話訟の貧相を明す仁︑台家

の如く謹門を表とせずして︑本門書量の見地に立て之を論じ℃ゐる︒即も︑悠久なる無始却来︑無際︑

無限に活動しっ︑ある現衆を促へて︑その上に異刊を見出すのである︒而も︑台家に於いては︑その

事相の内面に一念三千を具するが故に︑外に事の活動生やるのであると論ずるのであ一るが︑官家に至

ては︑活動の営相︑印も獲韓極ま・9な主︑天地誌界の寓象を以て︑直もに宇宙の本体を論じ.之をそ

の佳︑観取し来て︑以て︑本悌稗寧の化身なり︑色身なりと見るのである︑されば寄量品の

﹁我

質成

偽以

来無

量無

謹一

五云

の文

を吾

組御

義に

蝿押

して

﹁我ト刀法界ノ衆生ナリノ︑十界各々デ指ジテ我ト言ナリ︑質ト一無作三身ノ悌ナ

y

ト定メタヲ︑此

ヲ貫ト云フナ

y

︑成

ρ能成所成ナリ︑成ハ開ノ義ナ

y

︑法界無作三身ノ怖也ト開ケタ

y

︑備

ト山

之ヲ費如スYヲ云フナヲ︑己ト刀過去ナ9

︑京

ρ未来也︑巳来ノ言中ニ現在川在−Fナリ︑我究ト

成悌ニジテ︑巳モ来毛無遁ナリ︑無量ナリ云々﹂

叉︑同品に﹁如来如由貿知見︑三界之相︑無有生死︑若返若出︑亦無在世︑及減度者︑非貨非虚︑非

知非異︑不知三昇︑見於三昇︑如斯之事︑如来明見︑無有錯謬云々﹂

等と︑叉御義に之を稗して﹁如来ト山三界ノ衆生ナ9︑此衆生︑書量品ノ眼開キ見レバ︑十回介本有ト

賞ノ

如ク

知見

セリ

ノ︑

一二

界ノ

相ト

A生老病死ナリ︑本有ノ生死ト見

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無有生死ナソ︑生死ナケνバ

退出モナシ︑唯︑生死無ニ非Y

ナリ

︑生

一兆

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ア︑

遠離

Yヲ迷卜云ヒ︑始畳ト云アナリ︑サア本有

ノ生死ヲ知見ス

UF

ヲ本畳ト

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フ也

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より

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九台

︑賞

爾家

智接的部門より淑たる台︑骨間隔家

ー﹂云ふに見て色︑台常其立を具にせるを知るJ

きで

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天地

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有は

之よ

隔細

説す

ると

一広

ふが

きものに非守して︑理は此の活動せる事象に.本有的に具備せる霊力にして︑事を離れて︑別に刊を 之を要するに常家の字情制慨は︑静止的問体を本位として︑

認め特ず︑事の一切は却も理の一切なるを以て︑車問会︿不二三見るのでゐる︒

きれば︑間性より事象が額損せるに非ずして︑

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性は事象の印刷性と見るのである︒拘言すれば︑問

性は事象中より抽出し待たる観念に過ぎないと見るのであるo故に営家よb見れば台家の法性なるも

のは︑大宇宙の妙色中に含前せらるべき性質のものである︒

之を以て︑宇宙の本体ご論じ︑連帯ご栴へ︑十持の事相は之よb頴現し︑生起するとすれば︑所謂

γの﹁一切万有は︑悦惚夢の如主イデアの世界より殴落し来ったものにして︑法界は畢一党イデ

アの世界の蔭影に過ぎ守﹂と論今る観念論と何の捧ぷ所がなレのである︒又︑道家の虚無設にも類似

して居b︑彼の欧州中世の哲皐ごも︑同一親し了せるのである︒若し︑此の設に従はんごすれば︑無

よb有を生じたりてふ︑本無今有の論談Lも首肯せ

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るを得ぬし︑又︑性よb相を出すとすれば︑相

は性の一部品川と見なければならぬ︒果して然らば︑修徳は性徳の全部を具備すると云ム乙とは︑何?一根

擦として之を論守るか︑吾人は大なる疑問を持た守には︑之を見る事は出来ないのである︒例せば窓

ドキュメント内 棲神 第拾六號 (ページ 189-200)

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