自奇
政
た ど る べ き 諮
七九
智恵
a的部門より親仁志台︑砕同爾家
一八
O
︵A︶
序
宅Z
l=:I
宗敬は信仰を以て︑其本領となすものなるを以て︑多分に情的券子を含む乙とは言を侠た
F
る所である︒故に世の進化に逆ひ︑保守的傾向を有するは侮るべから
F
る所なりさ雄も︑市も亦︑村誠に於い
τ
︑杢然否定する所に向って︑それが信仰を立てる事の不可能なるは勿論である︒弦に於いて︑最も接蓮せる宗教は﹁阜の串﹂たる哲皐の上にその基礎を有し之に依って其の信念を
輩固ならしむるものでなければならぬ︒即も︑絶劃平等不可思議なる︑宇宙の大究在を究明するを以
τ
其の第一義ごなし︵平段︶之を有限なる吾人の意誠内に反映し来るぐ﹄同時に︑有脱化して人格的資在を現出し︑之を標準とし︑之を封象として︑敬仰し憶保し︑漸戎改善︑誕化するを以って第二義的
︵目的︶とせねばならねo
市して︑此の雨義を完備して始めて異の宗敬と云ムペく︑一枇合救済の賞.はじめて具はるのである︒
若し︑結にそれが第一義を快く宗教ゐ
b
Zすれば︑是れ畢寛︑迷信的邪教にし
τ
︑晃b売る科皐の光明に遭へば︑哀れ榔郭の夢醒め果て︑︑果敢なら﹄最後を見ねばならぬのである︒
現在︑宗教と稀するもの︑その敢移しきも︑而ち︑
一悌
致︒
乞除
︿の
外︑
皆唯
︑天
日時
︑崎
一不
等に
依
P
て成れるもの多く︑深遠なる哲却の上に立てるもの︑殆んど之を見出し得ないのでゐる︒故に鞄近科
皐の鍛槌に接して多︿の宗敢の牙城は︑累卵の危舎に頻して居る有様であるo
然るに︑偽敢は大畳世掌の幽玄なる知見に依って立数し︑古今一切の哲皐設営網羅し︑凡ゆる科皐
ぞ含蓄して︑向ほ徐裕ある基礎を有するを以て︑如何科研賞し︑討究すると雄も︑動か
F
る乙
v r 一
盤 石
の如︿︑悌日の光輝は︑持た愈んγ願揚されんごしてゐるのである︒
而して︑裁にそれが第二義を快く宗致ゐbとすれば︑それは︑但︑一片の哲皐として詐される事は
とまれれ︑吾人は宗教として︑その債値
e e
認むる事は不可能であると思ム︒縦令︑それが設︿所︑如何に巧妙にして一知の間然する所な︿︑善︿宇宙の本却を究明すると雄色︑之を人格化して︑信仰の封
象とする事なくし℃は偉夫なる戚化を輿へて︑一切人類を指導する事は到底不可能であるからである︒
然b︑唯︑不可思議なる絶封的賞在を捉へ来って︑之を目的とし︑之を標準とし︑之に依って安心立
命すイしと説くとも︑要するに︑乙れ無味乾燥の空論に止まるのである︒
窓を以って︑凡ゆる宗教は一三して︑人格的責在を立てぎるものごてはな︿︑その人格的賞在の明
瞭であればあるだけ︑戚化力の大なる事を意味するものでゐるo
之を要するに︑異の宗教は︑先づ県佐に満足を奥へ︑而して後︑戚情に封して確たる慰安を得せし
むるものでなげればならね︒而して︑吾人は設に全偶数の
E
努とも云ふべき︑台営両家の宗教的異偵軒目
撃的
部門
より
概た
る台
︑品
官同
雨家
入
持白
血中
的部
門よ
り観
れろ
合・
円高
爾家
,
,
、
の何れが勝れるかにつ
3
︑刺
か研
究せ
る所
を述
べて
みや
う一
︒
︵B︶ 台家の哲準的部門
法華経所詮の極開は︑
E
に諸法貧相である︑而して︑台家は法華経を主依となすと離も︑而も辿門を以て︑それが表となすが故に其の世界観は︑一如的宜在論にして︑随って益法界そ以て︑
一法
性の
願現ご見るのである︒故に︑善悪邪正︑生死担架共に︑一法性の上に起る作用に外ならずと説くので
ある
︒則
ち︑
天地の形相に必ず性ゐb︑性ある所必ず復た体あり︑而して性体のゐる所必ず力︑作︑
因︑縁︑果︑報是に依って現はるのである︒市も報を亨けたる所︑その佳︑相なゐを以て︑本末究一克
して平等である︑︵約俄一諦︶随って︑十回介の依正は︑皆悉く此の因果の一大珂法に依って経緯さるべき
もの
であ
る︒
故に︑十如は十界の通体︑十界は十如の別相となる︑市して︑十如の謀本は力作にあらや︑因縁に
あらず︑叉︑果報にもあらずし
τ
︑相性体の中にゐつては即ち性である︒故に︑十界各んγ其性を本として
展轄
反覆
し︑
一は善の輸を迭b
て備
と額
はれ
︑
一は惑の輸を作って衆生と現じ︑雨者の間隔は賀
に天壊も菅ならぎるが如く見ゆれども︑市も︑畢一克する所︑共に是れ一大法性の額現の左右に外なら
んのであると云ふ︒
是を以て︑十界三千の諸法は︑ス宝︿唯一心の礎動と見るべ︿︑則も一念︑僅かに動りば三千愛に忽
然として現はれるのである︑却ち乙れ一念三千である︒
斯の如くにして︑金法界迷悟の諸法営以て︑一日明性の願現ミなし︑再轄して是を一心に揮するので
あるま設くのであるo而して︑・径俄中の三諦論に至つては︑空中に椴と中古あれば断無の空にゐらず︑
偲中に宰と中とを現ずれば︑頼縁の般にあらや︑中は困よb︑丞般を牧むれば無得の中にあら守︑般
よb見れば一切服︑空よb見れば一切空︑中は仮定を統介すれば︑中の外に限定なく︑堪一郎三︑非前
後︑
含生
本具
︑非
造非
作也
言︒
きれば︑台家の宇宙観は︑一貫異却を以て絶待平等︑不可思議なる貸在・あり芭なし︑n記4グ
一不
すに
三
諦論を以てしてゐるのである︒之れ貨に︑
一元
論の
究一
党︑
一大国宗の性兵論にして︑正に天地法界の
真理ぞ叩いて泣戚な主ていの戚がある︒而して︑台家は此法性の一如を以
τ
︑妙法蓮華経の正体ごしてゐる︒故に︑天地は妙法に牧まり︑妙法は天地を接頴するのであり︑地獄乃至九界の業悶業呆も亦︑
妙法の願現と見るのである︒
悲を以て︑﹁十加十界の諸法は今維の正作なるのみ﹂さ論断する事が出来るのである︒以て︑台︐家の
法華経観の大立を知るべ主であるo卸も︑抗ち仁宇宙の現象を捉へず︑之を頴現する根本質在を以て
智恵e的部門より額十
hR
台︑
時前
爾家
一八三
折田
胤中
的部
門よ
り淑
たる
台︑
貨同
中本
一八
四
異如Z競し︑蓮華と名づけてゐるのであるo故に︑台家に於℃は︑現象郎賞在に非守して︑賓在即現
象であ
AP
︑事に由ての却ではなく︑聞に由ての事である︒即も︑台家の本領が所謂︑問事無碍なれど
も︑その主とする所︑聞にあるは多照を要せぎる事貨でゐる︒故に︑諸法の妙を論ずる場令︑必ず︑
先づ之を法位に住せしめねばならぬ︒何となれば︑宇宙の玄妙は︑唯︑静的問体にのみ存するからで
ある
然し︑此の台家の所論︑果して杢︿遺漏な
3
か?︑又︑末法今時に於いて︑之を基礎とせる宗教が︑ ︒果して大なる戚化を奥へて︑宗教本来の使命を完全に果し得るか︑否か?︑
吾人は以下︑営家の哲事的方面を論述して︑雨者の批剣を試み︑以て︑其の宗敬としての異偵を論
ぜんさするものである︒
︵C︶ 営家の哲皐的部門
宮家も亦︑法華経を以て主扶とし℃むゐ事は天台と同様なれどち︑市も話訟の貧相を明す仁︑台家
の如く謹門を表とせずして︑本門書量の見地に立て之を論じ℃ゐる︒即も︑悠久なる無始却来︑無際︑
無限に活動しっ︑ある現衆を促へて︑その上に異刊を見出すのである︒而も︑台家に於いては︑その
事相の内面に一念三千を具するが故に︑外に事の活動生やるのであると論ずるのであ一るが︑官家に至
ては︑活動の営相︑印も獲韓極ま・9な主︑天地誌界の寓象を以て︑直もに宇宙の本体を論じ.之をそ
の佳︑観取し来て︑以て︑本悌稗寧の化身なり︑色身なりと見るのである︑されば寄量品の
﹁我
質成
偽以
来無
量無
謹一
五云
﹂
の文
を吾
組御
義に
蝿押
して
﹁我ト刀法界ノ衆生ナリノ︑十界各々デ指ジテ我ト言ナリ︑質ト一無作三身ノ悌ナ
y
ト定メタヲ︑此ヲ貫ト云フナ
y
︑成
ト
ρ能成所成ナリ︑成ハ開ノ義ナ
y
︑法界無作三身ノ怖也ト開ケタy
︑備
ト山
之ヲ費如スYヲ云フナヲ︑己ト刀過去ナ9
︑京
ト
ρ未来也︑巳来ノ言中ニ現在川在−Fナリ︑我究ト
成悌ニジテ︑巳モ来毛無遁ナリ︑無量ナリ云々﹂
叉︑同品に﹁如来如由貿知見︑三界之相︑無有生死︑若返若出︑亦無在世︑及減度者︑非貨非虚︑非
知非異︑不知三昇︑見於三昇︑如斯之事︑如来明見︑無有錯謬云々﹂
等と︑叉御義に之を稗して﹁如来ト山三界ノ衆生ナ9︑此衆生︑書量品ノ眼開キ見レバ︑十回介本有ト
賞ノ
如ク
知見
セリ
ノ︑
一二
界ノ
相ト
A生老病死ナリ︑本有ノ生死ト見
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無有生死ナソ︑生死ナケνバ
退出モナシ︑唯︑生死無ニ非Y
ナリ
︑生
一兆
テ見
ア︑
遠離
ス
Yヲ迷卜云ヒ︑始畳ト云アナリ︑サア本有
ノ生死ヲ知見ス
UF
ヲ本畳ト
A云
フ也
云々
﹂
耕同
率的
部門
より
視に
九台
︑賞
爾家
一八
五
智接的部門より淑たる台︑骨間隔家
一八
六
ー﹂云ふに見て色︑台常其立を具にせるを知るJへ
きで
ゐる
︒
天地
の万
有は
之よ
り
隔細
説す
ると
一広
ふが
如
きものに非守して︑理は此の活動せる事象に.本有的に具備せる霊力にして︑事を離れて︑別に刊を 之を要するに常家の字情制慨は︑静止的問体を本位として︑
認め特ず︑事の一切は却も理の一切なるを以て︑車問会︿不二三見るのでゐる︒
きれば︑間性より事象が額損せるに非ずして︑
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性は事象の印刷性と見るのである︒拘言すれば︑問性は事象中より抽出し待たる観念に過ぎないと見るのであるo故に営家よb見れば台家の法性なるも
のは︑大宇宙の妙色中に含前せらるべき性質のものである︒
之を以て︑宇宙の本体ご論じ︑連帯ご栴へ︑十持の事相は之よb頴現し︑生起するとすれば︑所謂
プ ラ ト
γの﹁一切万有は︑悦惚夢の如主イデアの世界より殴落し来ったものにして︑法界は畢一党イデ
アの世界の蔭影に過ぎ守﹂と論今る観念論と何の捧ぷ所がなレのである︒又︑道家の虚無設にも類似
して居b︑彼の欧州中世の哲皐ごも︑同一親し了せるのである︒若し︑此の設に従はんごすれば︑無
よb有を生じたりてふ︑本無今有の論談Lも首肯せ
F
るを得ぬし︑又︑性よb相を出すとすれば︑相は性の一部品川と見なければならぬ︒果して然らば︑修徳は性徳の全部を具備すると云ム乙とは︑何?一根
擦として之を論守るか︑吾人は大なる疑問を持た守には︑之を見る事は出来ないのである︒例せば窓