YMCA
第 1節 NYAエ イ ドと BCC自 立プ ログラム
l NYAエ
イ ドと大学生特別 フ ァン ドここで、ベ シュー ンが連邦か らの支援 によつて実施 した教育支援プ ログラムの中で、学 生 に対す る奨学金エイ ド支援プ ログラムの分析 に移 り、当時の特に南部のNYAエイ ド学生 が置かれていた状況 の中で、ベ シュー ンが どのよ うに、様 々の都市か ら学生を受 け入れ る ことができたのかについて検証 したい。
先ずベ シュー ンの コラムにあるよ うに、大学 としてNYAエイ ドを受 けるには、何かを教 える学部 を持つ必要があ り、ベ シュー ンがメソジス トエ ビス コパル教会の 自人管理か ら自 立 して全国黒人向上協会の教育系支部組織 である全国黒人教師組合や全 国教師協会 との 支援 によつて整備 した、教師育成 コースを中心 に歴史や英語 な ど教員免許 を与 える学部 に
よるものであった1。
BCCのあるデイ トナ ビーチ以外 の地方都市の出身者 であるNYAエイ ド学生 には、寄宿舎 生活が義務付 け られたので、次頁の表8に見 るよ うに、1937年 教師育成 コースの在籍者 の 70パーセ ン ト以上が寄宿舎生活 を していた ことになる2。 また ミッチェル が、1938年 第3 学期 の必要経費 とした入学金20ドル と授業料 17ド ル に加 え、その他 に食費や入居費月約 18ド ル の出資は、救済家庭やそれ に近い家庭の学生に とつては大きな負担であつた3。
そ こで、NYAエイ ドをよ り多 くの学生 に分配す るために、一人 当た りの最高支援額月 15
表81937年度ベ シュー ン・ クックマ ン大学入学者
Source: NatiOnal Youth AdministratiOn,X,肥
ドル を一部の学生に支給す るのではな く、6ドル を下限 として適切な援助額 を検討 し、残 りを後に詳述す るパー トタィム労働プログラムで補完する支援方法が考案 された4。
また この食費 を含 めた費用は、入学時に 3ヶ 月分約70ドル を前払い しなければな らず、
ベ シューン・クックマン大学が後で述べる様々な方法で食費や寄宿舎代の軽減 に努 めた も のの、多 くの学生には、教育ローンの貸付金、つま り20万 ドル教育ファン ドの確立が必 要 であった。 ミッチェルがジャクソンビルの高校生に当てた返信には、貸付金の総額が、
1939年度NYAから受 ける割 当額 をはるかに超 えていて、志願者 を300人で打ち切 らざる をえなかったことを伝 えている5。 そ して ヵ ″ た溌。d Be励 θ&ρθぉ のNYAファイル か ら学生の出身都市を拾った表2の① は、19の都市か ら50人か ら60人の学生が実際に 支援 され教育の現場に留まることができたことを示 している。一方この人数については、
ベ シューンが支援できた学生は、
1っ
の都市で2、3人
に過 ぎなかった と言 うこともでき るのである。つま り 1937年 度の教師育成 コース在籍者の 349名 に当てはめると、4分の3以上が ロー ンを申請 したけれ ども、6分の1しかNYAエイ ドが当た らず、残 り6分の5の学生 を支援 す るために、ベ シュー ン・ クラブによる20万 ドル教育 ファン ドの補充が切望 された。
次 に連邦プログラム として、ベシューンが 1938年 度か ら連邦政府か ら獲得 した約 10万 ドル の大学院特別 ファン ドがある。ハ ンソンやス ミスはこのプログラムについて、ベシュ ー ンがアメ リカ資本主義社会への黒人青年の自立的適合をめざし、ブラック・キャビネ ッ
トと連帯 して 白人青年 と平等なファン ドを求めたものとして高 く評価する つま り
分 類
食事付 食事な し 合 計
男 女 男 女 男 女 計
新入生 教師訓練 29 116 12 43 41 159 200
2年生 教師訓練 44 67 5 33 49 100 149
合 計 73 183 17 76 90 259 349
表
9 1938年
度教育支援を受けてBCC学生 となった黒人青年の出身都市 (数字は人数)① NYAエイ ドプログラム
マイアミ
3
オーラン ドジャクソンビル
サンフォー ド
レイクランド
オデッサ タンパ
3
プラデン ト2
ゲイノスビル2
フォー ト・ローダーデラ3レディック
ジャクソンビル
3
聖ピーターバークデイ トナビーチ
メルボルン
ダデシティー
オーカラ
タイタスビル
プラン トシティー
②
大学生特別ファンドプログラム
ファーナンディナ
サラソナ
ホーソン
②
授業料奨学金プログラム
フローレンス・ヴィラ
キーウエス ト
ニュースマーナ
Source: National Youth Administration,X,″ZBP
を育成 し、また他州か らの受講 も可能 にす る州外奨学金 ファン ドである大学院生特別 ファ ン ドを、ベ シュー ンがブラック・ キャビネ ッ トと共 に、大学生にも拡大 した もので、自立 プ ログラムではない ものの、連邦政府 の黒人政策 を平等 に導いたプログラムの一つであっ た5。
ベ シュー ン・ クックマ ン大学に与え られたプ ログラムは、工芸・美術・農業技術 を対象 とした職業訓練プログラムで、ベ シュー ンがメ ソジス トエ ビス コパル教会 に対抗 して、機 械や美術 の教授 を任命 して整備 した工学部や芸術部 によつて、ファン ド認定が与 え られた
もので、ベ シュー ンの 自立への努力 が実つたのである。
このプ ログラムは高校 の総代であることな ど厳 しい条件 であつたが NYAエ イ ドよ りも支 援額が多 く、教科書及び大学までの旅費以外 は支給 され、さらにすべての学術 コースの授 業 も受 けることが可能 とい う好条件 であ り、よ り経済的 に厳 しい学生が大学教育 を受 ける
ことが可能 になった7。 表9の② は、ファーナ ンデ ィナ・ サ ラソナ・ ホー ソンの新 たな都 市の高校生 に大学教育の支援 が拡大 した ことを示 してい る。しか しなが らこれだけの条件 で大学生 になっても、例 えば教科書代が払 えず退学の危機 にある学生の例 も見 られ、代理 学長であるアブ ラム・シンプ ソンが 自費で支援 をす るな ど、この時期 の南部黒人家庭 の厳
しい経済状況が窺 える8。
2
ベ シュー ン・ クックマン大学奨学金制度開設次にベ シュー ンが連邦か らの支援 に頼 らず、20万 ドル教育 ファン ドの確立によつて運営
した 自立プログラムについての説明に入 りたい。まずベ シュー ン・ クックマ ン大学授業料 奨学金 プ ログラムが実施 された。
ミッチェル・ ファイルか らは、マイア ミの高校生への書簡で、NYAエイ ドよ りも小額 で ある上 に各都市の高校 の総代1人のみ とい う限定 された ものであつたが、2年間 しか支給 されなかつたNYAエイ ドに対 して、
3年
制 の学生 も利用できる年間60ドル の授業料奨学 金制度 を提示 してい る9。 さらにこれ にも外れた多 くの青年男女学生 に対 して、まず は「正 規学生 として入学 して、何 らかのエイ ドが加 わ るのを待つ よ うに」 と呼びかけてお り、後 で述べ るパー トタイム労働 プ ログラムな どの支援 が拡大 された ことも窺 える10。この よ うに大学独 自の奨学金制度 を確立 した事は評価すべ きであ り、先述 したベ シュー ンが直接指導 し、ベ シュー ン都市 フイ ドサー クルがフロ リダ州 を中心に 1000ドル の資金 調達 を呼びかけたベ シュー ン・ ク ックマ ン大学卒業生・ 学生・教師 ラ リーの実施 な どによ
って、20万 ドル教育 ファン ドがある程度機能 を果 た し始 めことを示 して もい る。
また、 この奨学金 は、NYAエイ ドの対象 とな らない救済家庭ではないが非常に貧 しい家 庭 の高校生な どにも申請可能であつた ことに意義があ り、表9に見 るよ うに、マイア ミと フォー ト・ ローダーデ ラには3人目の、ジャクソンビル 、キー ウエス ト、フロー レンス・
ヴィラ、ニュースマーナ には初 めて、教育支援 の手 を拡大 した ことを示 してい るH。
3
失業青年への教育支援 プログラムの拡大 とサマースクールこれまで、一般の高校生 を対象 としたプ ログラムに焦点 を当てて論 じてきたが、ベ シュ ー ンが連邦プ ログラムの枠 を超 えて 自立プログラムを実施 した、失業青年へのパー ト及び フル タイム労働 プログラムによる支援 と、サマースクール について も言及 してお きたい。
大恐慌期 の社会 には、大学に行 った ものの、家庭 の支援 が続 かず働 いた り、家庭 の都合 で優秀 で も大学進学 を諦 めた勤労あるいは失業青年 が多 く,サマースクールプ ログラムは、
彼 ら彼女 らの中か ら有能 なものを大学 に就学 あるいは復学 させ る支援 として、BCC独自の プログラム として実施 されたものである。
第3章で検証 した様 に、学生への教育支援プ ログラムには全国黒人向上協会が中心にな って支援 したが、コ ミュニテ ィの失業青年 をも支援す るこのプ ログラムでは、都市同盟 も 同様 に、あるいは全国黒人向上協会以上 に関わつた。そ してベ シュー ン・ クラブ も、従来
体の学力向上 に向けた多様 な支援 を行 つた。
テイ ラーは 1920年 か ら 10年 間に、南部か ら東部への黒人 の移住 によつて、ニュー ヨー ク114,9%、 シガ ゴ113,7%、 デ トロイ ト19弔、 ロサ ンゼル ス 149,7%などと、黒人の都市 人 口が増加 した と述べてい るが、大恐慌時黒人男性 は職 を求 めて多数 が北部 に移住 した11。
そ してそのまま帰 らないケース も多 く、南部では親 がいない孤児や、母子家庭が多 くな り、
代 わつて コ ミュニテ ィが育成 した高校生 も多数いた12。 例 えば、マイア ミ・ベ シュー ン・
マザーズクラブは、ニュー ヨーク州の都市同盟な どと同様 に独 自に3万ドル教会 ファン ド を運営 し、学校 での給食サー ビスを実施す るな ど孤児院・教会や学校・病院 と繋がる地域 ネ ッ トワー クで、会員 の運営す るホームにおいて50人の孤児 を扶助 した13。
NYAエイ ドは救済家庭への支援 を重視 し、彼 らにまで支援 の手が届かなかつたので、 こ うした子 どもの中で優秀 な ものは高等教育 を望む よ うになった ときにも、同クラブや都 市 同盟地方支部な どの コミュニテ ィ組織 が中心 となって、コミュニテ ィ推薦学生 として、支 援す るプ ログラムが組 まれた。例 えば、先述 のマイア ミは毎年2人の コ ミュニテ ィ学生 を 推薦 し、都市同盟 タンパ支部か らも学生が推薦 され た14。 オー ラン ドのよ うに、個人 メン バーが食事代な どで推薦学生を支援 した例 もある15。
ベ シュー ン・クックマン大学 もこれ らの活動 に応 え、コミュニテ ィ推薦学生の就学には、
学費 を補完す るために、フル タイム雇用 をプ ログラム化 した。 ミッチェル はジャクソンビ ルベ シュー ン都市 フイ ドサー クル の コミュニテ ィ推薦学生に対 し、
BCCが
彼 ら彼女 らに、1年
目は失業青年 としてフル タイムの労働 を して学費 を蓄 えさせ、2年
目か ら正規 の学生 になるプ ログラムを設立 して支援 した 16。 これが どれ ほ ど失業青年 に とつて画期的な制 度 であつたかは、南部教育プ ログラムの代表的な州であるジ ョージア州の黒人青年 か らもフル タイム学生 としての志願書簡か らも窺 える17。
失業青年 の支援 には、通常は働 いているものに、夏場 にだ け学ばせ るサマースクールプ ログラムも実施 された。サマー コースは、経済的な理 由で大学 を途 中休学 あるいは退学 し て失業青年 に戻 らざるを得 ない学生、また コミュニテ ィ推薦学生で学費 に不 自由な場合ヘ の支援 のための ものであ り、また教師訓練 を受 けず に補助教員 を している地方の公立学校 教師の再教育訓練 による地方都市 の学力 向上のための もので もあつた 18。 授業 内容 も、
通常の学期 の3分の1の 期間であつた ものの、ア トランタ大学のコールマ ン教授 を始 め大 学の正規 の教員が教 え、通常の授業 と程度 の変わ りない水準 を持 つていた点が評価 され る
19。 さらに、サマー コースは、正規 の学生 に とつては教育実習 として教 える機会であつた