﹁ 恥
第 Ⅱ部 フロ リダ州 の実践 と全国的展開
第
4章
ベ シュー ン とベ シュー ン・ ク ックマ ン大学の実験第 Ⅱ部では、従来使 われ ることが少 なかつた史料である 施 ″ 脆齢οご
&励
θ JttρarS r動θ λttzrr″働
ohan衡
〃甲 働″θσ減%J"り
筋 を使用 して、学生への大学教育支 援 プ ログラムの実践状況 を、ベ シュー ンの出身州 であるフロ リダ州ベ シュー ン・ ク ックマ ン大学に焦点 を当てて解 明す る。特 にベ シュー ンが南部の状況 に合わせて、連邦か らの支 援 を拡大 し、多数の学生や 、失業青年や黒人女性 を支援 した 自立プ ログラムを中心に分析 す る。その運営のための財政的基盤 として設立 した支援組織 であるベ シュー ン・ クラブ を 組織 し、エ リー ト黒人指導者 ではな く中産階級や救済家庭 出身の新たな分野の黒人青年男 女指導者 を登用 した こと、さらに彼 らの中か ら有能 なメンバー を連邦政府行政官 として登 用 し、連邦政府 か らコ ミュニテ ィまで黒人ネ ッ トワー クを繋 いだ意義 について検証す る。本章では、テス トケース として、南部 において4年制黒人大学 を 目指 したベ シュー ンが 黒人女子実業学校 が、ベ シュー ン・ ク ックマ ン大学へ と、
4年
制大学 として承認 され るの に必須 の「何かを教 える学部」を有す るへ と教育内容 を充実 させてい く過程 を分析す る1。その過程 で、1920年 代のクックマ ン学院 との統合 と、それ以後 の大学の 自人による管理体 制 を協調的 自立体制へ と移行 させ る過程 での、ベ シュー ンの 自立理念の確立 とそれ に向け た実践 について検証す る。
第1節 黒人 の
4年
制大学ベ シュー ン・ クックマ ン大学1
ベ シュー ン・ クックマン大学の歴史ベ シュー ン・ クックマ ン大学の 100周 年 を記念 して 1994年 に出版 された大学年鑑であ
る 胸 励 θ慟 激 囮 ″―働 ″ 暇 ″
%可
筋 に よ つ て 、 同 大 学 の 歩 み は 、 下 記 の よ うに 、 そ第1期 1915年
デイ トナ黒人少女教育技術訓1練学校
第2期 1924年
ク ックマ ン学院 と統合 してデイ トナ ク ックマンカ レッジエイ ト教育施設 第3期 1931年
エス ピコパル教会か ら自立 してベ シュー ン・ クックマン短期大学 第4期 1935年 4年制大学に向けAランク承認 を得て3年制 ベ シュー ン・ ク ックマ ン大学
の名称が象徴す る教育内容の変遷 か ら、第1期か ら第5期までに分類 され る。そ こで実業 学校 として出発 した第 1期か ら、
4年
制大学へのAランク認定 を得た第4期 3年制ベ シュ ー ン・ クックマ ン大学までの、ベ シュー ンの黒人の 自立にむ けての実践の過程 を検証 した い2。 教育者 としてのベ シュー ンは、1904年 に5人の少女 と 1.5ド ル のみの出発であつた が、1915年 に教会関係 の5人の理事の支援 を得 て、デイ トナ黒人少女教育技術訓練学校を設立 し、まず は人種協調 による経済的 自立路線 を採 った とされてい る3。
ベ シューンの学校運営に大 きな転換があったのは、ジャクソンビルの大火で校舎が消失 して立て直 し不可能であったクックマ ン高等教育施設か らの要請 を受 け入れ、デイ トナ ク ックマ ンカ レッジエイ ト教育施設 となった 1924年である。 クックマ ン学院は、ニュージ ャージー州 メ ソジス トエ ビス コパル教会系の 自人慈善実業家アル フ レッ ド・クックマ ンの 遺言 である200ドル の寄付 によつて黒人男子 のための学校 として設立 された。1892年か らは女子学生 も受 け入れ、数学・地理・英語・ ドイツ語・ リーデ ィング・職業訓練の各科 を持つ フロ リダ州 にお ける重要な黒人のための高等教育施設 となつていた。卒業生の多 く が、メソジス トエ ビスコパル教会で教師等 に雇用 されたことか ら、メソジス トエ ビス コパ ル教会理事会 の黒人青年教育の主 旨は、自人青年 と同等 の全社会的な 自立への支援でな く、
慈善家 としての限 られた範囲での育成であった とい うことができる。
一方、ベ シュー ンの黒人の統合 に対す る対応 として、フレミングは、ベ シュー ンが実業 学校運営の約20年間の活動の永続 として熱心に統合 を進 め、「ま さにその状況がや つてき た ことを知 つていた」 と記述 してい る4。 つ ま リベシュー ンに とつて、 この統合 は、念願 の4年制大学への転換 の第1歩であ り、ベ シュー ンが人種協調路線 を採 つていた とされ る 1920年代すでに、黒人 による黒人指導者育成 とい う自立理念 を確立 していた ことを指摘 してい る。さらにベ シューンは、当時皆無 に近かつた黒人女子の
4年
制教育系大学 を 目指 していた としてお り、デ ュボイスが黒人指導者 のイ ンテ リ階級か ら労働者階級への拡大 を 目指 して、大学教育 を拡充 しよ うとしていた 自立理念 にも合致す るものであつた5。つま り統合 によつて長年 の夢の実現 に 1歩 を踏み出す一方で、男女共学 となつた ことは、
ベ シュー ンの 目的 とは反す る結果であ り、む しろ男子生徒の加入でクックマンホールの男 子寄宿舎 としての改築な ど、経済的な負担が加 わ ることにもなつた。
そ してデイ トナ ク ックマ ンカ レッジエイ ト教育施設運営 に際 して、宗教的な理念 での 自 人 による大学運営 を続 けよ うとす るメ ソジス トエ ピス コパル教会 メンバー と、それ を重視 しなが らもデ ュボイスの 自立理念 に近い資本主義社会 とい う現実 に沿 つた多様 な学部 の
運営 と新 たな分野の学生の獲得 を 目指すベ シュー ン側 とは、理事会で様 々な対立があった。
1925年の理事会か ら、教育内容 を充実 させ るべ く、またベ シューン とメ ソジス トエ ビス コパル教会会議代表者 は、この教育施設の学術的な将来のコースについての議論に入 つた。
そ して財政的な負担軽減 のために基礎学校 の生徒 の増減 を巡 つて、減少 を主張す るメ ソジ ス トエ ビス コパル教会側 に対 し、教師育成 コースの充実 を 目指すベシュー ンはその意見 を 受 け入れず、財政的補填 のために恒久基金委員会 を設立 した。そ して歌手 による宣伝 と資 金調達キャンペー ンを開始 し、4年制 大学の中心 となる教師育成 コースヘの道筋 をつ けた
ことが、まず は自人 による管理か らの 自立の第1歩であつた6。
続 く1926年3月 にベ シュー ンは、BCC諮問委員会の副会長で理事で もある COM・ レン ス ロウを通 じて、ベ シュー ン・ クックマ ン短期 大学への名称の変更 を要求 した。この名称 の変更は、教科 の変更 を学術的な分野 に限るとす るメソジス トエ ビス コパル教会に抗 して、
総合的な
4年
制大学 を 目指すベ シュー ンが従来の手工業的な職業訓練 を、資本主義社会 に 対応す るために高額 な機械 が必要 な洗練 された コースに転換す るための処置であつた。例 えば女子学生には実践芸術 コース として家政学部、男子学生には 自動車部品・電気 な どの 工学部お よび グラフィックデザイ ンな どの商学部 の新設 を主張 し、1934年 度 には経営学、1935年 には農業工学部 も開かれた7。 次章で検証す るが、ベ シュー ンの これ らの学部整備 によつて、連邦か らの農業工芸な どの大学生特別 ファン ドプ ログラムが受 け られ、数十人 の高校生に大学教育 を拡充できるのである。
短期大学への変更 によつて、ベ シュー ン側 は大幅な運営資金 の不足 にお ちいつたが、メ それが、ソジス トエ ビス コパル教会 の管理 か らのがれ る契機 となつた。高度教育 のための 新 たなそ して効果的な計画 に挑戦す ることは、メ ソジス トエ ビスコパル教会側か らの定期 的な支援 を得 ることが不可能 にな ることを意味 した。ベ シュー ンは、1926年に自人 の管 理下か ら脱 して黒人 による4年制 大学 に向けてスター トした と指摘できる。
フレミングは、続 く 1927年の理事会で、ベ シューンが
4年
制大学 にす ることへの展望 を述べた ことについて、「この会合 は、その ときだけでな くベ シュー ンの行動 の根本的 な 転換 となつた」 としてい る。その一例 として、ベ シュー ンは同年全国黒人女性協会 NACW の会長 として、「我々の人種 の全国の女性 が、 自分 自身 の責任 において我々の学ぶ教育施 設への関心 と同様 にもつ と大 きな歓声 を呼び覚まそ うとしてい る。これ らの新たな友人 と 通 じて、我 々は1万ドル の寄付 とい う大 きな ゴール に到達す ることを望んでいる」と訴 え、黒人女性 が先頭 に立って、連邦政府行政官及び全国黒人市民組織 か ら一般 の黒人 に続 くネ ッ トワー クによつて、教育支援 ファン ドを運営 して、黒人青年への大学教育 を拡充す ると い う黒人 自立に向けた基礎的な理念 と方法 を確立 したのである。
一方 メソジス トエ ビス コパル教会側 も 1928年 の教会報で、「BCCの理事会 は、将来完全 に大学の責任 と支配権 を持つ ことを認 めてい る。それは最 も早 く進展 して、次の 日標 に到 達す ることが可能であろ う
000す
べての努力が早い時期 に、理事会によつて、財産 を含 む もつ と大 きな責任 を保障す る状況 を創造す るべ きである。」と述べていて、ベ シュー ン・ク ックマ ン短期大学 となつた学院 に対 して、管理者 か ら協力者 に移行す ることを承諾 して い る9。 ベ シューンの 自立理念 は、デ ュボイス来校以前の 1927年にはすでに確 立 されて いただけでな く、自人指導者 と協調 しつつ 自らの 目標 も推 し進 めるための手段や方法 も習 得 していた とい うことができる。
2
黒人 による4年
制ベ シュー ン・ ク ックマ ン大学ヘそ してベ シュー ンは、1929年 に来校 したデ ュボイス との交流 を通 じて、その 自立理念 の 実践に転 じ10、
4年
制ベシュー ン・ クックマ ン大学 に向けて邁進 してい く。まず 同年カ リキュラムを学術的に向上 させ、教師育成 コースを中心 に黒人男女指導者 を 育成す る4年制大学 に拡大 を 目指 して、財政的 自立のための教育 ファン ドと支援組織 であ るベ シュー ン・ クラブを設立 したのである11。
具体的な活動 として、1933年 以後、州の行政官や全国黒人市民組織 とのネ ッ トワー クを 繋いで支援 を得 る活動 に着手 した。また全国黒人女性協会やユダヤ女性 同盟な どの女性組 織 と連携 し、 さらに上院議員F・ C・ ワル コッ ト、フロ リダ州知事のデイ ビス・ シ ョル ツ、
市長 のE・ H・ あ―ムス トロング、公立教育施設 の州監督W・ S・ カ ウソン、フロリダ州大
学学長であるロ リンズ大学長ハ ミル トン・ ホル トの支援 の書簡 と資金収集 を実践 した。そ の成果 として南部大学高校認定協会 にBCCの大学 としての学術的向上 を訴 え、フロ リダ教 育局か ら州教員免許状 の授与が許可 され、南部大学高校認定協会か らも承認 を得 て、多 く の学生 を育成できる
3年
制ベ シュー ン・ク ックマ ン大学の承認 を受 けた12。 この よ うにベ シュー ンは 自立プ ログラム運営の基本的な方法 をベ シュー ン・ クックマ ン大学の4年
制承 認 に向けた活動 を通 じて確立 していたのである。1935年 に、ベシュー ンの 自立路線 の実践 は大 きな転換点 を迎 えた。遂 に4年制大学 とし ての仮認定で