0. 序論
0.7. 研究の方法
以上の
Suv
の研究史を振り返るに,次のような問題点が浮上する.Suv
の写本,テキスト伝承及びそれらに関する歴史的状況を扱った研究は,ドイツの研究者を 中心になされている.しかし,テキストの翻訳研究はNobel [1958]
によるTib.
のドイツ語訳,Emmerick [1970]
によるSkt.
の英訳の他,目ぼしい研究成果を見ていない.5
漢訳,
Skt.
に対する日本の学者による業績もあるが,漢訳の現代語訳は原典を書き下したもの に過ぎず,現代の学術水準に即応したものとは言い難い.またSkt.
に対する和訳も,漢訳語にか なり依拠したものである.確かに漢訳語は中国の仏教僧たちがどのようにサンスクリット語を理解し ようとしたかを知る上で重要な価値を持っている.しかし,サンスクリット語は豊かな造語能力を持 っているので,漢訳語を一律にあてるだけではテキストの正確な解釈を行うことは不可能である.10
例えば
dṛṣṭi
(動詞語根dṛś+KtiN
)という語一つを例に取って見ても,Skt.
では「見る行為」という意味にも,「見る手段」すなわち「眼」とも解釈可能である(
Cf. Pāṇini 3.3.94: striyāṃ ktin
).しかしこ れに「見」という漢訳語を一律にあてがってしまえば,本来のSkt.
が持つ多様な意味を和訳に正確 に反映させることは不可能になってしまう.19
世紀以来のインド学・チベット学の成果を基に時代 に即応した正確なテキストの訳を与えることが重要である.15
Suv
はテキスト上の問題を多く含んでおり,翻訳にあたっては広範囲の資料を検討することも必 要となる.翻訳研究の少なさは,先行の研究者がこうした問題を度外視してテキストの内容を扱う ことに対して慎重な姿勢を取ったことの現れとも考えられる.しかし,「答えが書かれた紙が出てこ ない限り,答えを出さない」という姿勢を貫いていては,研究が本来の文献学のあるべきあり方か らますます離れたものとなってしまう.限られた範囲で,最新の研究成果を基にテキスト解釈を進20
めて行くことが我々に課せられた責務であると筆者は考える.例えば
Nobel[1944, 1958]
がチベッ ト語訳に対する校訂テキスト及び翻訳を刊行した当時に比べて,より多くのチベット語訳の版本を 我々は今日参照することが可能なのである.Suv
の思想史的研究も未だ十分とは言えないのが実情である.Suv
の思想史的研究は日本の 学者を中心に行われてきたが,それらはSuv
に説かれる中心的な思想とされている仏身論,三身25
説,懺悔思想,慈悲思想や儀礼などを扱ったものである.しかし,陀羅尼,菩薩十地説,空性説 については,十分と言える研究成果を未だ見ていない.また思想史的研究では漢訳註釈文献に 依拠するものが多く,大乗仏教や密教と言った特定の枠組みの中でしか考察が行われていない.
大乗仏教の思想も,伝統的なバラモン教や初期仏教からの思想を受け継いでいることは渡辺
[1996]
が指摘する通りである.このことを意識して,初期仏教から密教までを視野に入れて思想研30
究を行う必要があろう.
以上の問題点を考慮に入れ,筆者は本論においてどのような歴史的背景から,空性説,陀羅 尼,菩薩十地説が
Suv
に説かれたかという問題の解明を試みる.具体的研究方法は次の通りで ある.本論第一章では,
Nobel
校訂本を底本として,ナルタン版(N
)を中心とする8種のTib.
を補助的 に用いて,Suv
における空性説を従来の中国仏教,日本仏教における伝統的な解釈を離れ,初 期仏典から密教経典までを視野に入れた新たな視点から検討し,本経に説かれる空性思想の特 徴を明らかにする.本論第二章では,チベット語訳(
Tib
2)からの和訳に基づいて,Suv
に「金勝陀羅尼」が挿入され5
た理由やそこに説かれる陀羅尼の思想的特徴を明らかにする.テキストの和訳にあたっては漢訳 仏教術語を用いることをなるべく避け,想定される
Skt.
を推定した上で現代語訳する.Tib
.の版本 としてはラサ版(L
),ナルタン版を中心に,チベット大蔵経の東西系統の8種の版本を網羅的に取 り扱う.またRadloff [1930]
やNobel [1958]
などの先行訳,並びに漢訳とモンゴル語訳を批判的に 検討し,適宜脚注に示す.10
本論第三章では,
Suv
に菩薩十地説がどのような思想的背景からどのようにして取り入れられ,そこにどのような思想的特徴が見られるかという問題を,
Suv
「最浄地陀羅尼品」と『仏説荘厳菩提 心経』などの菩薩十地説を説く先行する大乗経典と内容比較することを通じて解明することを試 みる.第 I 部
本論
第 1 章
「空性品」の研究
第 1 章 「空性品」の研究
ドキュメント内
『金光明経』の思想的研究―「空性品」,「金勝陀羅尼品」,「最浄地陀羅尼品」を中心に―
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(ページ 51-55)