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第3節 盛唐科挙と『唐韻』の関係
本節では、唐の玄宗期と『唐韻』の関係について述べたい。玄宗期は唐 詩の最盛期であるといわれているが、その最盛期は何によってもたらされ
『唐韻』にどのような影響を与えたのかを中心に論述してみたい。また
「行巻」の風習についても述べたい。
玄宗は、「開元の治」といわれる唐朝の最盛期を現出させた皇帝として 有名である。玄宗の人柄について、布目瓦二三は次のように述べられてい る。「玄宗の人がらの表れとして、兄弟仲のよかったことが、中国皇帝の なかでは珍しい例として伝えられている。たとえば、弟の酵王業が病気に なったとき、玄宗は政務を執っている間に使者を十度も遣わして見舞い、
また弟のたあに自分で薬を煎じ、あまりいっしょうけんめいになって、つ いに髭をこがしたという話まで伝わっている。」(D
中国の皇帝位をめぐっては権力闘争の歴史でもあった。階の場帝は兄の 勇や文弱を殺して即位したと言われているし、唐の太宗も兄や弟を殺して 即位した(玄武門の変)と言われている。その最たるものが則天武后であっ た。王皇后を殺し、権力のためなら実子(弘や賢)でも殺した。まさに恐 怖政治であるが、第2章第2節でも述べたように則天武后の顔色を伺い、
誰に密告されるかと人々が息を潜めて生活していたのであるから、玄宗の 治世に人々は歓喜したであろうことは容易に推測される。兄弟が仲が良かっ たことは、権力基盤が安定しており、自由な雰囲気を醸し出したものと考 える。闘鶏、詩賦、ポロ(撃球)、音楽などの文化が発展した。文化は、
「開元の治」と称される政治の安定や自由な雰囲気が欠かせない。則天武 一97一
后期の息の詰まるような恐怖政治では自由な雰囲気はとても生まれない。
玄宗が詩賦を好んだので、唐詩の発展も最高潮に達する。馬積高氏も次 のように述べられている。 「唐詩発展的高潮到来的時候正是在進士考試詩 賦的制度逐漸定下来的時候、二者顯然有着某種因果関係。… 首回、大 家都知道、唐詩発展的高潮出現在開元、天宝三際。不説三三南北朝詩人的 創作已為唐人積累了豊富的芸術経験、初唐從王績到王、楊、酪、盧、沈、
宋、陳子昂、為唐詩創作高潮的到来也作了大量的準備工作、如律詩的完成、
七言詩的大量創造和 三三風骨 的提出等。王績、 四悉 都不是進士出 身、沈、宋、陳錐從進士出身、然均在高宗永隆二年以前。他椚的建樹、当 然不能帰功干進士考試詩賦的制度、相反、我個倒是可以説、律詩的形成以 及促使律詩形成的重視三三的風気是造成進士考試詩賦三原三二先決条件、
而 三二風骨 的提出、又與科挙考試的要求二道二三。二次、二三二三二三:
開、宝以来的著名詩人多数是一些不善三三不屑干作科挙程式詩文的人。」(2)
(唐詩の発展が最高潮に達した時期は、ちょうど進士の試験で詩賦が課さ れる制度が次第に定まってきた時期と一致している。両者は明らかに因果 関係がある。まず、ご存じのように唐詩の発展が最高潮に達したのは開元・
天宝年間〈713年〜756年〉である。唐代の詩人が蓄積してきた豊富 な芸術経験は、漢・魏・南北朝の詩人の創作活動によるところが大きい。
初唐の頃の王績から王勃、楊弓、騎賓王、盧照郊、沈栓期、宋之問、陳子 昂にかけて唐詩が最高潮に達するための準備がなされた。例えば、律詩の 完成や七言詩がたくさん創作されたことや 漢・魏時代の気骨 が生まれ たことをあげることができる。王績やく初唐の四傑〉といわれる王勃、楊 燗、騎賓王、盧照郵らは皆進士の出身でなく、沈栓期、宋之問、陳子昂ら
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は皆進士の出身ではあるが、皆高富の永隆二年<681>以前に進士に合 格しているので、もちろん進士試験で詩賦が課される制度は彼らの功績で はない。律詩の形成や律詩の形成を促す三田を重視する気風は、進士で詩 賦が課されたことが原因であると言うことができる。また 漢・魏時代の 気骨 が生まれたことは、科挙試験という趨勢に背を向けることになった。
その次に重要なことは、開元・天宝以来の著名な詩人の多くが、科挙が作っ た詩文の様式があまり得意でなかったり、それを潔しとしないことである。)
このように、唐詩が開元・六二年間に最盛期を迎えたことや科挙試験と唐 詩の発展に因果関係があることや科挙の詩賦の様式が良くなかったことが
わかる。
馬積高氏は、唐詩の発展が最高潮に達した時期は、開元・二二年間(7 13〜756)であることや唐詩の発展が最高潮に達した原因は進士の試 験で詩賦が課せられたことであることを明確に述べられている。進士に詩 賦が課せられたのは、第2章第2節でも述べたように高宗の永隆2年(6 81) 「加温雑文二篇、通文二者、二藍晶晶。」 (『新三二』巻44>が 史料上に確認できるものとしては最初である。ただ、「雑文」とあるよう に、色々な文の中の1つとして詩賦が課せられたにすぎず、制度としては 定着しなかったのではないか。本格的に進士に詩賦が課せられるようにな
るのは、やはり玄宗の開元年間(713〜741)「雑文試、二三居其一、
或山居其一、或全用詩賦者。」 (『全唐文紀事』巻14)ではないか。開 元年間でも開元初期に進士に詩賦が課せられた可能性が高いことは第2章 第2節でも述べた通りである。開元初期は、則天武闘が崩御した神龍元年
(705)からまもなくの時期である。玄宗が則天武后が進士に詩賦が課 一99一
したことを真似たとしても不思議ではない。
進士に詩賦が課されたことと唐詩の発展とを結びつけるものとして「行 巻」を挙げることができる。行巻とは、「科挙の受験者が自分の文学作品
に手を加え、清書して一巻にしたうえ、試験の前にそれを当時の政治・社 会・文壇において高い地位を占めていた人たちに送ったもので、彼らから 主司、すなわち試験を主宰する礼部侍郎に推薦してもらうことによって、
合格の可能性をいっそう高めるための一つの手段であった。」(3)
当然、誰でも受験する以上、試験に合格したい。三三は合格したい一念 で行う事前運動にあたる。おそらく初めは、事の性質上こっそりと行なれ たであろう。したがって、いっから行巻が行われたのかは定かでない。し かし、進士の試験に詩賦が課せられるようになってからではないかと考え られる。この三二が流行した背景には、試験の答案の受験者の名前の部分 がのりで封じてなかったことがある。したがって、試験官は誰の答案であ るか容易にわかるので受験者の平生の作品や評判を参考にしたり、あるい はそれのみによって合否を決定することになった。この行巻の風習は試験 の答案の名前の部分が糊付けされるようになった三代まで続くことになっ
た。
試験にとって極めて重要なことは公平性であると考える。この公平性と いう観点に立てば、行巻の風習は不正の入り込む余地が多く極めて好まし くない。劉智亭氏も行巻は科挙の弊害であるとした上で、次のように述べ られている。「礼部考試不是看三子的考試成績如何、而是 二三 二二葎 人和被推葎者的軽名望 高低。挙子登第以後、通過吏部覆試、即可出仕、
出仕以後、対推葎他入自必懐恩三徳。感激不尽。這様就可以更加提高名公 一100一
貴卿的威望、地位、増強他的権勢力量。在主試官與録収進士的関係方面、
依照慣例主温湯是録取進士的恩師、録取進士園主試官的門生、双方通過科 挙考試、結成師生関係、以後在仕途上便論旨相援引。心様一溜、慮盲者、
推鳥人、主試官三方在科挙考試山都得丸丸好庭。所以徊私舞弊之風愈来愈 烈。加之那時的考試、試巻一律採取不二名(即不密封)方式、這就更可以 便宜行事、往往考試還未開始、主試官記経内定、挙子二二慮及第、山鳥列 甲高。所謂考試、二不二是走過去搦形式罷了。」(4 (礼部の試験は科挙 の受験者の試験の成績の善し悪しを見るのでほなく、慣例として推薦人と 被推薦人の声望の高下を見るようになってしまった。科挙の受験者が合格 すると、吏部の覆試く再試験〉があり、それに合格すると官吏になる。官 吏になれば、自分を推薦してくれた人に対して大変な恩義を感じ感謝する ことになる。このようにして有力貴族達は、その威厳、地位を高め、・ます ます権勢を強あることになった。試験官と採用された進士の関係は、慣例 として試験官は採用された進士の恩師になり、採用された進士は試験官の 門下生となる。双方は、科挙試験を通して師弟関係を形成し、以後、仕事 の上でもお互いに援助することになった。このように受験者、推薦人、試 験官三者とも科挙試験で得をすることになった。だから私情にとらわれ悪 事を働くという風潮がますます強くなった。加えて、この時の科挙試験は 答案の名前を隠さない方式であったので、この風潮は、さらに強まった。
試験がまだ始まっていないにもかかわらず試験官が合格者を既に内定して おり、受験者の中では誰が合格するか、誰が甲続く優秀な成績〉に合格す るかがわかるという状況にまでなった。だから試験というのは単なる形式 上実施するものにすぎなくなってしまった。)
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