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初唐科挙とr刊謬論鉄切韻』

ドキュメント内 隋・唐代科挙と切韻系韻書との関係 (ページ 79-99)

巻14>

第2節  初唐科挙とr刊謬論鉄切韻』

        との関係

 唐代の文学では、初唐、盛唐、中唐、山高という言葉がよく用いられる。

4っの時期をどこで仕切るかについては、説によって多少の出入りはある が、小川環樹氏は唐建国の武徳元年(618)から景龍三年(709)ま でが出品、玄宗が実権を握った唐山元年(710)から開元・天宝の一世、

安史の乱を経て三三元年(765>に至るまでが盛唐、大払元年(766>

から大和九年(835)までが中唐、開成元年(836)から唐滅亡の天

祐三年(906)までが面面であるとされている。q)

 本節では初出期、特に則天武二期と王仁煎の『刊謬乱言切韻』との関係 を述べたい。科挙の進士科の試験科目には、詩賦が課せられたと言われて いるが史料を基に検討したい。そのために、まず進士の合格者数の推移や 則天武后期の時代背景を概観し、それらが『刊謬補鉄切韻』の成書にどの ような影響を与えたのかを述べたい。

 『新品書』巻44選挙志上に、次のように述べられている。

  唐心、取高高科、冷温階奮、然其大要有三。由學館者日生徒、三州縣   者日郷貢、皆心匠有司而進退之。其科之目、有秀才、有明経、有俊士、

  有進士、有明法、有明字、有明算、有一史、有三史、有開元禮、有道   墨、有童子。而明経之別、有五経、有三経、有二経、有學究一言、有   三禮、有三傳、有史料。此歳墾之常選也。其天子自詔者日制墨、所以   待非常之才焉。

  (唐の人材登用の科目の多くは、階の旧制度を引き継いでいるが唐は、

       一77一

  おおむね3つのルート.があった。学館よりの者を生徒といい、州県よ   りの者を郷貢といい皆、役人になったり進退が決まった。その科目は   秀才、明経、俊士、進士、明法、明字、明算、一史、三史、開元礼、

  道挙、童子があった。 さらに明経には五経、三経、二経、学究一経、

  三礼、三伝、史料の別があった。これらは毎年、実施されるものであ   る。皇帝の詔で実施されるものを制挙といい、特殊な才能をもつ者を   採用するものである。)

 通常の採用試験(常挙)の受験方法には2通りの方法があった。1つは、

中央や地方の官学の在校生であって、学校の試験に合格して学校の推薦を 得て受験する方法であって、「生徒」と呼ばれる。『もう1つは、学校に行っ ていない者で、知識を持つ者が州や県の試験を受けて合格し、州や県の推 薦を得て受験する方法であって、「三二」と呼ばれる。

 唐代の科挙制度の特長の1っには、この郷貢と呼ばれる制度が挙げられ る。学校に行っていなくても知識や能力があれば誰でも受験できる制度は、

画期的な制度であると言える。科挙に合格しようとすれば、もちろん本人 の能力も必要ではあるが、他に多額の費用がかかったであろう。家庭教師 を雇い、四書五経をはじめとする大量の書物を買い、日々勉強に専念でき る家庭環境であり、広い中国であるので都への旅費や滞在費用もばかにな らない。このように経済的に恵まれている人達はそう多くはなかったであ ろう。確かに、経済的に恵まれている人達には有利であることは事実では あるが、それは科挙を受験するための条件ではない。万入に開かれた、極 めて民主的な制度であると考えている。

 宮崎市定氏も「第一に科挙はだれでも受けられる、開放的な制度である

      一78一

ことがその特長だといえる。…  科挙は士・農・工・商を問わず、だれ でも応ずることができるから、非常に民主的な立派な制度だといわなけれ ばならない。」(2>と述べられている。

 劉海峰氏も次のように述べられている。「唐代還虜於中國封建社會的上 升階段、其二二制度、尤高島科墨制在當時具有一定的進歩性、存在着不少 積極因素。其一、考試取士禮現了平等精神。與以往的選墨制度不同、唐代 山科墨二品選制最主要的特鮎、即主要以考試來挑選人材、按成績高下決定 選墨人的取捨。儘管在三二中不時會受権貴請詫和行賄二二丸干擾、但通常 考試成績循是録取的重要依擦、膣現品平等精神。」(3)(誌代は、まだ中

国の封建社会の発展段階であるが、選挙制度とりわけ科挙制は当時にあっ て一定の進歩性を備えた。それには、少なからず積極的な要素も含まれる。

その一つが、試験によって人を採用することは、平等という精神を具現化 したことである。いままでの選挙制度と異なり、唐山の科挙や鐙高く二部 による最終試験〉の制度に、最も大きな特長がある。それは、主に試験に よって人材を選ぶこと、すなわち試験の成績次第で人材を選抜することに ある。残念ながら時に、請託や収賄などの不正が行われたりしたが、通常 は試験の成績が重要な採用の根拠であり、これは、まさに平等な精神を具 現化したものと言える。)

 次に、科挙にどのような試験科目が課せられたのかを見たい。『新唐書』

巻44選心志に次のようにある。

  凡秀才、試方略策五道、以文理通粗爲上上、上中、上下、中上、凡四   等爲及第。凡明経、先帖文、然後口試、経鼻大義十條、答時務策三道、

  民青四等。凡開元禮、通大義百條、策三道者、超三面官、義通七十、

      一79一

策通二者、及第。散、試官能通者、依正員。凡三傳科、左回傳問大義 五十條、公羊、穀梁傳三十條、策皆三道、義通七以上、策通二以上爲 第、白身視五経、有出身及前資官視學究一経。凡史料、旧史問大義百 條、策三道、義通七、策通二以上爲第。能通一史者、白身視五経、三 傳、有出身及前回官視學究一経、三史皆通者、奨擢之。凡童子科、十 歳以下能通一経及孝経、論語、巻三文十、通者予官、通七、予出身。

凡進士、試時務策五道、帖一大経、経、策全通爲甲第、策通四、帖過 四以上爲乙第。凡明法、試律七條、令三條、全通爲甲第、通八爲乙第。

凡書學、先口試、通、乃墨試説文、字林二三、通十八爲第。凡算學、

録大義本條爲問答、明数造術、詳明術理、然後爲通。試九章三條、海 島孫子五曹張丘建三三陽周脾五経算各一條、十通六、記遺、三等数帖 二十得九、三二。三三術、三三録大義爲問答者、明数造術、詳明二三、

無注者合数造術、不失義理、然後四通。綴術七條、績古三條、十通六、

記遺、三等数帖三十得九、爲第。落三者、難通六、不第。

(秀才科は、方略策5題を試験して、文章の筋が通っているかどうか で、上上・上中・上下・中上の4等に分けて、合格させる。明経科は、

まず帖文く経書の知識をためすための試験で、いわゆる「伏せ字あて」

である。経書の両側をおおって中間の1行を残すだけとし、さらに行 中の文字を紙で回りつけ、受験者に隠された文字を読ませた。q)〉

を試験し、その後、口頭試問があって大義10題を問い、そして、時 務策3題に答えて、また4等に分ける。開元礼科は、大義100題、

策3題に通じた者に官を与え、義70題に通じ、策2題に通じた者は 合格とする。散・試官とよく通じた者は正式な官吏にする。三伝科は、

      一80一

左氏伝の大義50題、公羊、穀梁伝30題のうち、策は3題すべて、

義は7題以上、策は2題以上に通じる者が合格であり、白身くまだ科 挙に合格しない者〉は、五経を試験し、以前、役人の資格のあった者

は、学究一経と見なす。史料は、史ごとに大義100題、策3題を問 い、義7以上に通じ、策2以上に通じれば合格である。よく一史に通

じ、白身は、五経を試験し、三伝は出身があり以前に役人の資格のあっ た者を学究一経と見なし、三史にすべて通じる者を奨励し抜擢した。

童子科は、10歳以下で、よく一二や孝経、 ̲語に通じ、文ごとに10題 を暗高している者に官を与え、7以上に通じる者には、出身を与える。

進士科は、時務策5題、帖一大経を試験して、経にも策にも、すべて 通じた者は甲合格とし、策4題、帖4以上の者は乙合格とする。明法 科は、律7題、令3題を試験し、すべてに通じた者は、甲合格とし、

8以上通じた者は乙合格とする。書学は、まず、口頭試問があり、そ れで通った者は、説文、字林20題の知識を試験し、18以上できた 者は合格である。算学は、大義本条を書き、問答した後、話術を明ら かにし、三二を詳しく説明させて合格にする。その後九章3題、海島、

孫子、五曹、張素建、夏侯陽、周忌、五経算のそれぞれ1題あり、10 題のうち6題以上とり、記遺、三等数の10のうち9以上が合格であ

る。綴術7題、緯古の大義を書き留め問答した者、数造術を明らかに し、術理を詳しく明らかにし、合数造術に注釈をし、文章の筋道のあ る者は合格とする。綴術7題、鼻血3題、10題のうち6題できた者、

記遺、三等数の10題のうち9題できた者を合格とする。経ができな かった者、6題しかできなかった者は不合格である。)

         一81一

 このよ.うに、受験する科目によって試験科目が異なり試験のレベルも異 なるが、おおむね経典の解釈が重視されたようである。最難関と言われた 秀才科は、『文献通考』巻29に「高宗永徽二年、丁丁秀才科」とあり、

651年に廃止されたようである。『文献通考』巻29に「其難難謂之、

三十老明経、五十少進士」とある。「30歳で明経科に合格しているよう では年寄り、50歳で進士科に合格できればまだ若い方だ。」と言われる ほど進士科は難関であった。本論文では、進士科に限って論述していきた

い。

 次に、進士科の試験科目の変遷について述べていきたい。進士科で「試 時務策五道、帖一大経」を課したのは、太宗の貞観8年(63 4)のこと であり、唐の初めの頃は、『冊府元亀』巻639によると「祇試策」とあ

り、策の試験だけであった。貞観8年以降も次の表1のように試験科目が 変遷している。

 [進士科の試験科目の変遷表](表1>

年代 試験内容 史料

高宗上元元年

i674)

加試老子策三條。

r新唐書』巻44

高宗儀鳳3年

i678)

定道徳経爲上経、兼試之。

r冊府元亀』巻639

高宗永隆2年

i681>

加試雑文二篇、通文律者、

R後試策。

r新唐書』巻44

武后長寿2年

i693)

罷老子、更試太后所造臣軌。 『資治通鑑』巻205

ドキュメント内 隋・唐代科挙と切韻系韻書との関係 (ページ 79-99)

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