見 と 梅 原 真 隆
はじめに 本章
では
、大 正時 代に
「社 会問 題」 が顕 在 化し て くる なか で、 真宗 教 学・ 思想 がど のよ うに 論じ られ たの か、 梅 原真 隆( 一八 八五
~一 九六 六) に注 目す るこ とで 考察 した い。 大正 期は 社会 構造 が 著し く変 化 し、 貧困 や差 別な どの 社会 問題 が表 面化 した こ とで
、仏 教各 派も 国家
・社 会的 課 題の 対応 に迫 られ た。 こと に、 一九 一八
(大 正七
)年 八月 の米 騒 動を 近因 とし て、 国家 の社 会政 策が 一転 す る1
。こ の米 騒 動は
、星 島二 郎 が「 政治 問題
、社 会問 題
、思 想 問題
、其 他種 々な る意 味が 含れ て居 る2
」 と指 摘 する よう に、 米価 問題 に限 られ たも の では なか った
。 こう した 状 況が
、民 衆や 大衆 に自 身が 生活 する 共同 体を 意 識さ せる よ うに な った
。 これ らを 総 じて
、 飯田 泰 三は
「社 会
」の 発 見と 論じ て いる
3
。本 願寺 教 団も 社 会課 を立 ち上 げ、 龍谷 大学 も社 会学 講 座を 新設 する など
、積 極的 に社 会問 題 へ参 与 して いく
。 筆者 は、 こう した
「 社会
・社 会 問題
」と の対 峙は
「教 学の 再編
」を もた らし た と考 えて いる
。 近代 化の 指 標と さ れる 世俗 化に よっ て、 前章 まで 見て き たよ う に、 宗教 は「 私的 な 領域
」に 限定 され た。 だが
、社 会問
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題が 表 面化 した こと によ る「 社会
」の 発見 と いう 事 象は
、宗 教( 思想
) の立 場か ら改 めて
「社 会」 を捉 え直 す営 み が求 めら れた とい える だろ う。 それ は 同様 に、 真宗 教学
・思 想 から
、「 社会
・社 会 問題
」と どの よう に 関係 す るの か、 ある いは 向き 合う のか とい うこ とが 問わ れる こと にな っ た。 では
、社 会問 題と 向き 合う こと を可 能 にす る教 学・ 思想 とは
、ど うい った もの か。 本章 では
、梅 原真 隆 とい う真 宗 学者 に 注目 し、
「社 会
」が 発見 さ れる 中で
、如 何に 真宗 思想 から 現実 社会 の問 題に 応答 した のか
、 もし くは 応答 しよ うと した のか
、検 討し て いき たい
。 梅原 は真 宗本 願寺 派 の僧 侶で あ り、 一九 二二
(大 正一 一) 年に 誕生 した 龍谷 大 学の 教授 とし て、 真宗 学の 方向 性 を鮮 明に する 役割 を担 った
。ま た戦 時 下に お いて は、 本願 寺教 団 の執 行( 教学 担当
)と して
、教 団の 戦時 体 制を 推進 した 存在 とさ れる
。さ らに 戦後 に至 ると
、本 願寺 派教 学 のト ップ とさ れる 勧学 寮頭 を勤 める など
、 大正 から 昭和 にか けて の本 願寺 教団 に おけ る教 学上 の中 心的 人物 であ った
。 その なか で梅 原は
、本 願寺 派が 組織 した
「一 如会
」に 参加 し、 融和 運動 に積 極 的に 言及 する など
、社 会問 題の な かで 親鸞 思想
・真 宗教 学を 論じ た人 物 であ っ た。 従前 の研 究で も この 融和 運動 との 関係 性で
、し ばし ば注 目 され てい る。 し かし なが ら、 多く の研 究は 梅原 の社 会問 題に 対す る発 言だ け に関 心が 向け られ てお り、 梅原 の 思想 構造 にま で踏 み込 んだ 検討 は管 見 の限 り見 られ ない
。4
そこ で本 論で は、 まず 前提 とし て大 正期 に おけ る本 願寺 教団 の課 題と 対応
(理 念や 思想
)を 確認 し、 続け
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て、 梅 原の 社会 問題 に対 する 発言 や葛 藤、 およ びそ の評 価を 明瞭 にす る
。そ のう えで
、社 会問 題へ の対 応や 葛藤 の 背景 にあ る梅 原の 思想 構造 を分 析す るこ とに した い。 以上 より
、 大正 期に おけ る真 宗教 学の 動態 につ いて 明 らか にし たい
。 とこ ろで
、大 正期 は
、様 々な 親 鸞像 が文 学家 や思 想家 から 提出 され
、親 鸞の 生 涯・ 体験 が、 自己 の問 題関 心を 表 現す る材 料と して 用い られ た。 梅原 も 親鸞 の 体験 とい うも のを 一 つの 軸と しな がら
、真 宗教 学を 解釈 して い く。 そし てこ の親 鸞像 が、 梅原 の社 会 問題 に対 する 姿勢 を可 能に した と考 えら れる
。そ こで
、梅 原の 思想 構 造を 読み 解く にあ たり
、親 鸞像 に注 視し て分 析す るこ とに した い
。
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第一 節 梅原 真隆 とそ の評 価 では
、本 題に 移 る前 に、 梅原 真隆 の生 涯と 評価 につ いて 確認 して おこ う5
。梅 原は
、一 八 八五
(明 治一 八) 年に
、冨 山 県上 新川 郡寺 家村
(現
滑川 市) の専 長寺 に生 れる
。地 元の 滑川 高等 尋常 小学 校で 学び
、そ の後 冨 山の 徳 風教 校( 一九 一〇 年の 学制 改革 に伴 い
、越 中 仏教 中学 に改 称) に 進学
。一 九〇 一( 明治 三四
)年 に、 東京 高 輪仏 教中 学へ と編 入す る。 しか し、 高輪 仏教 大学 廃止 事件 運動 が おこ り、 梅原 も反 対運 動の スト ライ キに 加 わっ たこ とで
、退 学処 分を 受け た。 その ため
、福 井 第二 仏教 中学
(現
北陸 高校
)に 編入 する こと にな った
。 卒業 後、 一九
〇五
(明 治三 八) 年に は
、金 沢歩 兵第 三五 連隊 に一 年志 願兵 と して 入営 する
。 一九
〇七
(明 治四
〇) 年、 二三 歳に して 仏 教大 学に 入学 した
。そ の夏 に肺 結核 に かか るも
、快 復 し、 学長 であ っ た薗 田宗 惠を はじ め、 前田 慧雲
、松 島 善海
、鈴 木法 琛な どの 指導 を仰 いだ
。 その 後、 一九 一四
(大 正 三) 年 に仏 教大 学考 究院 を卒 業、 同校 講師 と なり
、 一九 一八
(大 正七
) 年に は教 授と なっ た。 仏教 大学 は、 一九 二 二( 大正 一一
)年 に、 大学 令に 基づ い た「 龍 谷大 学」 へと 昇格 す る。 梅原 も文 学部 教授 兼専 門部
(真 宗学
) 教授 とな った
。 しか し、 龍谷 大学 が 誕生 した 一 年後
、宗 教学 教授 であ った 野々 村直 太郎 が著 し た『 浄土 教批 判』 が異 安心 に問 わ れ、 奪度 牒に 処さ れる とと もに
、本 願 寺教 団 は野 々村 の教 授職 解 職を 求め た。 当時 の、 本願 寺派 の法
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規で は
、奪 度牒 の処 分を 受け たも のは
、同 時 に大 学 職を 解職 され るこ と にな って いた
。そ のた め、 宗派 とし ては 当 然の 対応 であ った
。だ が、 大学 の独 立 性、 研 究の 自由
、大 学自 治 の問 題な どか ら、
「解 職 の理 由な し」 とし て教 授 のみ な らず 学生 に よっ て 反対 運動 が 行わ れ た6
。そ の なか で
、梅 原 は『 親鸞 聖 人研 究
』で 学問 と して
、 野々 村の 学説
(特 に、 二種 深信
)を 批 評し た。 この 批評 に対 して 野々 村も 答 える など
、唯 一、 梅原 の 批評 が 浄土 教批 判論 争の なか で生 産的 であ っ たと い われ る7
。ま た この 事 件は
、「 教 権派 と自 由研 究派
」の 対 立へ と 発展 して いっ たた めに
、自 由研 究 を主 張し た 梅原 など
は「 反 教権 派」 とし て 見ら れた
。し かし なが ら、 梅原 ら 自由 研究 派の 主張 は時 代の なか で「 教 権」 を 再定 義す る営 みで あ った とも いえ る。 梅原 は「 真宗 学と は何 ぞや
」( 一九 二六 年四 月
)で
、次 の よう に 誕生 期の 真宗 学を 定 義し た。 少し 長文 であ るが
、 本願 寺派 の真 宗学 を象 徴す る一 文で も ある と 考え られ るた め、 引 用し てお きた い。 私 は真 宗の 信者 で ある
。そ の 意味 に於 て親 鸞聖 人の 宗教 思想 を全 人格 的に 肯 定し たい ので ある が、 それ と 同時 に、 更に それ が学 的に 肯 定せ らる るこ と を要 求す る ので ある
。こ こに 真宗 学の 研究 が企 てら れる の であ るが
、而 もそ の自 由研 究 によ って 親鸞 聖 人の 宗教 的 真理 はお びや かさ れる もの でな いと 思ふ
。若 し 万一 自由 研究 によ って おび や かさ れる やう な れば 親鸞 の 顕開 せる 事実 は未 だ究 竟的 でな いこ とに なる
。 こ の場 合に は公 明な る真 宗学 に よつ て親 鸞聖 人 の宗 教が 公 明に 批判 され たこ とに なる ので ある
。真 宗学 は 親鸞 が真 実で ある こと を証 明 すべ きた めの 御 用学 でな く ては
、親 鸞の 宗教 が果 して 真実 なり や否 やを
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公 明に 検討 する こと によ つて い よい よ公 開さ れ 成就 され る ので ある
。8
梅原 は、 親鸞 の宗 教 的真 理を 解 明す るた めの
「自 由研 究」 を主 張し た。 ここ に 誕生 期の
「真 宗学
」の 特徴 があ ると 指 摘さ れ る9
。前 章 で確 認し た 前田 慧 雲の 場 合、
「自 由討 究」 が 主張 さ れる も のの
、「 法主 の 安心
」 は対 象 外と され てい た。 しか し梅 原は
、「 教権
」 その もの の意 義を 問い
、「 自由 研 究こ そ教 権を 顕彰 する 正し い途 で ある
」と 論じ
、教 権の 本質 を「 教団 統 制の 権能
」で はな く、
「教 法の 権威
(宗 教的 真理
)」 と して 論じ たの で あっ た。 そし て、 自由 研究 を批 判し
、 自由 研 究を する なら ば教 団 から 出て 行け ばい いと する 論者 に対 して
、む し ろ自 由研 究に よっ て脅 かさ れる と考 えて いる の は、
「自 ら 教権 を侮 辱す る もの
」と 厳し く 批判 した ので あ った
10
。 野々 村事 件以 後、 学内 では
、梅 原ら 自由 派と
、教 権の 護持 を主 張す る教 権派 で 対立 が起 きて いた とい う。 こう し た状 況の 中で
、一 九二 九( 昭和 四) 年
、前 田慧 雲が 体 調不 良に よ る学 長を 辞表 する と、 その 後任 人事 をめ ぐ って
、事 件が 起き た。 再び 教団
(龍 谷大 学財 団) が介 入し
、弓 波 瑞明 を前 田の 後任 とし
、文 科省 の認 可ま で 取り 付け
、就 任さ せた ので あっ た。 それ に対 し、 梅原 真隆 を中 心 とし た教 授会 は、 財団 側と 協議 し、 教団 と 折合 をつ ける 形で
、弓 波を 後任 学長 と して 認 めた
。だ が、 この 教 授団 の本 願寺 教団 に対 する 態度 に、 学生 が 反発 し、 授業 のボ イコ ット や教 授会 に 対し て 不信 任ス トラ イキ な どが 行わ れた
。そ のな かで
、梅 原は
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七月 八 日、 森川 智徳 とと もに
、次 の声 明文 を 公表 し 辞表 を提 出し た。 我 等は 多年 職を 龍 谷大 学に 奉 じ 学園 の自 治と 研究 の自 由と のた めに 終始 微 力を 捧げ 来れ り 是れ やが て 真実 の教 義を 闡揚 し純 正な る 教団 を成 就す る 所以 なり と 確信 せる がた めな り 然る に宗 門の 要路 は却 つ て我 等を 目し て宗 門を 危く す る者 なり と誤 解 し今 回の 紛 擾亦 これ が結 果な りと 妄断 し 遂に あら ゆる 手 段を 弄し て我 等を 排除 せん と す 現 下の 状勢 此の 如し
我等 は最 早や 忍ば んと 欲し て 忍ぶ 能は ざる に 至れ り。 茲に 意を 決し て辞 表 を提 出す る所 以 なり
11
その 後、 梅原 は顕 真学 苑を 開き
、後 進の 育 成に 励ん でい っ た。 こう し た教 育活 動の 一方 で、 梅原 は『 中外 日報
』 での 執筆
・連 載、 さら には 個人 雑誌
『親 鸞聖 人研 究』 を刊 行す る など
、精 力的 に文 筆・ 研究 に取 り組 んだ
。 さら に、 梅原 は「 社会 問題
」に も積 極 的に 関わ って いく
。融 和運 動の 指導 者 や水 平 社の 面々 とも 関わ りを 持 ち、 本願 寺教 団が 組織 した
「一 如会
」 にも 評 議員 とし て参 加し て いる
。こ の点 につ いて は、 本章 の主 題と 関 わる ので
、そ の評 価を 含め 後述 する こと にし たい
。 一九 三六
(昭 和一 一) 年に は、 本願 寺派 特選 会衆 に選 ばれ
、そ の翌 年に は本 願 寺派 勧学 に命 じら れる
。一 九三 九
(昭 和一 四) 年に は執 行( 教学 担当
) とな り
、宗 教団 体法 や新 体 制へ の対 応に 迫ら れる なか で、 教団 の戦 時 体制 推進 の中 心人 物と して 活動 した
。 一九 四一
(昭 和一 六) 年に
、執 行を 辞 任す る。 敗戦 後は
、勧 学