治 前 期 の 真 宗 本 願 寺 派 と 島 地 黙 雷
はじめに 本章
では
、明 治前 期に おけ る本 願寺 教団
・ 教学 の 動向 を、 島地 黙雷
( 一八 三八
~一 九一 一) を視 角と して 検討 す る。 島地 は明 治初 年に おい て厳 しい 状況 に直 面し た仏 教を 立て 直し た人 物と して 知 られ る。 神道 復興 に立 つ明 治政 府 の神 仏分 離と 廃仏 毀釈 は、 仏教 界に 壊滅 的な 被害 を与 えた
。こ う した 国内 の宗 教状 勢に 対し
、島 地は 西洋 の 教状 を視 察し
、「 信教 自由 論」
「 政教 分離
論」 を論 じる こと
で、 明 治政 府の 神 道国 教化 政策 に抵 抗し た。 こう し た島 地の 活動 や言 論が 日本 の政 治と 宗教 の関 係構 築に 影響 を与 え たこ とか ら、 日本 型政 教関 係を 構築 した 人 物と して 評さ れて いる
。そ の ため
、島 地 研究 は「 靖国 問題
」「 伊勢 神 宮の 国家 護持 化」 とい った
、現 実 の政 教 関係 の課 題の なか で活 発に 行わ れて き た1
。そ うし た問 題関 心の もと で島 地研 究は 進め られ てき たが
、 二〇
〇
〇年 代に 入る と、 近代 日本 にお ける 宗 教概 念 の形 成を めぐ る研 究 上で
、一 つの 典型 例と して 取上 げら れる よ うに なり
、2
国内 外の 研 究者 か ら多 数の 成果 が挙 げ られ てい る3
。以 上 のよ うな 島 地研 究の 状況 を振 り
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返り
、 彼の 活動 を歴 史的 に評 価す れば
、政 教 分離 や 宗教 概念 など
、近 代 日本 仏教 の展 開に 大き な役 割を 果た した こ とは
、疑 いの ない 事実 であ る。 だが
、明 治前 期に おけ る島 地の 言 論や 活動 を窺 った 時、 彼が 目的 とし てい た こと は、 あく まで 教団 護持 にあ り、
「近 代 真宗 教団
」の 確立 とい う教 団行 政 上の 課題 や文 明 社会 に適 応 した
「 真宗 教学
」の 構築 であ った とい えよ う
。そ の ため
、明 治前 期の 島 地周 辺の 動き に着 目す るこ とで
、明 治前 期 の本 願寺 派教 学に つい て明 らか にで き ると 考 えて いる
。 そこ で第 一節 では
、 島地 黙雷 の 幕末 維新 期か ら明 治前 期の 活動 につ いて
、先 行 研究 を参 照し つつ
、改 めて 整理 す る。 つづ く第 二節 では
、近 年の 島地 研究 の中 心で ある
「宗 教」 概 念の 受容 につ いて 焦点 を当 てる
。こ こで 示 され た「 宗教
」概 念は
、日 本型 政教 関 係構 築 の役 割を 果た し、 そ の後 の「 宗教
」の 枠組 みを 規定 して いっ た だけ でな く、 島地 が提 示し た宗 教の 本 質や ア プロ ーチ は、 その 後 の仏 教界 の議 論の 下地 をな すも ので あっ た とい える
。こ の宗 教論 につ いて も、 ひ とま ず 従来 の研 究成 果を 参 考に して
、問 題点 や課 題に つい て示 すこ と にし たい
。そ のう えで 第三 節で は、 一八 七八
(明 治一 一) 年に 起 きた
「島 地黙 雷異 安心 疑義 事件
」に つい て 検討 して いく
。 島地 の宗 教論 は、 確 かに その 理 論や 研究 方法 から
「教 学近 代化
」の 前提 をな す もの であ った
。 しか し、 島 地の 考 えは
、教 団に おい て容 易に 受け 入れ ら れた わけ では なく
、異 安心 疑義 とい う 形で 教団 との 摩擦 が生 じ たの で あっ た。 すな わち
、当 該期 の真 宗教 学に おけ る「 伝統 と近 代」 の 問題 が、 島地 の異 安心 疑義 とし て現
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れた と いえ よう
。そ こで
、島 地の 異安 心疑 義 事件 を 分析 する こと を通 し て、 明治 前期 の教 学に つい て考 察す る。 そ の際
、異 安心 疑義 事件 に前 史が あっ た こと に 注目 した い。 従来
、こ の異 安心 疑 義は
、一 八 七九
(明 治一 二) 年に 起き た「 寺務 所東 移事 件
」と の関 係性 から
、教 団史 の文 脈 で論 じら れて きた
。た だし
、東 移事 件 以前 から
、島 地の 教学 理解 はす でに 問 題視 され てい た とい われ
、 島地 が 教団 行政 にお いて 重役 であ った ため 表 面化 す るこ とな かっ たと い われ る。 だが
、こ の前 史を 踏ま え、 島地 異 安心 疑義 問題 を捉 えれ ば、 そこ には
「 伝統 と 近代
」と いう 教学 史 上の 問題 を窺 うこ とが でき る。 以上 より
、 教団 史の 視角 から の研 究成 果に 教学 上 の論 点を 踏ま え、 総合 的に
「島 地黙 雷 異安 心疑 義事 件」 を分 析 する こ とで
、真 宗教 学の 近代 化が どの よう な 課題 を 抱え て、 歩み を始 め たか 見て いき たい
。
※な お
、本 章で 用い た「 島地 黙雷 異安 心疑 義 事件
」の 史料 を付 録と して 末尾 に翻 刻添 付し てい る。
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第一 節 明治 初頭 にお ける 島地 黙雷 の活 動と 政教 関係 第一
項 幕末 維新 期に おけ る島 地黙 雷と 教団 改革 運動 島 地黙 雷 は、 一 八三 八( 天 保九
) 年に
、 周防 国佐 波 郡専 照 寺第 一 一世 住職
4
であ った 清 水円 随の 四 男と し て生 ま れる
。一 八四 九( 嘉永 二) 年一
〇月
、 一一 歳の 時、 現 在の 山口 市 徳地 町堀 にあ る妙 蓮寺 に養 子と して 入寺 す る( やが て 離縁 され る
)。 その 後、 神龍 に 学び
、一 八 五七
(安 政 四) 年、 九州 遊 学を 志し
、肥 後( 現 在・ 熊本 県
)光 照寺 累世 黌の 原口 針水 のも とで 宗 学を 修め た。 原口 は、 本山 の出 役と し て、 長 崎駐 留の チャ ニン グ・ ム ーア
・ウ イリ アム ス宣 教師
、そ の後 任 のグ イ ド・ ヘル マン
・フ リ ドリ ン・ フェ ルベ ック 宣教 師の もと を訪 問 する など
、キ リ スト の教 えに 通暁 して い た人 物で あ り、 島地 の活 動に 影響 を 与え たこ とが 推察 され る。 また 累 世黌 で、 教団 改革 を共 に行 う赤 松連 城 と出 会 うこ とに なる
。赤 松 は、 肥前 教宗 寺栖 城の もと で宗 学を 学ん で いた
。栖 城が
、三 業派 糾弾 のた めに 本山 から 肥後 に派 遣さ れた 際
、世 話役 を務 めた のが
、曇 龍門 下の 後輩 で あっ た原 口で あっ た。 その 交流 から
、 島地 は赤 松と 出会 った
。そ こで 対論 を交 わし た両 者は 互い を認 め、 赤松 の 導き によ っ て後 に 島地 も 栖城 門下 に 入門 し たと い う5
。一 八 六一
(文 久 元) 年
、島 地 は九 州遊 学 を終 え る。 この 頃に なる と、 日本 の情 勢は 慌 しく なっ てい く。 一八 五八
(安 政五
)年 の日 米修 好通 商条 約を 皮切 り に欧 米諸 国と 通商 条約 が結 ばれ てい く。 だが
、 それ ら
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は不 平 等条 約で あっ た。 一連 の条 約に おい て
、日 本は
「野 蛮国
」と して 扱わ れ、 経 済的 な不 利益 を被 るの み なら ず
、植 民地 とし て国 家の 独立 を失 いか ね ない 事態 に見 舞わ れた
。こ うし た国 家的 危機 を乗 り越 える ため には
、文 明 国の 体裁 を 整え る必 要が あっ た。 憲法 をは じ めと した 西洋 にな らっ た司 法制 度の 整備 だ けで なく
、 西洋 的 な文 化や 価値 観を 広く 身に つけ るこ と が求 めら
れ、 そ の一 つ とし
て、 キリ ス ト教 の受 容も 強い られ た6
。 この よ うな なか で、 本願 寺教 団も 改革 を迫 ら れた
。 一八 六三
(文 久三
) 年二 月、 本 願寺 派第 二一 世法 主広 如が
、尊 王攘 夷の 直喩 を 諸国 門末 に発 した
。そ こで は、
「安 穏 に令
二寺
一務 候事 は、 全 朝廷
・幕 府之 御仁 政に 候得 ば御 国 恩之 程を 思ひ
、徒 に可
二
傍観
一時 節に は有 間敷
、為
ニ
国家
一、 寺 門相 応 之勤 王 報国 に は可
レ竭
二心
一力
」7
と 説か れ
、本 願寺 は 倒幕 派 の立 場 をと る こと を 明ら か にし た。
『本 願寺 史』 では
、こ の直 諭の 背景 に、 超 然の 仲介 で広 如に 召さ れた 月性 の『 仏法 護国 論』 に よる 主 張が あり
、「 本願 寺と 維新 政権 との 関 係に は長 州藩 の僧 侶が 介在 して いた
」と 指 摘さ れて いる
。8
そ の なか で 島地 は、 積極 的に 改革 運動 に加 わり
、 先導 す る役 割を 担っ てい く
。一 八六 六( 慶応 二) 年、 大洲 鉄然 が論 じ た「 長坊 二州 真宗 僧侶 風儀 改正
」に 賛 同し
、 藩主 に建 議書 を提 出
。さ らに 改正 局を 立ち 上げ
、人 材育 成に 取 り組 んだ
。そ こで は、 宗学 のみ なら ず キリ スト 教(
『闢 邪集
』 や『 破邪 集』
) につ いて も教 授し てい た とい う
。 柏原 祐泉 によ ると
、幕 末 期の 護 法論 は、
「護 国」 と「 防邪
」の 一体 に特 徴が あ った
。当 時の 護国 思想 は、 西
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洋諸 国 に対 する 夷敵 思想 と表 裏を なし てお り
、仏 教者 はキ リス ト教 の流 入と 夷敵 思 想を 結び つけ た。 その た め、 護 法意 識の 中心 には
、キ リス ト教 に対 する 護国 思想 との 関係 があ り
、先 の月 性の 護国 意識 の根 幹に も、 この 問題 意 識が あ った と指 摘 され て いる
。9
こ の柏 原 の研 究を 受 けた う えで
、 岩田 真美 は
、月 性 は「 護法
・ 護国
・ 防邪
」を 実現 する ため の前 提と して
、 仏教
(教 団) を改 革す る必 要性 を主 張 して い たと 論じ た。 広如 の直 諭 のも とに なっ た、
『仏 法護 国論
』の 前 段階 には
「 護法 意見 封事
」と い う著 作が あり
、そ こで は「 今後 世 襲に よ らず
、門 末か ら有 能な 人材 を登 用す る こと
、 下情 を理 解す るこ と
、不 急の 土木 工事 を止 め、 倹約 に努 める こ と、 賄賂 や請 託の 道を 排す るこ とな ど を要 求し
、こ れら を改 革し てこ そ門 末 が一 丸と なっ て「 夷狄
」 を防 ぎ
、「 皇国
」を 護 るこ とが でき ると 主張 され
」て いた
。し かし 岩田 によ ると
、こ れら の教 団改 革に 関す る 事項 は
、後 に出 版さ れた
『仏 法護 国論
』で 削 除改 変 され てい ると いう
。 ただ し、 こう した 月性 の仏 教改 革論 が大 洲 や島 地、 赤松 らの 改革 運動 に引 き継 が れて いる と指 摘し てい る1
。0
幕末 の動 乱が おさ まり を見 せ始 めた 一八 六八
(慶 応 四) 年、 島地 らは
「建 議書
」を 提出 し、 本願 寺改 革に 動き 出 す。 その 内容 は、 岩田 が論 じた よう に
、月 性の 改革 案に 類似 し、 門末 から の 人材 登用
( それ に伴 う「 長 御殿
」の 改 組、 坊 官制 度 の廃 止) と財 政面 の改 良 が強 く主 張さ れて いる
。そ うす るこ とで
、「 排仏 毀 釈之 徒類 の蔓 延」 や「 邪徒 教諭
」と いっ た課 題が 解決 でき ると 論じ てい る
11
。 さら に「 建議 書」 で は、
「人 材 教育 之 御建 策
」の 必要 性が 示さ れて いる よう に、 島地 の課 題 とし て、
「人 材育 成」 が改 革 にお ける 重要 な位 置づ けに