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環境文学からみたカネミ油症と台湾油症――矢野トヨコ著

ドキュメント内 環境保全における文学の貢献 (ページ 133-146)

『カネミが地獄をつれてきた』 (1987 年)と陳昭如著『被遺 忘的 1979:台湾油症事件 30 年』 (2010 年)

第1節 矢野トヨコの生涯

矢野トヨコ(1922-2008)は、86 年間の生涯の後半をカネミ油症事件の被害者として過ご した。1972 年 3 月頃から未認定患者の掘り起こし運動を始め、以来、1973 年油症患者グル ープを組織した人物として知られるようになった。

彼女は、1922 年 9 月 15 日、愛媛県伊予郡上灘町大字高岸に生まれた。家の事情で梅田高 等小学校を 1 年で中退し、機織り工場で働き始め、16 歳の夏に大阪に出た。住み込み奉公 を経て工場の炊事婦をしていた 18 歳の時、同郷だった最初の夫矢野喜代松と結婚した。翌 年 1942 年に長女、1943 年に長男を生んだ。1945 年太平洋戦争中は疎開先の愛媛県今治市 で空襲に遭い、夫と子ども共に焼き出された。その後、夫の故郷ではよそ者として厳しい生 活を強いられた。矢野トヨコは「そこは畑は段切りで飲み水にも事欠いて担うて運ばなくて はならないという程の農家でした。それはとても辛い仕事でしたが、辛い私は身体が人一倍 丈夫で病気一つせず頑張りました。」(矢野 1987:30)と述べていた。

戦後 1949 年は福岡県に移り、大牟田市三池をふりだしに筑豊の小さな炭鉱を転々として、

苦労の中で 4 人の子どもたち(次男 1950 年、三男 1952 年出生)を育てた。筑豊京之上炭鉱 では 1957 年春から 101 日間の大争議を労組の主婦会長として乗り切ったものの、翌年春に 夫を落盤事故で失った。その後、労組の青年部長だった矢野忠義(旧姓:柳澤)と再婚した。

福岡県北九州市に住んでいた矢野一家は、1962 年 12 月頃カネミ油を食べ始めた。当時の 状況について、彼女は次のように述べている。

別にたのんだわけではないのですが、米屋が持ってきて「これが一番いい」といっ たからです。値段は、三百八十円でした。その当時私は働いていたので、油とかは買 ってさげてこられず、いつも米と油をたのんでいたのです。昭和三十八年の正月、フ ライや、から揚げをして沢山食べました。正月の松の内が明けた頃、身体一面に紫色 に湿疹ができました。胸の血管が出ているようなところ、脇腹のところ、股のところ などです。背中も腹も一杯できました。それがものすごくかゆくて、何の食べ合わせ だろうかと思っていました。(矢野 1987:31-32)。

彼女は、家族を含めて 1963 年頃から発症したことを 1973 年春頃に訴えた。なお、カネミ

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油症が広く社会に知られるきっかけになったのは、医師によるものではなくて、1 人の患者 が保健所に届け出たことによる世の明るみに出た。1968 年 10 月 10 日朝日新聞(西部版)

の夕刊で初めて「正体不明の奇病が続出」と報道されて、カネミ油症事件が広く社会に知ら れるようになった。1968 年 10 月 10 日はカネミ油症正式発覚日として認識されている。

しかし、1967 年以前に発症した例があることは 1972 年頃から何度か報告されていた。た とえば 1973 年 10 月には医師と被害者・支援者により 1968 年以前に 18 人の発症が明らか にされたと報じられ、計 18 人のうち認定患者が 6 人、未認定患者が 12 人で、最も早い発症 例は 1961 年北九州市での発症である。また、1973 年 10 月下旬には山口県で 1968 年 2 月以 前に 27 人が発症したと報じられた。

一方、1954 年、鐘淵化学工業高砂工場でカネクロール(PCB)の製造が開始された。カネ ミ倉庫本社工場では 1961 年 4 月米ぬか油製造を開始し、鐘淵化学工業の勧めにより PCB を 熱媒体として利用した。そして、増産のため脱臭工程の無理な設計変更を繰り返したことで 何度も事故を起こしていた。

上記の矢野トヨコが述べている内容は、初期の発症時期を確認するための貴重な記録で はないだろうか。

1963 年、矢野トヨコの家族にさまざまな症状が出始めた。しかし、当時カネミ油の汚染 を知らず、ずっと食べて続けていた。1968 年 10 月 10 日から、油症事件が発覚してまもな く彼女は検診をうけ、同年 12 月に油症患者と認定された。しかし、他の家族はしばらく認 定されなかった。なお、三男は 1971 年油症に認定。夫矢野忠義は 1973 年油症に認定。長男 と次男は 1974 年油症に認定。

1969 年 1 月頃、矢野トヨコは北九州地区カネミライスオイル被害者の会に入会した。そ の後、未認定患者問題に関心を持ち、1972 年の夏頃から未認定患者の掘り起こし運動に取 り組み始めた。1973 年 6 月から「油症患者グループ」の代表として被害者運動の先頭に立 った。1975 年に代表を夫に譲ってからも相談役として活躍していた。1978 年に乳ガンが見 つかり、左乳房を全摘出する手術を受けたことで、運動の第1線から一度、退いた。それで も、夫が代表を務めた「カネミ油症未訴訟対策委員会」「油症医療恒久対策協議会」などの 会合や集会には参加し、各地の被害者の相談にのっていた。その後、矢野トヨコは名前も顔 も明らかにして、様々な場で「患者が教科書だ」「被害の実態から出発しなければならない」

「被害者が自ら声を上げなければ抹殺される」などと書き、発言した。特に、1983 年 9 月、

矢野トヨコと写真家河野裕昭らは、台湾を訪問し、油症に関係がある学校と病院などで被害 者、支援者と交流した。その経験に基づいて書いた「台湾旅行――カネミ油症患者と台湾多 氯联苯(PCB)受害者」(1983 年 12 月 12 日)は、台湾油症の当事者との交流だけではなく、

台湾の風景・食事などにも言及されている。これは、一番最初の台湾油症に関する日本語で 書かれた文献である。

2001 年、矢野トヨコ夫妻の功績に対して田尻宗昭基金から田尻賞が授与された。

一方、矢野トヨコは 1980 年頃から「毎日文化センター」の文章教室に通い始める。カネ

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ミ油症の体験を書き遺しておこうと考えたからである。その初期の座談会で彼女は次のよ うに自己紹介した。

私は立派な教育を受けていません。貧しくて義務教育すれすれです。泥の上を這いず り回って生きてきた人間です。そんなドロドロした生活体験を書き遺したいと思い、文 章を習いに来ました。(矢野トヨコ追悼文集刊行会 2010:3-4)。

矢野トヨコは文章教室の同人誌に身近な随想、回想記、自伝的創作など様々な文章を書き、

自らの作文能力に磨きをかけた。さらに、カネミ油症について書いた千枚以上の原稿を元に、

1987 年 11 月に『カネミが地獄を連れてきた』を出版した。

上記は、以下の書籍と記事を参考にしている。

1、矢野トヨコ著『カネミが地獄を連れてきた』(葦書房、1987 年)

2、矢野トヨコ・明石昇二郎「個に生きる(1)矢野トヨコ 国にだまされ続けた人生でし た」(『金曜日』9(6)30-35、2001 年)

3、矢野トヨコ追悼文集刊行会編『矢野トヨコ かく生きたり――あるカネミ油症被害者の 歩み』(アットワークス、2010 年)

4、矢野忠義・矢野トヨコ著『カネミ油症、苦悶の記録――地獄と向きあって 44 年』(書肆 侃侃房、2012 年)

第2節 『カネミが地獄を連れてきた』と『被遺忘的 1979:台湾油症事件 30 年』

からみた油症事件

『カネミが地獄を連れてきた』は、カネミ油症被害者矢野トヨコが、自分の経験をもとに、

カネミ油症事件を一般読者向けに書いた記録性の高いノンフィクションである。

この作品は、矢野トヨコ一家がカネミ油を食べた前後の生活、特に未認定の被害者の掘り 起こし運動、弁護士との意見対立、乳がんの発病などの問題に真正面から取り組み、日付入 りで書かれている。

『台湾油症事件 30 年』は、台湾作家陳昭如が関連文献資料を整理し、当事者及び専門家 にインタビューして、ジャーナリストの視点で、台湾油症の全貌を初めて明らかにした一般 読者向けのルポルタージュである。

世界中で、PCB・ダイオキシンを含む食品による大規模な健康被害が発生したのは、日本 と台湾だけである。1968 年の秋、福岡県北九州市に始まって西日本一帯に及んで発覚した

「カネミ油症」事件から 10 年目の 1978 年末、台湾の台中県及び彰化県でも発症した例が 明らかになった。それはカネミ油症とほぼ同じような症状を有するものであって「台湾油症」

と言われる。

なお、カネミ油症事件については、多数の作品がある。例えば、油症被害者の紙野柳蔵著

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『怨念の民 カネミ油症患者の記録』(教文館、1973 年)、写真家である河野裕昭の写真集

『カネミ油症-河野裕昭写真報告』(西日本新聞社、1976 年)、佐々木博子の小説『化石の 街』(労働経済社、1977 年)、カネミ油症被害者支援センター編『カネミ油症 過去・現 在・未来』(緑風出版、2006 年)などである。それに対して、台湾油症事件についての作 品は陳昭如著『台湾油症事件 30 年』だけである。

日本全国で約 1 万 4,000 人が被害を訴えたが、認定患者数は 2018 年 3 月 31 日で 2,322 人である。うち、相当数が既に死亡している。認定されない被害者も多く出て、裁判により 認められた仮払金も返還を監督され、被害者は追い詰められた。しかし、未認定患者及び次 世代患者へのまともな対応もないままである。仮払金返還免除特例と救済法が成立したが、

原因企業であるカネミ倉庫と鐘淵化学工業(カネカ)と国は依然として問題解決に消極的で ある。油症を「史上まれにみる人権侵害事件」とした医師の故・原田正純氏は、この人権侵 害が無視されるなら「成熟した民主的国家に値しない」と断じている(長崎新聞 2018 年 1 月 12 日)。さらに、新たに油症認定された人たちや未認定被害者の救済は進んでいない。カ ネカについての責任、PCB 汚染の現状についてなどの問題も山積みしている。それについて の書籍や記事は無数にあって、油症を研究する学者は多いが、意見が多様である。政府側と 被害者側は対立し続けている。

台湾油症の場合は、公表された限りでは台湾油症として登録した被害者は 2,000 名以上 に及ぶとされている。台湾油症事件発生後、原因企業は全部破産した。さらに、関係者は刑 事罰を科された。台湾の場合は、認定基準がなくて、患者自身の申し出による登録制度であ る。政府は油症被害の存在は認めたが、具体的な登録の目安となる症状による診断基準を定 めなかった。自らの症状などを根拠として申請し、油症患者として登録する。これは「登録 制度」と呼ばれる制度である。筆者が台湾油症被害者、国民健康署、研究者、支援団体から の聞取り調査の結果、現在の登録制度は十分とは言えないが、妥当な制度として各方面で認 識されている。さらに、台湾油症の場合は、学者の対立の意見の違いは少ない、日本よりそ れほど表面化していないため、台湾油症に関する書籍が少ない。

『カネミが地獄を連れてきた』は、主人公は矢野トヨコ一人である。一人称によるノンフ ィクションである。全文は彼女の視点から 1987 年までのカネミ油症に関することを述べて いる。

内容は、矢野トヨコがカネミ油を食べた以前の生活、すなわち彼女の自伝から始まる。油 を食べる前、彼女は辛い生活の中で、「身体が人一倍丈夫で病気一つせず頑張りました」。し かし、カネミ油を食べた後、彼女は次のように語っている。

私は三十七年十二月に、初めて買ったカネミライスオイルで三十八年一月に発症し ていた。以来、吹き出物、目ヤニ、膀胱炎、心身の不安感、頭痛などに悩んできた(矢 野 1987:15-16)。…セールスをやってきましたから、他所に行って話をしなければな らないのに、お客さんと話が全然かみ合わないのです。何か、お客さんが遠いところに

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