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現実の生活相-文明生活とその堕落

第1節 『探究』における生活の歩み

本節では、ペスタロッチーの『探究』を中心としながら、そこで展開されている「生活 の歩み(der Gang des Lebens)」について考察を加えることにする。

良く知られているように、『探究』は、多くの研究者達を魅了し、多様な解釈が為され てきた。シュプランガー、リット(Theodor Litt, 1880-1962))、バルト等の研究が特に著 名であるが、こうした先行研究においては、どちらかと言えば、哲学や政治の面が強調さ れる傾向にあり、教育者の視点は背景に退きがちであった。果たして『探究』は、オスト (Heinrich Ost,1935-)が評しているように、教育者に対して「今日まで閉じられた書物 (das bis heute verschlossene Buch)」)に過ぎないのであろうか。

確かに『探究』では、教育への直接的な言及が豊富とは言えず、第一義的には包括的な 人間研究の書、人間学と見なされる。しかし、人間学が人間とは何か、人間はどこからや って来て、どこへ行くのかを問う理論であるとすれば、根本的に「人間形成の理論」をそ の内に含んでいるはずである)。そして、そうである限り、ペスタロッチーの教育思想の 変遷の中での『探究』の位置が問われるべきであろう。

近年このことに注目したレオナルディ(Axel Leonardy)は、『探究』を「個人の中にある 人間性への形成の条件を厳密に吟味したもの」)と指摘している。同様にレーヴィッシュ (Dieter-Jürgen Löwisch,1936-2018)は、『探究』を「行為能力の形成を自己課題にする教 育的関わりのための複合的な教育的人間学」)と位置づけ、行動主義的な観点から『探 究』を解釈の対象にし、心理学者コールバーグ(Lawrence Kohlberg, 1927-1987)の道徳 教育論との類似性を指摘している。

他方、エルカースは、『探究』を「近代教育学の主要作品」として位置づけ、他者から の援助としての教育の視点から、この書を論じている)。しかし、エルカースの論述に は、問題が潜んでいる。それは、専ら彼は、ペスタロッチーの語る「自然の歩み(der

Gang der Natur)」に注目しているが、それを「生活の歩み」と同一視していることであ

る。エルカースは「自然の歩み」について、哲学者スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632-1677)の「神即自然(deus sive natura)」の思想に準えた解釈を施し、神によって敷かれた 軌道に働きかけようとする教育の矛盾、無力さが、『探究』の中に見られると断定してい る)。ところが、このエルカースの論述は、『探究』の人間形成論について必ずしも適切

なアプローチを行っているとは言えない。なぜなら、「生の歩み」として描かれている

『探究』の人間形成の独特のあり方を、エルカースは見逃しているからである。

それでは、ペスタロッチーは、『探究』の中で「生の歩み」という概念を用いて、いか なる人間形成論を唱えているのであろうか)

1. 生活の歩みと三つの状態

実際、ペスタロッチーは『探究』本文・巻頭の主題設定の中で、書名に記されている

「自然の歩み」ではなく、一転して「生活の歩み」という言葉を用いている。彼は、「私 はかつてあったような私の生活の歩みが私から作り出したものが何かを知りたい。私は、

今あるような生活の歩みが人類から作り出すものが何かを知りたい」(PSW12.Band, S.6.)と述べ、人間が過去にあったところのもの、人類が現在あるところのものが「生活 の歩み」の所産であるということを示し、人間の成長や発展がいかにして行われるのかを 知るためには、「生活の歩み」に目を向けなければならないことを明らかにしている。

ところが、これまでの『探究』解釈では、エルカースのみならず、シュプランガーやリ ットらも、ペスタロッチーが本論の主題設定の箇所で、「自然の歩み」に代わり、一転し て「生活の歩み」という言葉を使用し、しかも、その後もこの言葉を用いていたという事 実には、なぜか殆ど注目していない。

確かにペスタロッチーは、『探究』の中で、この「自然の歩み」と「生活の歩み」の二 つの語句に関して厳密な概念規定をしているわけではない。しかし、この二つの語句は、

文脈によって互いに重なり合う意味をもつ場合も確かに見られるが、根本的な意味内容の 違いを有している。

そもそも『探究』では、Naturの概念は、人間が生まれ落ちたときから既に備えてい る本性・素質を指し、その意味で遡って変更することが不可能の内在的なものを示す概念 として使われている。従って「自然の歩み」という言葉では、まず生まれもったものを基 礎として、そこから人間の成長が展開することが前提されており、このことから、この概 念は「好意(Wohlwollen)」や「動物力(Thierkraft)」の展開に絡めて使用されているので ある (vgl.PSW12.Band, S. 8&15.) 。

しかし、第二に「自然の歩み」には、理想や理念へと向かって行く必然的で不可避の道 筋という意味も込められている。ペスタロッチーが『探究』で「自然の高き歩みを、時代

と述べ、また『ゲルトルート児童教育法』で一層明確に、「人類の発展における自然の歩 みは不変である」(PSW13.Band, S.320.)と語ったのは、まさにこの意味からである。そ れは、まさにアドル・アミニ(Bijan Adl-Amini, 1943-)が、「自然の歩み」には「自然の法 則性と自然の必然性(Naturgesetzmäßheit und Naturnotwendigkeit)」の特徴があると 見なしている通りである)。ペスタロッチーは『探究』のみならず、多くの著書において

「合自然性(Naturgemäßheit)」の教育を主張しているが、それについては、改めて第5 章第1節で論ずることにする。

ところで、『探究』のNatur概念には、両義的な性質が付与されている10)。それは、

『リーンハルトとゲルトルート』第1版第3部で描写された「弱いけれども善良な人間 (ein schwacher aber ein guter Mensch)」(PSW3.Band, S.24.)の特徴と一致している。人 間本性それ自体は不変であるものの、何かしらの外的な影響次第で「善」から容易に逸れ て行く「根本的弱さ(Grundschwäche)」 (PSW12.Band, S.103.)を抱えている。つまり

は、Naturの性質自体に既に法則から逸脱する可能性が潜んでいるものの、「自然の歩

み」は、理念・理想へ向かう方向性や法則性を示している概念と捉えるべきなのである。

ところが、このNatur概念に対して、「生活」という概念は、単に本性・素質の所在を 表しているだけではない。すなわち、「生活」は本性・素質の現実的で実質的な展開、

1807年の『教育新聞』(Journal für Erziehung)で定義されているような、人間と環境と の対決、主体と客体との交互作用という意味内容をもっている(vgl.PSW17B.Band,

S.55f.) 。そしてまた「生活」は、「運命であるように見える自由と偶然の混合(Gemisch

von Zufall und Freiheit)」(PSW12.Band, S.57.)の結果でもある。従って「生活の歩み」

は、必ずしも理念や理想へ向かう保証はない道筋である。そのことは、ペスタロッチーが

『探究』の中で堕落へと向かう人類の実態を克明に描写していることからも見て取ること ができる。つまりは、『探究』の人間形成論では、エルカースが標的としているような、

必然的な目的や、そこに向かう必然的な道程としての「自然の歩み」のみが語られている のではない。むしろ、「自然の歩み」では言い表しきれない認識、つまり必ずしも理念や 理想に向かうとは限らないというペスタロッチーの現実認識が、「生活の歩み」という言 葉を通して表現されているのである。

ところで、こうして「生活の歩み」という視点から、『探究』の人間形成論を捉えた場 合、次のことが明らかになってくる。それは、人間の自己形成は環境と切り離された形で は図式化できず、また人間は予め理性的な社会、ないし理性の実現へと向かいつつある社

会の中に置かれるとも限らない、ということである11)。むしろ、形成されるべき人間 は、乳児から成人、老年期に至るまで、その年齢を問わず、既に「権力(Macht)」、「服従 (Unterwerfung)」、「支配(Beherrschung)」、それどころか「暴動(Aufruhr)」さえも渦巻 く社会の中に投げ入れられていること、それらのことが、個人が生まれ落ちた時から既に 深く関わっているという前提のもとに、人間形成論が展開されているのである。そして、

その論調は、やがて続く『メトーデ』や『基礎陶冶の理念について』で描かれた人間形成 のあり方よりも、一層深刻な現実の様相を呈している。

世界に存在する悪や不正のただ中で、人間が何を眺め、その中でどうやって善をつか み、いかに自己を作り上げて行くのか、それを探り、その視点を教育者に示すことが『探 究』を執筆したペスタロッチーの意図であったのではなかろうか。必然的に理想・理念に 導かれるとは限らず、却って人間形成には多くの隘路が潜んでいるというのが現実の姿で ある。こうした必ずしも平坦ではない道のりを明らかにするために、彼は敢えて「生活の 歩み」という叙述を用いたのではないかと考えられる。

ところで、ペスタロッチーは「私の生活の(meines Lebens)」(PSW12.Band, S.6.)と語 ることによって、この「生活の歩み」の中に、他者では肩代わりすることのできない経験 の蓄積や、個別的な軌跡の意味を込めている。しかし、それは単純な知識や認識の結果で はない。それこそ、ここで語られている「生活の歩み」とは、人間が投げ入れられた環境 の真っただ中にあって、当事者として、自己の総力を結集して生き抜こうとする活動の展 開を意味しているのである。

また、こうした各個人の経験の軌跡としての「生活の歩み」は、各人にそれぞれの真理 感覚を生じさせる。ペスタロッチーは、「人間の姿と近づきつつある国家崩壊の姿は私に とって完全に真理である。すなわち、それは私の個性の眼にはそう映り、違ったようには 映らない。しかし、そのためにまたそれは、私の個人的な発展自身の特徴が与えた刻印を もっており、従って完全な一面性を伴っている。そしてその一面性をもっているがゆえ に、世界の若干の対象は、私の生活の歩みの中で多くの魅力を帯び、他の対象には多くの 嫌悪感が注がれる」(PSW12.Band, S.57.)と述べて、その人なりの真理感覚が「生活の歩 み」を通じて形成されて行くことを示している。

しかし、そうであるからと言って、そうした個人の「生活の歩み」は、各個人にのみ妥 当する意味内容しか持ち得ないのではない。すなわち、第二に「生活の歩み」は、個人が

誰しもが歩む一定度の発展の方向性をも照らし出す。各個人が辿る「生活の歩み」は、確 かに一回的であるが、人間にとって共通する、陥りがちの道筋―それは可能性ではある が、必然性ではない―が見られるということが、ペスタロッチーの主張である。

彼は、「私は本来、私自身の中にある真理、つまり私の生活の経験が私を導いた単純な 結果より、他の何かを知ったり、何かを求めたりすることはできないし、またそうすべき ではない。しかし、まさにそれゆえに、この探究は、大部分の私の種族に対して、この世 界の事物を見つめる彼らのやり方に最も近い解明、つまり彼らの最も本質的な問題につい ての解明を与えるであろう」(PSW12.Band, S.6f.)と述べて、個人の「生活」の展開をよ く吟味すると、その基底には人間が歩んで行く道筋との一定度の共通点が見られるもので ある、という立場を表明している。このような意味で、「生活の歩み」は、個人の成長で あると同時に、人間が自己を形成する際に辿るであろう、大凡の道筋を照らし出す。

また第1章第3節で論じたように、ペスタロッチーは『探究』において「生活の歩 み」を構成して行く重要な概念として、「自然的状態(der Naturstand)」、「社会的状態 (der gesellschaftliche Zustand)」、「道徳的状態(der sittliche Zustand)」の三つを挙げて いる。そして彼は、三つの「状態」の関係を、人間の幼児期、青年期、成人期の生き方に 近似していることを示唆して、次のように述べている。すなわち、彼は「感覚享受と社会 的権利と道徳性それぞれの関係は、幼児期と青年期と成人期の関係にあると考えられる」

(PSW12.Band, S.106.)と述べ、この三つの状態が発展の段階の順序に即応していること を仄めかしている。それは確かに「個人の成熟の段階(Phasen der individuellen

Reifung)」12)を思わせる。しかし、シュール(Johannes Schurr,1934-1994)が指摘する如 く、必ずしも「人間遺伝学的観点」と一致しているわけではない13)。そしてまた、三つ の「状態」の記述は、それぞれ自然、社会、道徳のあり方を説明しているものでもない。

ラング(Adalbert Rang, 1928-2019)も指摘するように、社会の中には、「道徳的状態」に 近づきつつある社会もあれば、「自然的状態」に限りなく近い社会もあって、人間社会の あり方は、「社会的状態」の記述では説明できないからである。むしろ三つの「状態」

は、現実の社会の中に現れる三つの要素と考えることもできる14)

このように『探究』の三状態は、図式化できる程単純に表現することのできない意味内 容を伴っている。三つの「状態」は、個人の成長の一断面であり、人間一般の成長の一時 期でもあって、また個々の人間社会の段階や、人類の歴史の位置を示すものと解すること

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