平成21年3月16日 当時の東京芸術大学邦楽科日本舞踊専攻の准教授であった三代目 花柳寿美の退任記念公演において、初代花柳寿美の代表作≪吉田御殿≫が再演された。
この演目は初代花柳寿美の代表作であり新舞踊運動の中でも画期的な作品として舞踊史 に名をとどめていると同時に、作曲家教授であった矢代秋雄が編曲している。舞踊劇≪吉田 御殿≫は管弦楽のために描かれた作品であるが、この中の「荒武者の踊り」は矢代の手によ って、ピアノ用に新たに編曲されたものであり、エネルギッシュな作品となったようだ。
≪吉田御殿≫はもともと橋本國彦作曲であるが、第二次世界大戦で譜がなくなってしま った。当時テープも何もない中で花柳宗岳が口三味線のように記憶しており、それを東京芸 術大学作曲家教授矢代秋雄に口述のメロディーで伝え、それを音楽化して復活させたので ある。初代花柳寿美の代表作は戦争で失われながらも、花柳宗岳の手で復活し、さらに三代 目花柳寿美の再演により、現代に生きた作品となったと言える。
宗岳は、初代寿美の裏方として働き、初代の新作を創る時や会など、常に寄り添っていた。
それにより、三代目寿美には、新作を創る時、再演できるものを創るように心がけることを 教えていたのである。
≪吉田御殿≫は初演当時、出演者はすべてが日本舞踊の踊り手ではなく、「荒武者の踊り」
はバレエやモダンダンス、コンテンポラリーの踊り手、もしくは歌舞伎役者が勤めていたが、
三代目花柳寿美によって再演された≪吉田御殿≫は全てが日本舞踊の踊り手であり、「荒武 者の踊り」も含め群舞全員が、本大学の邦楽科日本舞踊専攻卒業生で踊られたという意味で は東京藝術大学とも大変縁の深い演目であった。
そして、素晴らしい古典技法で格調高く演じられた千姫と、決して古いものにはならず現 代にマッチした感覚も合わせ、今の時代の≪吉田御殿≫として復活したのである。伝統と革 新こそが古典であることを指示した価値ある演目となったと言えよう。このことは、日本舞 踊の今後の発展に大きな提言であるとは言えないだろうか。
日本舞踊の今後の発展を考える上で、日本の伝統芸術は、はたしてストレートに日本で評 価されているのだろうかということを考え直したい。
明治の初め、日本の新政府は外国に追いつき、さらには追い越せとばかりに、積極的に西 洋文化を取り入れようとしていた。そのため、学者、技術者、軍人など多くの欧米人を「お 雇い外国人」として雇い入れていた。明治初期に来日し、日本文化の恩人といわれるアーネ スト・F・フェノロサは、そのような外国人の一人であった。
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フェノロサは明治11年(1878年)に来日し、東京大学で政治学、哲学、経済学などを講 じている。その講義を受けた者の中に、岡倉天心や、後に『新楽劇論』を書いた坪内逍遥も いる。
フェノロサが来日した明治11年当時は、廃仏毀釈などが起こり日本の古きよきものの良 さを認めない、西洋文化崇拝の時代の流れの中で、日本美術は見捨てられていたという時代 であった。フェノロサの専門は政治学や哲学であり、美術が専門ではなかったが、来日前、
ボストン美術館付属の美術学校で油絵とデッサンを学んでおり、美術への関心は持ってい たので、来日後、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、日本美術に深い 関心を持ち、古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国と、古寺をめ ぐり、寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がった。
フェノロサの通訳・助手として共に各所を巡った岡倉天心は、徐々に美術に興味を持つよ うになった。そして、日本美術の素晴らしさを知ると同時に、軽視されていることを肌で感 じ、これを守っていかなければならないという思いを強くしたのである。フェノロサと共に 明治19年(1886年)欧米の美術教育を目の当たりにした岡倉は、帰国後、視察体験から東 京美術学校(現在の東京藝術大学)の設立に尽力した。
明治初期は、誰も日本文化を認めておらず、何でも新しいもの西洋的なものを喜んだ時代 であったといえよう。フェノロサは未来の日本人に、自国の大事な過去の美術の良さを伝え たく岡倉天心と共に精を尽くしたのである。
奇しくも、明治初期のそれは、平成の日本と同じではないのだろうか。情報化社会の中、
日本の美しい伝統文化を日本人は尊重しているといえるのだろうか。私事であるが、十数年 前、アメリカのホテルでモロッコ人のベルボーイに面倒を見てもらったことがある。その時 に、彼はたどたどしい日本語で祖国モロッコのことを「モロッコはアフリカの宝石といわれ てきました。」と、言葉を継ぎながら、モロッコの文学、絵画、彫刻、芸術がいかに素晴ら しいかを、身体全体を使って説明してくれた。
自国の文化を理解しない者が、他の国を理解できるのであろうか。自分の国を愛し、理解 し、誇りを持つことが本当の国際人なのではないかと、その時感じたのである。
巻末付録②のアンケートまとめでも述べているが、日本人はともすれば自国の文化より、
海外の文化を尊重しやすい。
そして、日本の芸術や文化は、日本がベースであるにもかかわらず、日本を出て海外で認 められ日本で公演したとき話題となる。すなわち、逆輸入の状態で海外公演の成功と、付加
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価値がついて認められる傾向にあるのではないか。しかし、現代のように情報化され情報に 流れの速い時代では、一瞬で消えてしまうものとなるように思う。
草柳大蔵はその著書≪絶筆………日本人への遺言≫の中で、日本の文化の大切さ に気付くことが失われていくことを「プライドの荒野116」という言葉で表現している。
日本で日本舞踊家がプロとして職業として成り立つ、すなわち、俗に言い換えると「飯が 食える」状態にならねばいけないということ、伝統と革新が古典であることを、まず海外で 認められることを目標にするのではなく、まさにベースである日本で、認められなければ意 味がない。
明治19年(1886)岡倉天心は、絵画の鑑賞会で当時の総理大臣伊藤博文にフェノロサか ら「日本の伝統美術は西洋に匹敵する。」という言葉を伝えてもらっている。岡倉天心は、
日本独自の文化と精神にしっかりと誇りを持つことこそが、西洋と対等に付き合うことに 繋がると考えたのである。フェノロサの言葉に心を動かされた伊藤博文は、ここに今まで軽 んじられていた日本の伝統文化を保護する方針を打ち出したのである。
これはまた、伊藤博文を含む有識者の一部で高まりを見せている演劇改良の動きが活発 になり、「演劇改良会」という形になっていった時期を同じくしている。「演劇界良案」は逍 遙にも影響があるであろうことを考えると、フェノロサや岡倉天心の日本独特の文化や精 神への誇りという思想もまた逍遙に影響しているのではないだろうか。
坪内逍遥が国劇刷新のために発表した『新楽劇論』の流れの先にある新舞踊運動で活躍し た代表的女性舞踊家の初代花柳寿美に傾倒した藤間春枝は、新舞踊運動に身を投じ、吾妻徳 穂として花柳宗岳に支えられ、主に三趣の会、徳穂の会では多くの作品を舞踊史に遺してい る。花柳宗岳はプロデューサー的な資質を持っており、徳穂は宗岳がプロデュースしたいと いう一つの形のものだったに違いない。
後に三代目花柳寿美は「吉田御殿は80年以上たって全員日本舞踊家だった。棒の踊りの 人はあんなもので飛んで踊ったりなんていうのは日本舞踊の人にはできないから、いわゆ るダンス、バレエの方、モダンダンスの方にやってきていただいたけれど、退官記念公演の 時、日本舞踊家がやっても、さほど違和感もなかった。ただ踊っている基本というのは、す べて日本舞踊の踊りよね。別にバレエをやっているわけではない。そういう流れがあった徳
116 草柳大蔵2003年7月23日『絶筆………日本人への遺言』東京:海竜社、165頁。
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穂先生は、初代寿美たちが一つの先輩としていて、その後を追っていらしたということよね。
117」と話している。
初代寿美の≪吉田御殿≫では、「荒武者の踊り」をコンテンポラリーやモダンダンス、歌 舞伎役者の弟子たちが演じ、三代目寿美が踊った時には、日本舞踊家が演じさほど違和感は ないということは、現代においては、コンテンポラリーやモダンダンスが日本に浸透し、そ れなりの身体の動かし方、ニュアンスが理解され、違和感なく、日本舞踊に置き換えられた のであろう。
そもそも西洋の舞踊を最初に日本に取り入れたきっかけとなったのは、川上音二郎と貞 奴が設立した帝国劇場あり、その時、イタリア人のバレエ教師とした G.V.ローシーが、日 本の洋舞の出発点と考えられる。この洋舞が取り入れられたことで、日本の舞踊と西洋の舞 踊を区別するための「日本舞踊」という言葉であったのであろう。
現在、その中でも、「日本舞踊」は古典作品のことを指し、古典作品を踊る人が作った新 作を「新作舞踊」や「創作舞踊」という。「新舞踊」という言葉は、歌謡曲で踊る舞踊のこ とを指すようになっている。これは、舞踊をする人の中での認識であるが、一般的の日本舞 踊を知らない人には区別し辛いことである。
では、逍遙が唱えた「新舞踊」と「日本舞踊」とはいったい何であるのだろう。
現在の日本舞踊界を構築している基盤は、『新楽劇論』と新舞踊運動での先人たちの奮闘 である。新舞踊運動の目的に舞踊の大衆化がすすめられた時期もあった。当時の歌謡曲で踊 り、児童舞踊に力を入れた人物もいる。現在、歌謡曲で踊る舞踊も、伝統を踏襲し古典作品 を踊る舞踊も、新舞踊運動が発展した結果が今のような形になっているのであり、それを総 合して日本舞踊と考えていいのではないだろうか。
『近代日本舞踊史』において、西形節子は「坪内逍遥は『新楽劇論』では振事劇という語 で日本舞踊の改革を提唱した後、大正末年に至るまで、日本舞踊の将来に関する論説をいく つか書き残している。118」と述べていたが、振事劇は、日本舞踊ではない。しかし、西形氏 がこのように述べていた理由に、現代においても国劇刷新が必要な時期であり、その中でも 日本舞踊には逍遙の唱えた「振事劇」という言葉に、日本舞踊の改新のヒントが隠され、ま た、その方向性がどのように日本舞踊に作用するのかを期待するというメッセージではな いかと痛感している。
117 2014年7月17日 三代目花柳寿美インタビューより
118 西形節子2006年3月25日『近代日本舞踊史』東京:演劇出版、16頁。