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。安 隆 橋 工 事 建 設 の ため の 寄 付 金 内 訳 表 拡 安 隆 橋 工 事 建 設 の ため の 寄 付 金 内 訳

単位: 世 帯/ 文

姓氏 戸 数(%) 金 額(S)

隆/ そ の他 の 姓氏 125 536,380 隆 . (45.6 )657

(4.8 ) 518,980(96.8)480,000(89.5)

隆 刺 一氏│ 同 男 」一 口 

そ の 他 の 姓 氏

68(54.4)12 9 7

6  6  6  5  4  2  1  1  1  1  1  1  1  1  1  1 

1 17,400

(3.2 )

注: ここ で取 り上げ られ た寄 付者 は、いず れも 父系 親族を代 表 する一家 の主で ある。隆再 氏、 隆楊氏 、李 余氏 、秦唐氏 のよ う に、配 偶者 が亡くな り √家 を継ぐ べき男 の子 がまだ幼い か、

または不 在であろ うと推測 さ れる場合 は、当然 彼女 たちの嫁 ぎ 先 の姓氏と して 勘定し た。

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第3 章 親族 組織と そ の変 容 第1 節 宗族

異なる姓 氏 からな るこ の村 落 において、解放 前後・さら に改 革・開放以 降とい う 幾つ かのプ ロ セ スを経てき た宗族 がい かな る変 化 を遂げ てき たのであろ う か。そ のあ り方 について追 って みたい 。

村人 にとっ て 、宗族はど うい う概 念であろう か。そ れは 、同 じ父系 出自 の系 譜関係 が たど れる 間柄を意味す る。つ まり、「

湖廣填 四川」湖廣 から四川 へ移民 し た世代 を始 遷 祖と して、そ の子孫 はす べて 同じ宗族 の成員 と みなされる 。宗族 の錯綜 し た 集 団を、そ の構 造的 ハイアラーキーを示 すと、以 下 の通 りであ る。

宗族    リ ニージ

房    サブ リ ニージ

戸    世 帯

家    家 族

上記 のハイ アラ ーキーには、サブ リニ ージ の「房 」の下 に分枝 を 示 す「支」があ る のが一般的 だが、 調査地 では 、この言い方は耳

にし たこと がない 。 このほか 、宗族 の中におけ る遠近 を示 す指 標と して、「遠宗 」と「近宗」の区別 があり、長男 の属する房 を「

大宗 」、 次男 以下 の属する房 を「小宗 」という 。

豊 都県 内 の移民 の場合 、一 般 に清の康煕・乾隆年 間に移っ て き た者 が大半 を 占めて おり、 移住 して から200‑300 余年 だっ て い るも のがほと んど であ る。 調査地 における隆 姓の場合は、 明 洪 武2 年(1369) に3 人兄弟 が、 湖北 黄州 府孝感 郷麻城県高岡堰と い うと ころ か ら来 た。華厳村と 大 田授 居住 の隆姓 が現存する族 譜 によれば、移 住元 での隆姓 の祠 堂は南陽 堂と 呼ば れ、族 譜に よって 、かろう じ て始遷祖 から 自分 たち の属する房 の系 譜図 を 遡る こと がで きる 。し かし 、馮家 鏝居住 の隆 姓 にとっ ては、移 住当初 から郎渓 に定 着する よう になっ た第12 世代 目までの祖先 を記録 し た古い 族 譜 が失 われ た ため、宗族 に関する彼 らの記憶 がと ぎれてし まい 、第13世代 目の時通・時泰兄弟 までし かたど る こと ができ ない 。宗族 の系 譜を 尋ねられても 、はっきりし た 答え がなく、「都 是那幾 大房発 派 下来 的」とい う 程度 の認識 にと ど まっている 。清 明会 が行な わ れてい た民 国期 に、族 譜 を保 存 し、馮家 僕居 住 の隆姓 は上位セ グメント の華厳 での清明会 に参 加 するほ か、数 年 ごと に郎渓 の清明 会にも 参加 してい た。 さら

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に、「合族 」県 内あ るいは堵陵 など県 外 に散 らばっ てい た隆姓 の 宗族 の系 譜関 係も 、確認す ること がで きた。

解放後は 、清 明会 が廃止さ れ たも のの、宗族 の成員 の序列 関 係 を示 す「字派 」世代名 が使用 さ れてい る ため 、同じ隆 姓ならば、

たと え面識 がな くても 互い に系 譜 関係を確認 できる 、。五服以 内の宗族 の成員 であ れば、「逢 年 過節、生長満 目 」年中 行事・冠 婚葬祭・出生 祝い・誕生 日祝い には 、「都要走動 」必ず 互い に訪問 しあう 必要 があ る。

し かし、湖 廣 から移住し て き た始 遷祖から数 えて、12世代 目 まで のほか の分枝 の隆姓 に関し ては 、世代 名 を異にしている た め、「 昶 不到弔 個是 老輩子」互い に誰が上位世代 な のか、判 明 し にくい のであ る 。

1980年代 の初 期 からはじ まっ た家 庭生産 請負 制の実施 に伴っ て、県 内 のご く一 部の地 域で は 、清明会 の復 活・族 譜 の再 編 が

見 ら れ る よ う に な っ た 。 し か し 、 馮 家 祠 で は 、 個 人 的 に 経 単 簿 を 保 存 し た り 、 華 厳 村 ・大 田 燭 村 か ら 族 譜 を 借 り て 写 し た り す 

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る者があるが、清明会の復活や族譜の再編にまでは至っていな い。

注:(1)たとえば、大田畑居住の隆姓(第26世代)は、馮家鍍の隆姓(

第24世代)とは、14世代目で先祖を同じくするが、15世代目か ら兄弟 たちが分 かれてし まい、現在に至っては互いに五服の関 係を遥かに超えている。もし族譜がなければ、世代名が彼らの 相互の系譜関係 を確認する唯一の手段 だと言えよう。だが、1980

年代から、子どもの命名に当 たって、二文字の名前が好まれ るようになり、宗族の中における上下関係を現わす世代名が無 視されつつある。

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第2節 祖先祭 祀と 清明会 、 1.民 国期

民 国期では 、宗 祠・祭田 の有無 をと わず、ど の宗族も「清明 会」

を催し、祖先 祭祀 を行なっ たも のである。『 隆氏族 譜 』(1926 年) には「祖宗 雖遠 、祭祀不 可不 誠; 子孫雖愚 、経 書不可不読。」と 記し てある。 祖先 がど れ ほど 遠 くても 、真 心 をも って祖先祭祀 をせ ねばな らぬ。 子孫がど れ だけ 愚 かも のでも 、経書は読 まね ばな らぬとい うこと を、譚 々と 説き 聞かせてい る。宗族 に よっ ては 、祖先祭 祀と して清明 会 の みで済 む場 合も あれば、春 祭と 秋祭 の二 回に分け て行な われる場 合も あ る。宗 族 の規模が大 き い ほど 、春祭と 秋祭 をおこ なう だけ の財力も あ り、「族人 」宗族 の成員 たち の結集力も 相対 的 に強くな ってい るh

清 の道光年 間 に、華厳 より馮家 岬 に移 住し た隆家 の分節は 、 解放 前(1949 年 まで) の時点 ですで に100余 年経 過し、世代深 度 も 第5 世代 まで数 える よう になっ た、。し かしな がら、馮家 所 在

住 の隆姓 だけ では 、独立し た清明 会を形成 する こと なく、相変 わらず華厳 の朝選公 の墓 花破 墳 へ向かい、そ こ でとも に祭祀 儀 礼 を行なってい た。

馮家 慢居住 の隆 姓の始遷 祖であ る朝選公 の三男 仕達 には、7 人 の男 子子孫 が生 まれ たも の の、長男・五男 が夭折し 、次男と 三男 が華厳 にと ど まっ たま まであ っ た。四男 正常の子孫も 馮家 慢 に1人も 残 って いない 。つ まり、民 国期 に実 際馮家 政 に居住

してい たのは 、仕達 の六男正 倫と 七男 正級 の子孫 たちのみであ り、民 国31年(1942) には、 隆姓 の家 族 がわず か7世帯であ っ た、。

のち に第20 世代 であ る大字 世代 になると 、さ らに他地 域へ移 住 し たり、「乏 嗣」男 子子孫 が乏し かっ たりで、一 つの分 節とし て 清明 会を運 営する だけの 資金も 人 手も な かっ た。「上 院子」と 呼 ば れる隆姓 の親族 が居住し てい た家 屋 の裏山楼 子嶺には、始 遷 祖仕達 の立派 な墓 が横 たわって おり、そ れを 囲むかのよう に、

仕達 の子孫 の墓 が置かれてい る 。

し たがって 、華厳 における 清明 会に際し ては 、馮家ガ の隆姓 の親族 が必ず 参加 する。華厳 に宗 祠と「地 方」祭 田も なく、華厳 への始 遷祖登業 公 の孫 朝選公 の墓 花破墳 の手 前に親族 が集 まる のであ っ た。墓 の前に大 きな 木犀 の樹木 が2本 植え られており 、 そこ で祭祀儀 礼 が行なわ れた。「会首」世 話人は 各家 の輪番制で、

順繰 りに清明 会 の世 話役「値 年会 首」と なる 。解 放直前では 、華 厳・馮家 媛 の隆姓 の族長は隆仲 良 の父大 有であ っ た。彼は当時

「私塾 」の教師と して 、大橋・坪 上 一華厳で教 えてい た。隆姓 の宗 族がそろそろ祭田を購入しようとした矢先に、豊都県が解放さ れたため、つい に実現できなかっ た。華厳で の祖先祭祀には「

大清明会」と「小清明会」の2種類があり、馮家鍍の隆姓が参加す

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るのは前者 のほうであ り、毎 年 の参加 者が「10幾 卓 人5J100 人 を超え たと いう 。他 方、「小清明 会」と は、仕達 の2 番目の兄 仕 能の直系 親族 を中心と し たも ので 、宗族 の分 節の始 祖仕能 の墓

楊 子墳 の前に集 まる のであ る。

このほか、 馮家痢・華厳 在住 の隆 姓の成員 は 、朗 渓で 行なわ れる清明会 にも 数 年に一度 は 参加 する。朗渓 には 、「湖廣填 四 川 」四川 へ移民 し て以来 、第12 世代 目 の宗友 公とそ の兄 弟金 甲 公の墓 がある 。隆 姓の朗渓 への始 遷祖と される宗友公 の墓 は磨 碓墳と よば れ、隆リ ニージはそ の墓 の前で清明 会をおこなう 。 宗友公 の孫席 灼 公 の代 から朗 渓 をあと にし、徒 歩2時間ほど に位置する矢 田暴 へ移っ たが、 大田 珊の隆姓も 相変 わらず朗 渓 の清明会に属 する6 .民 国17年(1928) には、隆リ ニージは大規模 な清明会をし たあと 、族 譜 を作ろ うとし たが、 実現できな かっ

た。

一方では 、安隆 橋居住の隆リ ニ ージには、宗 祠・祭田 を有し て い た。清明 会 に関 する族 譜 の記 載を みて みよう。

安隆橋居住 の隆正駱 が編纂 し た『 隆氏族 譜 』によれば、清道 光1年(1821) 、祖 先 が占い に より、墓地 を灘 山現 の青龍嶺 に決 め た。そ こは 隆リニ ージの「祖 墳 」祖先墓 であっ た。し かし、「夫 有墳 風而無祀 典 、則 先 霊之 血食 傷属闘 如。有祀 典而無宗祠、則 子 孫之 奉祀無従 会聚 。歩青公 乃於 道光25年分 大家 時 、勧各房子姪 出穀営息、以 作祀 典。毎歳 清明 、各房子孫 無論在 響ト 在培、倶到 青龍嶺 拝掃祖 墓一 次、以示 不忘根 本之 意。此武 字派各房伯叔 創 興 清明会祀典 之 由来 也7 .」墓 があ って 、祭 祀 をし なけ れば、 祖 先 が子孫 に供 養 をしても らえ ない 。祭祀 はする が、宗祠 がなけ れば 、子孫 たち を寄せ集める こと がで きない 。そこで 、道光25 年(1846) に分家 し たおり、歩 青公 が各房 の甥 たち に穀物 を出し 合って 、祖先祭 祀 する よう勧 め た。そ れからと いうも の、毎 年 の清明 節にな ると 、 響し 都 にい ようと 、迭陵 にい ようと 、各房 の子孫 は必ず 青龍嶺 へ集 まり、 祖先 の墓 参り をし 、自 らのル ー ツを忘 れない よう にするので ある 。こ れが武字世代 の各房 の伯 父・叔父 たち が清 明会 の祖 先祭祀 をはじ め た由来 であ る。 19世 紀40年代 後半と いう この時期 に おい ては、 馮家‑溥に移住し た隆 リニージ のち ょうど 正字世代 に相 当する 。

そし て、隆正 笏は 清明会 に関 する族 規 を定 め た。まず、人望 のある者2 人 を族長 と 副族長と し 、祠堂 及び 宗族 の事柄 に取 り 組む。さら に公 正 で信頼のお ける者2 人 を庶 務とし 、も っぱら 祠堂内部の収 支及び対 外交渉 にあ たらせ、そ の任期 を5年と す る。庶務 の下 に目先 の利 く者4 人 を評議員と し 、族長 を助 けさ せ、そ の任期 を3 年とする。民 国15 年(1926) に族 譜を作 っ た隆 正笏 のこの提案 は 、時代 の特 色 を帯び たも のであると言え よう 。

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