はじめに
「軍国民」主張は
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世紀はじめに中国人日本留学生によって提唱された。これが提唱さ れてから当時の中国人日本留学生界だけではなく、清末の中国においても急速に広められ た。1906
年、軍国民教育は清朝政府の学部(文部省)が公布した「奏請宣示教育宗旨摺」の 中に入れられ、学校教育で普及すべき重要な教育目標として位置づけられた1。そして中華 民国建国後にも何度も唱えられ、清末から民国期にかけて大きな影響力をもつ重要の思潮 の一つとなり、当時中国の教育と社会気風の転換に大きな役割を果たした。しかし、これま で「軍国民」に関する研究の蓄積はあるものの、「軍国民」の由来・性格・提唱される経緯 について、いまだに定論に至っていない。本章では、まずこれまでの「軍国民」の研究史の 歩みを概括的に振り返りながら、「軍国民」のかかえる課題点を提示する。次に、1902
年、中国人日本留学生界で最初に「軍国民」を主張した蔡鍔に焦点をあて、蔡が「軍国民」を主 張するに至るまでの思想の軌跡を究明することによって、「軍国民」主張の性格を明らかに する。最後に、蔡鍔のほかに、中国人日本留学生である蒋方震の「軍国民之教育」と周家樹 の訳文「武備教育」を取り上げ、彼らの「軍国民」主張は当時の日本からどのような直接的 影響を受けたのかを検討してみる。
1 .「軍国民」研究史と問題点
中国では、「軍国民」はよく「軍国民教育思想」、「軍国民思潮」と称される。以下は「軍 国民」と呼ぶことにする。中国における「軍国民」に関する研究は
1920
年代に遡ることが できる。主に教育史、教育思想史などといった分野の著作で論及されている2。1949
年中華1 教育宗旨の内容は、忠君、尊孔、尚公、尚武、尚実という
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つの項目が含まれている。軍国民教育は尚武の項 目に「凡中小学堂各種教科書、必寓軍国民主義、俾儿童熟見而習聞之」と規定されている。「奏請宣示教育宗 旨摺」(舒新城編『中国近代教育史資料』上冊、人民教育出版社、1985年)、217-223頁。2 この時期における中国教育思想史は主に以下のような書籍が挙げられる。
舒新城編『教育叢書 近代中国教育思想史』(上海中華書局、1928 年)、113-134 頁。陳翊林『最近三十年中 国教育史』(上海太平洋書店、1930年)、64-66頁、174-176頁。任時先『中国文化史叢書第
2
輯 中国教育 思想史』下巻(商務印書館、1937 年)、329-339 頁。陳青之『中国教育史』(商務印書館、1936年)、654-656 頁。以後の同種の著作は基本的にこれらの書の様式を踏襲している。軍国民教育思想の形成背景、初提唱、発展経緯、中国で実行された実態及びその原因が取り上げられている。
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人民共和国建立後、「軍国民」に関する研究は一度沈み、
1970
年代になると、再び研究が展 開されはじめ、現在も行われている。これまで「軍国民」に関する研究の関心、主に「軍国 民」を唱えた有名な人物である蔡鍔、蔡元培、范源濂の「軍国民」主張を対象とする、人物 に焦点を当てたもの、及び1903
年に中国人日本留学生が結成した軍国民教育会(成立当初 は拒俄義勇隊と呼ぶ)の組織構成・活動をめぐるもの、という2
つに重点を置いている。蔡 鍔らの「軍国民」の由来、性格、及び日本との関係について十分に注目されていない。以下 は、「軍国民」の由来、性格、及び日本との関係をめぐる争論を中心に整理しながら、それ らの中に潜む問題点を指摘しておく。(
1
)「軍国民」の由来「軍国民」の由来に関する論点は
2
つに分けられる。論点①:中国にはかつて「軍国民」主張はなく、それは当時の世界潮流と中国の国家危機 によって形成されたのである。
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世紀末頃、プロイセン王国首相ビスマルクは「鉄血政策」と呼ばれる富国強兵・軍備拡張政策を推進し、強大なドイツ帝国を作った。各強国が争って それを模倣し、特に日本が明治維新後、尚武精神の提唱と軍備の拡張を重視し、日清戦争と 日露戦争で勝利を得、一躍世界の強国となった。当時亡国の危機にあった中国はその影響を 受けざるを得なかった1。そして、その初提唱について、2つがある。一つ目は、1902年、
中国人日本留学生だった蔡鍔は梁啓超が横浜で創刊した『新民叢報』に「軍国民篇」を発表 し、軍国民主義を提唱した。これは中国人による軍国民提唱の嚆矢とされてきた。そして、
2
つ目は、近年になって、軍国民教育思想を最初に唱えたのは改良派の康有為と厳復に遡る という説がよく見られる。1895
年、康有為が「上清帝第二書(清帝にたてまつる第二の上 書)」で「以民為兵(民を以て兵と為す)」、「学堂を設立し、学生に歩陣、騎撃、測量、絵画 を勉強させる」を主張した2。同年、厳復が「原強」という論説の中で「民力」を唱えた。康 と厳の主張には「軍国民」の表現を用いていなかったが、意味的には「軍国民」と一致して いるという3。論点②:中国には昔から「軍国民」主張があった。春秋、戦国時代孔子の主張した「文武 合一」・「術徳兼修」は軍国民教育の理論的基礎を確立したものと言うことができる。しかし、
これ以後歴代の君主は人心を束縛し、力を尽くして軍国民教育を抑制し、これと共に知識人 も公然として軍事教育を低級な技術と考えた。そのため、中国旧来の軍国民教育思想はつい に衰退した。日清戦争後は国内外情勢が危急を告げ、平和に酔い痴れた中国人もついに悟り、
1 前掲『教育叢書 近代中国教育思想史』、113頁。
2 「上清帝第二書」前掲『国家清史編纂委員会文献叢刊 康有為全集』第
2
集、36頁。原文は以下の通り。「今環地球
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余国、而泰西争雄、皆以民為兵……乃入学堂学習布陣、騎撃、測量、絵図。」3 韓玉霞「清末民初的軍国民教育」(『史学月刊』、1987年第
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軍国民教育を廃すべきでないことに気づき、その思想が蘇ったのであるという1。
このように、中国では「軍国民」の由来に関しては、未だに定論が形成されていないが、
これは実に「軍国民」の性格を解明する重要な問題である。すなわち、「軍国民」は近代用 語であるか、昔から存在していたのかという問題に関わっている。いずれにせよ、「軍国民」
という表現を最初に使ったのは蔡鍔で、「軍国民」は中国人日本留学生によって中国に普及 されたことが通説となっている。
しかし、筆者の考察によると、「軍国民」という表現はこれより早く中国人に用いられた ことが分かった。それは
1898
年、王国維が汪康年に宛てた書簡にみられる。現在江蘇省の顧君は「軍国民教育」という一篇があり、甚だしく明解で痛切であり、ほ かの報館はこれを載せない恐れがあります。それゆえ蘊公(羅振玉)に嘱され貴所に送 らせていただきます。もし早く(『時務報』に)載せられれば、尤も効果が上がるでし ょう。載せていただければと存じます2。
王国維3は
1898
年に上海に赴き、『時務報』の文書係と校正者を兼任しながら、日本語に 精通する人材を養成する東文学社に入学して日本語を学んだ。王国維は東文学社の創設者 である羅振玉4に学才を認められ、特別に目をかけられた。引用した書簡の内容から見ると、王国維は羅振玉の推薦を受け、江蘇省顧君の書いた「軍国民教育」を当時『時務報』の社長 を務めた汪康年に書簡を送って、掲載の願いを出したことが分かる。
また、顧君はどのような人物であるかについて、今のところ史料からはっきり分からない が、恐らく日本に行ったことがあり、日本語に精通した人であろう。これは、後述するよう に、日本ではすでに早く「軍国民」に関する著書が出版され、蔡鍔ら中国人日本留学生が「軍 国民」を唱えるまで、この書簡以外の史料はなく、「軍国民」という表現は日本から輸入さ れた可能性が高いからである。
このように、中国では
1898
年の時点で、江蘇省顧君の「軍国民」主張は、王国維、羅振1 前掲『中国文化史叢書第
2
輯 中国教育思想史』下巻、329頁。2 「致汪康年」(1898 年
7
月下旬-10月中旬)(謝維揚・房鑫亮主編『王国維全集』第15
巻、浙江教育出版社、2009
年)、27頁。原文は以下の通りである。茲有江蘇顧君論軍国民教育一篇、至為明快痛切、恐他報万不願登、故蘊公嘱寄尊処、如能早刊、尤為有力。
請詧入。
3 王国維(1877-1927 年)、字は静安(庵)、伯隅、号は礼堂、観堂、永観である。浙江省海寧県の生れである。
1901
年に日本に留学し、脚気のため半年で帰国した。1911年辛亥革命に際し、羅振玉とともに日本に亡命した。1916
年に帰国後、上海の倉聖明智大学の教授となり、1925年、清華大学国学研究院教授となり、梁啓超・陳寅 恪・趙元任とともに清華大学の「四大導師」と称される。山田辰雄編『近代中国人名辞典』(霞山会、1995 年)、814-815
頁より抜粋。4 羅振玉(1866-1940 年)は、字は叔言、号は雪堂である。江蘇省淮安生まれである。日清戦争に中国が敗れる と、国力を回復するために農業を興すことが国の本であると主張し、農学社に続いて農報館を設け、農業の改良 に努めた。1898年、日本語と日本文化を中国の青年に教えるために東文学社をおこした。辛亥革命の勃発で日 本に亡命、帰国後天津に寓し、廃帝溥儀の師となっている。満州国建国とともに参議府参議、監察院長などの要 職を歴任した。前掲『近代中国人名辞典』、579-580頁より抜粋。