(映画『流れる』は1)小説は感心したのだが、その点劇として適当なものかどうか。
監督の一つの企てなのだろうか、うまいと思うわりには感心しなかった。部分的には 小きざみでうまいが、大きいうねりで引きこまれるところが少ない。(中略)
小説もそれぞれの個性はうまく出していたが、映画もそこはいい。(中略)まあ一コ マずつの味で見れば十分楽しめるかも知れない。(志賀直哉)2
シナリオと演出を比較しながら『流れる』を分析してみると、その特徴は「人物の対等 化」である。
『流れる』における多数の人物は〈すれ違い〉、〈背を向ける〉、〈振り向き〉など、成瀬 固有の演出の中で「見る/見ない」を通して、ストーリーの流れとは違う感情を露にし、
人物関係において新たな意味をもたらしたのである。そのことによって、脚本家田中澄江 がストーリーの中心にした山田五十鈴演じるつた奴と他の人物は「対等」になった。
それはストーリーを含むシナリオから離れた、成瀬の演出によるものであった。『流れる』
の成瀬演出とシナリオを比較分析してみると、なな子とつた奴の関係のようにシナリオを ベースにした成瀬演出の固有の特徴と、米子や不二子に関する部分のようにシナリオには 見当たらない成瀬演出の固有の特徴があった。その中で「人物の対等化」は〈すれ違い〉、
〈背を向ける〉、〈振り向き〉など映画の中の人物の動きを通して見出せる成瀬の演出特徴 であったのだ。
本章ではサイレント時代から晩年の作品に至るまで、フィルムが現存している成瀬の映 画の中で、「人物の対等化」がもっとも表れている他の成瀬映画を分析していく。前章の『流 れる』同様、人物の動きとシナリオと映画の比較分析を合わせた研究方法で「人物の対等 化」が成瀬演出の一般的な特徴であることを述べていく。
第1節 サイレント時代から戦前、戦時までの成瀬映画における「人物の対等化」
1945 年までの成瀬が監督した 46 作品3の中で成瀬が脚本を手がけた作品は 22 本あるが、
「人物の対等化」が見える作品はほとんど成瀬が脚本を書いていた。その中で『妻よ薔薇 のやうに』(1935)は現在でもシナリオを見ることが出来る作品である。
1 引用文にはないが、分かりやすくするために足してある。
2 志賀直哉・武原はん「『流れる』を見て語る」産経時事(夕刊)、1956 年 11 月 21 日。
3 1933 年の宣伝映画と 1934 年の松竹、新年のご挨拶映画を除く。
85 1.『妻よ薔薇のやうに』(1935)
演出4 成瀬巳喜男 脚色5 成瀬巳喜男 原作 中野実 撮影 鈴木博
出演
山本君子:千葉早智子 山本俊作:丸山定夫 お雪:英百合子 山本悦子:伊藤智子 静枝:堀越節子 堅一:伊藤薫 精二:大川平八郎
・映画『妻よ薔薇にやうに』のストーリー
明るい性格の若い OL の君子には将来を約束した男、精二がいて、自分の人生よりも、母 悦子のことを心配していた。金を採取するために家を出て、長い間山村にこもっている父 俊作が、お雪という女を作って戻って来ないからである。短歌を書く才能がある悦子は、
自分本位の性格を持っていた。そんな悦子のために君子は父を連れ戻すべく信州に向かっ た。しかし君子はそこで予想外のことを知った。父が時たま送ってくるお金はお雪が自分 の娘の学費を犠牲にして用意していたのだ。そして父とその家族の絆は深いものだった。
父は一度東京の母のところへ戻ってくるが、すぐさま信州の家族のところへ帰ってしまう。
君子は、父が自分の母から去っていったのは、母がいわゆる家庭的ではないてめで、仕方 がないことだと思うようになる。
『妻よ薔薇のやうに』はシーンの中で人物たちが視線の動きを含む〈すれ違い〉、〈背を 向ける〉、〈振り向き〉などの動作によって実現する「人物の対等化」が著しい作品である。
主人公である君子が自分のことではなく親の葛藤によって展開するストーリーにその理由 がある。君子の恋人精二は俊作と妻たちの葛藤とは直接絡んでいないにもかかわらず、成 瀬演出の中で主役と同じ動きをしている。
4 監督のことを演出と表記したのは 1933 年の PCL だった。東宝がそれを引き継いだが、戦後日本映画監 督協会が再建されてから「監督」と表記するようになった。
-田中眞澄・阿部嘉昭・木全公彦・丹野達弥編『映画読本成瀬巳喜男―透きとおるメロドラマの波光よ』、 フィルムアート社、1995 年、99 頁。
5 成瀬映画において、原作があるもののシナリオを書いた人は「脚色」、原案やオリジナル企画のシナリ オの場合は「脚本」と表記されている。
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【写真 4—1】6母のお金の使い方に対する不満を精二に訴える君子。
(a)
精二(大川平八郎)は君子(千葉早智子)とすれ違って行ってすぐ振り返る(a1-a4)。
君子もまた振り返ってフレームに戻って来る。するとまた精二が背を向けて行く(a5-a6)。
a1 a2 a3
a4 a5 a6
精二は親のせいで悩む君子の心情が表れる会話をする相手でありながら、給料のことや 買い物のことなど会話を通して東京での君子という人物の性格を浮き彫りにしている。
映画のストーリーにおいて軸になる俊作(丸山定夫)と悦子(伊藤智子)、お雪(英百合 子)は、君子との絡みを通して「人物の対等化」の特徴の中で描かれているが、本論文で 注目したいのは信州でのお雪の家族である。お雪の娘静枝(堀越節子)と堅一(伊藤薫)
における成瀬演出の動きも主役と変わらないのである。
6 「成瀬巳喜男劇場ファイナル」日本映画チャンネル、2010 年 2 月—3 月。
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【写真 4-2】君子を紹介してあげると言うお雪。
(a)
お雪 (英百合子)が背を向けて去って行く(a1)。
すると堅一(伊藤薫)と静枝(堀越節子)がお雪に振り向く(a2-a3)。
a1 a2 a3
君子は父をたずねて信州へ行って、父との対立はもちろん、その他にもお雪、お雪の連 れ子だった静枝、俊作とお雪の息子堅一の三人とも感情的にやり合う。シーンの中で主役 と脇役が対等になっていることは、君子の葛藤を違う次元にもっていく決定的な役割をす る。
俊作を取り戻すことと母親の態度の間で悩んでいた君子は、お雪の家族に会ってからは 混乱してしまう。俊作とお雪と悦子の中で、誰が間違っているのか、誰がもっともくやし い思いをしているのか、誰が親切なのかなどを曖昧に描いていることは君子の心情とつな がると言える。
それが象徴的に表れているのがお雪の連れ子の静枝が泣いていることを、外からとらえ、
シルエットで見せるシーンである【写真 4-3】。
【写真 4-3】君子とお雪の話を聞いて悲しむ静枝。
(a) 涙が込み上がる静枝。
a1
88 (b) 立ち上がって窓際に立つ静枝。
b1 b2
数多い成瀬映画の中で人物は窓際に向かうことが多い。窓際に向かうことは〈背を向け る〉、〈振り向く〉の行動が自然に発生することを意味する。
コンティニュイティ の中で静枝は、悦子と俊作の敵対者ではなく、君子の敵対者である ため、このシーンには意味がある。君子と対する立場なのに、君子と悦子の元に俊作の名 前で定期的に送られたお金は、実は静枝が女学校に通うはずの学費であったのだ。
その他にも君子と静枝が一緒にお風呂に入っているシーンがある。二人は無言でお互い のことを見ないようにしているが、静枝は君子を一瞥する。これは映画の中で静枝の方が やさしい性格だと言えるシーンの一つだが、君子と静枝の間に、「俊作と二人の妻」と同様、
誰が間違っているのか、誰がくやしいのかなどが、曖昧になっている。堅一は俊作とお雪 の子であるため、君子にとっては、一方的に憎んでもいいはずなのに、コンティニュイテ ィ の中では始終あどけないように描写されていて、それが君子の感情を曖昧にする。結局、
君子は何も出来ないが、映画の中で人物たちはそれぞれ事情をもって生きている。そして 誰かの悪は誰かの善になるような、それぞれ違う事情をもって生きることは、現実の世界 でも同様であり、本論文で明かしていく成瀬演出による成瀬映画の一般的特徴とつながる。
母親の負けを宣言して映画は終わるが、観客には君子が結婚して精二の妻になることを分 かっている。精二がストーリーの中で君子の葛藤を解決することは出来ないが、ずっとや さしい人として主役と対等に描かれた精二は、君子の妻としての未来を曖昧にする。父親 の「二人の妻」に苛まれた君子は結婚後、そのような運命になるかもしれない。しかし、
明らかにいい人であって君子と馬が合う精二なら、案外仲いい夫婦になるかも知れない。
映画は終わるが、君子の人生は終わらないのである。
成瀬がシナリオを書いた成瀬映画の中で、現在脚本をみることが出来る作品はほとんど ないが、『妻よ薔薇のやうに』はシナリオが残っている。そして上で例に挙げた静枝と君子 が一緒に風呂に入ることや、お雪と君子の話を聞いて静枝が涙を流すなどのことは、シナ リオにも書いてある。