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映画『流れる』(1956)の「コンティニュイティ」分析

ドキュメント内 成瀬巳喜男論 (ページ 43-89)

これまで本論文で述べたように成瀬の「演出」を研究することは、先行研究における希 少性において、新しい成瀬巳喜男論を組み立てる重要な根拠になる。人物の視線を通して 人物の感情を表現する「コンティニュイティ」が成瀬の演出だということは『めし』(1951)、

『浮雲』(1955)などに関する先行研究で述べられている。そして前章では撮影監督玉井正 夫の証言をもとに、〈すれ違い〉、〈背を向ける〉、〈振り向き〉などの登場人物の動作が成瀬 固有の演出であることを見出した。

本章では過去と現在の評価に差があると言われる作品『流れる』をその分析対象にして、

〈すれ違い〉、〈背を向ける〉、〈振り向き〉などの登場人物の動作に焦点を合わせて「コン ティニュイティ」を分析していく。

第1節 コンティニュイティとシナリオ

先行研究において成瀬映画のコンティニュイティ分析は「感情の表れ」が重要視されて いる。シーン転換、人物の視線の動き、人物の身体の動きなど、コンティニュイティを構 成している要素が、映画全体とどう関係しているかは、人物の感情がどう伝わるか、どれ ほど伝わるか、に言い換えることが出来る。『妻』(1953)の場面転換における「外と室内 の差」の分析でも、『山の音』(1954)における「人がフレームから消えて空になるショッ ト」の分析にも、その基準を人の葛藤と感情においている1。先行研究ではこういった人物 の対立や葛藤が成瀬映画のコンティニュイティ分析の対象となっている。

本論文で、先行研究の中でこれまで触れられていない玉井の証言を重要視しているが、

彼の証言では、『山の音』の境内のシーンが取りあげられている。そこでは尾形信吾(山村 総)と息子修一(上原謙)は菊子(原節子)をめぐって葛藤があり、対立している。玉井 が述べた成瀬固有の演出も、人物の葛藤と対立が前提になっているのだ。

ところが『流れる』のコンティニュイティ分析から分かることは、成瀬固有の演出と言 える視線を含む人物の動作が、必ずしも葛藤、対立などこれまでの「感情の表れ」に限ら れていないことである。

『流れる』の冒頭で注目したいのは、米子(中北千枝子)の娘不二子(松山なつ子)と 梨花(田中絹代)のコンティニュイティである。その内容は以下のようなものである。

1 スザンネ・シェアマン『成瀬巳喜男 日常のきらめき』、キネマ旬報社、1997 年、200-203 頁、207-216 頁。

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帳簿に問題があると勝代(高峰秀子)と言い争ってから出て行ったなみ江(泉千代)と 入れ替わるように「つたの屋」に訪ねて来た梨花は、職業安定所の紹介状を渡して、玄関 で待っている。そこへ、不二子が母、米子から小遣いをもらって外出するが、置屋の人間 ではない梨花が玄関にいるため出づらくなり、梨花と向き合うことになる。梨花はすぐ不 二子の気持ちを察知して、笑顔で不二子のゲタを出してあげる。不二子は最初、自分のこ とをずっと見つめている梨花を見ずにゲタを履いて〈すれ違って〉玄関から出て行くが、

この時、〈一歩歩いて〉梨花に〈振り向く〉。そして梨花と少し見つめ合ってから去って行 く【写真 3-1】。

【写真 3-1】置屋に初めて訪れた梨花と出て行く不二子。

(a)梨花(田中絹代)とすれ違ってから振り向く不二子(松山なつ子)。 a1 a2

このシーンのコンティニュイティは、これまで「感情の表れ」を中心に分析されている 先行研究の特徴から離れていると言える。『めし』での視線の演出を用いた「二人の冷たく なった関係」2の表現、『浮雲』での視線の演出を通す「確実な感動の体感」3などは、映像 に人物同士の感情のぶつかりが表れていることを意味している。そしてその感情のぶつか りは、前章で述べた 50 年代後半成瀬がシナリオ作家と作業することによって脱することが 出来た「成瀬調のジレンマ」4とも関係がある。シナリオ作家が脚本を執筆する 50 年代後半 の成瀬映画は、抒情性、日常性などの特徴はあるが、それ以上のものがない(「成瀬調のジ レンマ」)と批判されて来た彼の映画に、より深い人間が描かれるようになったと言われて いる5。つまり先行研究において「感情の表れ」を映像で巧みに表現する成瀬の演出が指摘 されているのは、脚本の中に人物の感情のぶつかりがはっきりと表現されている作品に限 る傾向があるのだ。

実際にスザンネ・シェアマンが著書『成瀬巳喜男 日常のひらめき』で感情が伝わる映 像の例としてあげている『めし』のシーンをシナリオで見てみる。

2 スザンネ・シェアマン『成瀬巳喜男 日常のひらめき』、キネマ旬報社、1997 年、181 頁。

3 阿部嘉昭『成瀬巳喜男 映画の女性性』、河出書房、2005 年、38 頁。

4 本論文第1章、12-13 頁。

5 同上、14-19 頁。

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初之輔が遅くなった里子を迎えに出た時、二人の親しげな姿を見た三千代は、帰宅を 待たずに無言で玄関のドアを閉める6【写真 3-2】。

【写真 3-2】初之輔を待っていた三千代は感情を表わす。

(a) 初之輔と里子を見て無言で玄関のドアを閉める三千代(原節子)。 a1 a2 a3

【『めし』のシナリオ】7

98 岡本の家・玄関―路地(夜)

三千代がたっている。

路地の向ママから初之輔と里子がよりそってあるいてくる。

三千代「……」

そのままプイと家の中へ入る。

人物の視線を通して、それぞれの感情が伝わるようにしたのは成瀬の力量であるが、こ のようにシナリオと引用された部分の映画を比べてみるとシナリオの役割もはっきりと伝 わってくる。それは阿部嘉昭が著書『成瀬巳喜男 映画の女性性』で例にあげた『浮雲』

のシーンの一部においても酷似している。

この作品の編集効果のうち、最もその技巧性が戦慄的だとおもえるのは、伊香保温泉・

加東大介の経営する飲み屋の二階で初めて、森・高峰・加東・岡田が一緒に会える場 面だろう8【写真 3-3】。

6 スザンネ・シェアマン『成瀬巳喜男 日常のひらめき』、キネマ旬報社、1997 年、181 頁。

7 田中澄江・井手俊郎「めし」『戦後傑作シナリオ集(キネマ旬報別冊)』1959 年 9 月、70 頁。尚、ここ では原文を横書きにし、昔の漢字は現代語にしてある。

8 阿部嘉昭『成瀬巳喜男 映画の女性性』、2005 年、河出書房、40 頁。

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【写真 3-3】「ボルネオ」での酒を飲むシーン。

(a) 左から清吉(加東大介)、おせい(岡田茉莉子)、ゆき子(高峰秀子)、富岡(森雅之)

四人が揃っている。

a1

【『浮雲』のシナリオ】9

47 「ボルネオ」の二階

(前略)

その胡床を組んだ足先が、おせいの膝に触れる。だが、おせいは火鉢に頬杖をつき膝 を崩して、炬燵に片手をさしこんだまま眠ったように動じない。

富岡は、左手を、布団の中へぐっと入れる。そして足先も触れたまま女の横顔をじっ と見つめる。

だがおせいは、静かにうなだれ、やがて、眼を閉じて動かない。

(後略)

富岡が恋人であるゆき子が隣にいるのにも関わらず、その日に始めて出会った他の女性、

おせいに惚れ込むシーンである。阿部はこのシーンにおける映像の流れを具体的に分析し、

画面に隠れている人物の視線のつながりまでを強調しながら、成瀬映画における「コンテ ィニュイティ」の卓越さを立証している。

このシーンは『映画読本成瀬巳喜男―透きとおるメロドラマの波光よ』10でも扱われてい るが、そこではシナリオを削って映像で表現する成瀬の演出について述べている。本章で 紹介する『浮雲』のシナリオの一部も映画では削られた部分に当たるが、成瀬がその部分 の内容を映像で表現出来るということは、阿部が力説した成瀬の視線の「コンティニュイ ティ」と共通する部分が多い。

ただシナリオと映画を比較分析してみると、このシーンでも、『めし』のそれと同様に、

9 水木洋子「浮雲」『年鑑代表シナリオ集 1955 版』、三笠書房、1956 年、23-24 頁。

10 田中眞澄・阿部嘉昭・木全公彦・丹野達弥編『映画読本成瀬巳喜男―透きとおるメロドラマの波光よ』 フィルムアート社、1995 年、134 頁。

42 シナリオの内容を前提した表現だと言えるだろう。

削られているシナリオで富岡はおせいに惚れている内容が書いてある。おせいは富岡と 肌が触れているのに、知らないふりをしていて、その後に起こる二人の不倫関係を暗示し ているのだ。人物の感情がシナリオに表れているからこそ成立する成瀬の卓越さなのであ る。

その点において、『流れる』の中で不二子と梨花がすれ違っていくシーンはこれまで成瀬 の先行研究のコンティニュイティ分析における「葛藤」がない。

ところが、映画全体の中でこのシーンを分析してみると、不二子と梨花の玄関のシーン は意味を持っていることが分かる。梨花は一昨年に夫、昨年に子供を亡くしているため、

ここで梨花が不二子を見つめることは、そのことと関係がある。不二子としての意味を分 析してみると、不二子はこの映画の中で、母にあまりかまってもらえない。映画の中で、

病気になった時におんぶして走ってくれたり、注射の時にいてくれたり、リンゴを買って くれたりする人は梨花しかいないのである。映画の最後には不二子自ら梨花に、絵本を読 んでくれと頼むまでの関係になるが、この冒頭の玄関での<すれ違い>が、二人の共感の 始まりになる。

「子供を亡くしたために他人の子供だが愛おしく感じる梨花」、「これまであまりかまっ てもらわなかったために、かまってもらう大人に興味を持つ不二子」といった「人物の心 情」が表れていることは、人物の感情が成瀬演出によって強調されるといる先行研究のそ れと類似していると言える。

また、これまでの「コンティニュイティ」の分析における人物の感情の表れがシナリオ から来る傾向があったことに比べて、『流れる』のこの場面のシナリオを分析してみると、

異なる特徴があることが分かる。

新しくお手伝いさんとして芸者の置屋「つたの屋」に来た梨花は、女将であるつた奴(山 田五十鈴)を玄関で待っている。その間に舞妓である不二子が外に出ていくというシーン のシナリオは以下のようになっている。

【『流れる』のシナリオ】11

7 玄関―八畳―六畳―風呂場

(略)

米子「そう……」

梨花の方をチラと見て二階へ行こうとすると、勝代とつた奴が降りて来る。

この間に、不二子は梨花をジロリと見ながら外へ出て行く。

つた奴「(米子から紙を受取り)山中梨花……(勝代に)上ってもらって……」

11 田中澄江・井手俊郎「流れる」『年鑑代表シナリオ集 1956 版』、三笠書房、1957 年、246 頁。

ドキュメント内 成瀬巳喜男論 (ページ 43-89)

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