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「御堂普請諸造用覚帳」は,まず寄進等 収入を示す「上り方覚」が記され,次に普 請にかかる出費を記した「覚」,最後に普 請の収支の集計が記されている。

「上り方覚」に記載されている寄進者を 見てみると,田貫村の住民だけでなく,

佐々江村,中佐々江等,田貫町の西,現在 の南丹市日吉町佐々江の住人が寄進して いることがわかる。また,白ヶ谷は,日吉 町佐々江白賀谷とみられ,「白ヶ谷の嘉兵 衛」も隣の佐々江村の住人であったと考え られる。

「宮の方木代」とあるが,この宮は白山 神社を指すと考えられ,白山神社境内の木 を売って得たお金を計上したと考えられ る。

普請にかかる出費を記した「覚」では,

物品の購入記録と,職人に対する人件費が 分けて集計されている。

物品の購入記録には,日付と購入した物 品が記される。これにより,手初め(工事 の着手日),木切り(木材の刻み),大工初 め,建前(上棟),石場付という普請の節 目にあたる日には,酒や肴が振る舞われて いたことがわかる。また,「さは(鯖)」「し らこ(白子)」「鰹」などを購入しており,

若狭から旧高浜街道を通って運ばれてき た海産物が,田貫村で食されていた様子も 見て取れる。

職人に対する人件費の記録では,観音堂 の普請を手がけた職人の名前も記されて いる。

大工は,栄吉と豊吉で,この大工は,「上 り方覚」にも「山の神森 六拾匁 大工  栄吉 豊吉」と名前が記されていることか ら,地元の大工である可能性が高い。白山 神社本殿の附として指定された,天明元年

(1781)及び2年(1782)の奉納木槌2 丁には,「若州高濱大工江上傳次郎」と若 狭大工の名前が見えるが,幕末の惣堂の建 築には地元の大工が関わっていたと考え られる。

木引は,伐採した木を適当な長さに切っ て木材にする職人で,宇兵衛に賃金を支 払っている。一方,杣日用の代金は70人 に支払っているが,杣は伐採する者,日ひ よ う用 は,切り出して集めた木材を運ぶ者をい う。木引,杣,日用と林業が分業化してい る様子が見られる。 

また,釘屋,杉皮50束の代金を支払っ ていることから,元治元年当時の屋根も現 在と同じ杉皮葺きであった事がわかる。

くろくわ

鍬6人の黒鍬は,近世では土木作業を 行う者を指す。家敷引,石場直しとあるこ とから,曳家をして,基礎を修理したと考 えられる。現在の観音堂の基礎はコンク リートで固められているが,柱は井桁に組 んだ土台の上に立っており,当初はこの土 台が礎石の上に載っていたため,比較的容 易に土台を持ち上げて曳家をすることが できたと思われる。

観音堂の地鎮祭は,「拾匁 中道寺 地 祭礼」とあることから,中道寺が執り行っ ていたことがわかる。ここに記されている 中道寺は,京北町上中の南光山中道寺のこ とである。白山神社の祈祷札に「別当 中道 寺 多門院」とあり,中道寺は白山神社の別 当寺であった。白山神社及び観音堂の維持

管理や運営は村人が行っていたが,地鎮祭 や護摩焚き等の宗教的な儀式は,中道寺の 僧侶が行っていたことが史料より見て取 れる。

元治元年に行われた田貫村惣堂の普請 事業の集計を見てみると,支出「四貫百匁 五分」に対し,収入は「三貫九百四拾八匁 六厘」に「百目 木代入 山神の森」と山 神の森の木を売った代金を加えたものと なり,最終的には「引残五拾弐匁四分四 厘」と,支出が収入を上回ったことにな る。集計は世話方の半左衛門が行った。

今回紹介した「御堂普請諸造用覚帳」か ら,田貫村における近世の惣堂の普請の様 子を垣間見ることができた。今後は,白山 神社に所蔵されている他の普請文書も合 わせて調査し,近世の惣堂の普請状況を明 らかにしていきたい。

謝 辞

本論の作成にあたり,白山神社総代(当 時)前西氏に多大な協力を得ました。ここ に記して感謝の意を表します。

1)森雄一「惣堂・村堂の存在形態-京都府和知町の 事例を通じて-」『日本建築学会計画系論文集』

第573号,2003年11月,141-146頁。

2)藤木久志『中世民衆の世界 -村の生活と掟』,

岩波新書,2010年5月20日,68頁。

3)熊本達哉「丹波地方における「堂」について -

「村堂」に関する基礎的考察-」『日本建築学会大 会学術講演梗概集』,1995年8月,135-136頁。

4)園部町教育委員会,『社寺類集』,1977年。

5)前掲1)及び3)

6)北桑田郡社会教育協会「高張りの由来」『北桑時 報』第237号,2000年,34頁。

写真4「元治元年 田貫村惣堂 御堂普請諸造用覚帳」

翻 刻  

   ・丁替わりは「」で示した。

「元治元年 田貫村惣堂 御堂普請諸造用覚帳

子夏始メ 世話方 半左衛門 萬蔵 喜三郎

上り方覚

佐々江村

一三百目 幸十郎

口々之上り

山ノ神森 大工

一六拾匁 栄吉

豊吉

白ヶ谷

一百六拾五匁九分五厘 嘉兵衛

水谷森

一百廿八匁六分五厘 吉之助

山本

一弐百壱匁五分 新之丞

蔵王ノ森

一五百弐拾五匁九分 徳助

奥森

一百七拾六匁八分 同人

柏弐本

一弐百拾弐匁五分 倉助

奥森 中佐々江

一四百目 小三郎

〆弐貫百七拾壱匁三分

子十月日

庄屋

一壱貫百三拾五匁 角左衛門

請取申候

庄屋

一百五匁 吉之助

喜三郎入

宮の方木代

一五拾匁五分 萬ヨリ賈

一五匁 同人

ゑめすの森

〆三貫四百六拾六匁八分

入札造用

一六拾五匁八分五厘 佐々江小十郎

檜賣造用

書付別有

四月十九日

堂普請

一三拾弐匁八分 相続度々

造用〆高

廿四日

酒肴共

一七匁五分 役人惣代

造用〆高

手初造用

一拾三匁 酒弐升

肴いろいろ

五月十九日

木切造用

一六匁五分 酒壱升

肴共

廿日

一拾三匁五分 酒弐升

肴共

廿一日

一拾九匁 酒三升

肴共

五月廿一日

一三匁 なわ壱束

同日

一壱匁八分 半し弐

廿二日

一六匁五分 酒壱升

廿三日

酒弐升

一拾三匁五分 さは三本

草さい

廿四日

一六匁五分 酒壱升

廿五日

一六匁五分 酒壱升

廿六日 大工初

一拾三匁五分 酒弐升

さは壱本

いろいろ

廿七日

一拾三匁五分 酒弐升

廿八日

一三拾弐匁 酒八升

同日

一七匁五分 大豆壱升

肴いろいろ

廿九日

一百弐拾弐匁五分 酒三斗六合

同日

一九匁 いろいろ肴 

五口〆

六月朔日

一百目 酒弐斗四升五合

同日

一拾匁 ふり焼

大弐本

同日

しらこ一升

一八匁 ろそく

しよやく

草さい

七月日

半左衛門

一拾五匁 堂願書

造用〆

同日

佐々江かじや

一拾壱匁 万力直し

ちん代

十一月二日 立まへ 一百六拾弐匁 酒弐斗七升

同日

一五匁 しよやく

いろいろ

ろそく

四日 石場ニ付前渡

一六拾匁 酒壱斗

同日

一拾弐匁 鰹大壱本

四月六日

一百八拾九匁 米六斗三升

六日 色々

一九拾三匁五分 酒壱斗七升

四月六日

一拾壱匁 □弐升

同日

一五匁 しよやく

いろいろ

同日

一弐匁 しようゆ

きわだ

十一月八日

一四拾四匁八分 酒八升

同日

一六拾七匁弐分 酒壱斗弐升

同日

一八匁 肴三貫

同日

一九拾匁 米三斗

十日 後勘定

一拾三匁五分 酒壱升

肴半分

一三拾五匁五分 新之丞払 〆壱貫三百弐拾六匁四分五厘

大工 栄吉 一壱貫三百目 豊吉

木引 宇兵衛

一三百五拾匁 杣日用賃

七拾人ニ渡ス

一五百六拾五匁六分 釘屋治衛門ヘ渡ス

杦皮五拾束

一四百目 定助渡し

半左衛門渡し

鍬黒(黒鍬)六人

一七拾八匁 家鋪引

石場直し

一拾匁 中道寺

地祭礼

一弐匁 いろいろ備物

一六匁 酒壱升

一五匁 さいの者

一拾弐匁 中道寺

はん代

惣代共

は ら と戸 喜き よ り代里(文化財保護課 文化財保護技師(建造物担当))

一拾五匁 同先住ゟ

頼銀進上

一弐拾匁 中道寺

丹後江帰り

ニ付進上

一弐拾匁 其節ちよ

ちん壱張

不失ニ付備

を以ニ相成

拾匁 中道寺様

ゟ胡麻段

檜壱本代

もらいニ付入

引〆弐貫七百七拾三匁六分 弐口合四貫百匁五分

内上り方

一三貫四百六拾六匁八分

壱貫目 庄屋

一百五匁 吉之助

一六拾七匁八分弐厘 口々之上り

別紙有

一三百八匁四分四厘  半左衛門

借用分

〆三貫九百四拾八匁六厘

引〆百五拾弐匁四分四厘

半左衛門極

一百目 木代入

山神の森

引残五拾弐匁四分四厘

建造物・美術工芸品

1.はじめに

養源院客殿は昭和61年6月2日に「養 源院本堂」として京都市指定有形文化財に 指定された。本報告は,平成27年度京都 市指定文化財修理事業として実施された 工事内容の紹介である。この修理実施中,

客殿を含む境内の主要な建造物が,平成 28年2月9日付けで国の重要文化財に指 定された。本報告での室名は,国指定時の 名称で記述をする。

なお,挿図とは別に,修理前後写真につ いては,文中に(写○)と示し,文末にま とめて掲載した。補修箇所調査図面・顔料 写真についても文末に掲載した。

養源院は,現在浄土真宗の寺院である が,昭和30年までは天台宗に属していた。

文禄3年(1594),浅井長政の長女淀に よって父の菩提を弔うために創建された が,元和5年(1619)に焼失し,同7年に 長政の三女,徳川秀忠室江によって再建さ れた。

客殿は,元和7年の鬼瓦が残っている点 や様式,手法からみて,元和再興時のもの と考えられる。入母屋造,本瓦葺の大型の 禅宗方丈型建築で,南面し,西面南寄りに 軒唐破風付入母屋造,本瓦葺の奥玄関が付 属する。平面は六間取形式で,中央は外陣 とその奥に仏壇を備えた内陣とし,更に背

面には槇之間が付き,両脇には各2室が配 され,四周に広縁及び落縁がまわる。内陣 の仏壇には本尊阿弥陀如来,浅井長政,歴 代将軍の位牌が祀られている。また内陣襖 の俵屋宗達筆「金きんじちゃくしょくまつず

地著色松図」,広縁杉戸 の宗達筆「表お も て し し う ら な み

獅子裏波ニ麒き り ん ず麟図」および

「表お も て し し う ら は く ぞ う ず

獅子裏白象図」は,重要文化財(美術 工芸品)に指定されている。今回修理対象 となった狩野山楽筆の唐獅子図(以下,本 図とする)は,仏壇の羽目板に嵌められた 3面の壁貼付絵である。 (千木良・安井)