―アイデンティティ研究の対象としての沖縄移民
第1章では、沖 縄 人ウチナーンチュアイデンティティがどのように形成されてきたのかをみてきた。
本章では、次章でクリチーバ市の事例に入る前に、沖縄において移民とはどのような存在 だったのか、どのように輩出されてきたのかを歴史的に追ってみていきたい。移民の歴史を 追った後、沖縄移民の分布を把握し、その上で、沖縄移民アイデンティティに関する研究を 概観していく。
1.本論文における沖縄移民の定義
はじめに本論における移民の定義をみていく。
日本における移民の定義として、沖縄移民の専門で地理学研究者である町田宗博による と、「1894(明治27)年の『移民保護規則』において従来用いられてきた『出稼ぎ』という 言葉から『移民』という言葉の使用に移行した」。そして「移民とは『労働ヲ目的トシテ外 国ニ渡航スル者』としている」「第2次世界大戦後、日本の外務省は『移民』の用語を改め
『移住』または『海外移住』の使用を始めた。これは移民という暗いイメージを改める意味 があった」1としている。日本において、はじめは「出稼ぎ」という言葉の使用が見られた が、その後、「移民」の言葉になり、第2次世界大戦後以降、「移住」という言葉に変換され ていった。
沖縄においての「移民」については『沖縄民俗辞典』2で次のように述べられている。移 民とは、「沖縄では通常、県内から日本国外へ移住し、かつ定住した沖縄系移民1世および その子孫を指し、日本本土への移住とは明確に区別される一方で、第二次世界大戦前の日本 の植民地への移住は移民に含める傾向にある。ほかに沖縄移民、沖縄系、県系人、琉僑、世 界のウチナーンチュなどの呼称も用いられる」。日本本土への移住、あるいは出稼ぎについ ては、移民とは区別されるとあるが、出稼ぎに出た背景、理由、出稼ぎ先での暮らし方、そ して本土での沖縄差別から移民の状況と共通する面が多くみられる。そのため、出稼ぎは、
移民と同様に扱われることもみられることを述べておく。
移民の定義が「労働を目的として外国に渡航する者」とすると、移民の始まりが変わって くる。一般的に沖縄では、地元紙などから1899年のハワイへの26名の契約移民を沖縄移 民の始まりとしており、本論文も基本的に移民の歴史を上記と同様に規定する。しかし沖縄 における移民の定義について、別の重要な見方もあることを述べておく。「人の移動」に視 点を据えた榮野川は「沖縄の移民-近代うちなーんちゅの移動の小史」で、移民の始まりは、
1町田宗博2006.「第二次世界大戦前の移民」与那原町史編集委員会『与那原町史 資料編1移民』与那原
町教育委員会.pp3-4.
2渡邊欣雄・佐藤壮広・塩月亮子・岡野宣勝・宮下克也編 2008.『沖縄民俗辞典』吉川弘文館.p36
27
1879年のいわゆる「琉球処分」前後にさかのぼっている。日本の強制的な「琉球処分」に 対し、中国清朝政府に請願するために政治的亡命、あるいは中国に密航した「脱清人3」と いう存在があったこと、あるいは日本本土へ渡り高等教育機関へ進学し、沖縄ネットワーク を作った留学生ら、また日本本土から米国へ移民していく者も含めて榮野川は移民と捉え ている。米国に住みながら沖 縄 人ウチナーンチュらは沖縄県人会を組織し、将来のために道を作ることを 希望し、沖縄の新聞記事に渡米を進める内容を掲載したり、移民を勧めることを目的に沖縄 に一時帰郷したりという動きがみられた。これらの事象を榮野川は、「渡航の目的が留学、
修学、農業視察、商業とされてはいるが、実質的には移民であったといえるだろう」4とし ている。
また国外への移民と、国内への出稼ぎは基本的に区別して考えるが、共通した面が多いた め、場合によっては合わせてみていくこととする。
2.沖縄移民の歴史と分布
それでは、沖縄移民の歴史をみていく。
主に沖縄県における沖縄移民の歴史とその背景をたどっていく。第2次世界大戦前の沖 縄移民は1899年、当山とうやまきゅう久三ぞうの斡旋によってハワイに渡った26名が最初であった。沖縄が 送り出した移民の実数は、広島、熊本に次いで3番目に多く、出移民率、海外在留者送金額 なども高い位置を占めていることから、全国有数の「移民県」とされる。
戦前の1923年(大正12年)から1930年(昭和5年)にかけての移民は、「ソテツ地獄」
5という特に困窮した時期と重なっており、ソテツ地獄によって押し出された人々の数を示 しているとされる。また、戦後の沖縄における海外移民は本土のそれよりも4年も早く再開 されている6。
1899 年から始まった戦前移民は移住する前の苦労と移住した後の苦労と二重の困難で あったという。戦後移民の特色は、『新沖縄文学(45 号/沖縄移民)』7の「石鼓」・「“移民 県”の現実」によると、ボリビア移民に見られるような政策移民と、近親者に呼び寄せられ
3 「脱清人」は、主に琉球国の支配階層の地位にあった一部の人や久米三十六姓という中国帰化人の子孫 たちで、琉球存続の危機を危ぶみ、琉球を救済するように清国に働きかけをする「琉球救国運動」を行 った人たちである。後田多敦2010.『琉球救国運動 抗日の思想と行動』出版舎 Mugen.に詳しい。
4駒井洋監修・陳天璽+小林知子 2011.『東アジアのディアスポラ』明石書店.p. 179
5 「第一次世界大戦後の世界恐慌期から世界代行好機の慢性的不況下における沖縄経済および県民生活の 極度の窮迫状況を意味する用語。沖縄近代史の歴史概念として定着した観がある。米はおろか、芋さえ も口にすることができずに、野生のソテツの実や幹(まずいうえに猛烈な毒性があり、調理をあやまる と死を招く危険もある)を食べてようやくにして飢えをしのぐといった悲惨な窮状をたとえてこう呼ん だ。」(執筆:西原文雄)参照:沖縄大百科事典刊行事務局編1983b.『沖縄大百科事典 中巻』沖縄タ イムス社.p.630
6鳥山淳 2004.「占領と移住・移民」『沖縄を知る事典』編集委員会編『沖縄を知る事典』日外アソシエーツ pp.62-63.
7新川明編 1980.『新沖縄文学(45 号/沖縄移民)』沖縄タイムス社.
28
る移民の2つに大別される。また特に政策移民の中に米軍の強制接収によって土地を奪わ れた人々が多く加わっていることだと述べられている8。
これらは沖縄近代 100 年の歴史を照らし出す重要な鏡として見落とすことができない事 実である。海外における移住者たちの生き方は沖縄の歴史のありようと密接に関わってい るのである。
(1)~(3)で戦前、戦中、戦後に時代区分した沖縄移民の歴史的背景、特徴などを、
そして(4)では沖縄移民の分布をみていく。
(1)戦前の沖縄移民(1899年-1941年頃)
沖縄移民の戦前期間を、「移民の父」と呼ばれる当山久三9の斡旋により始まった1899(明 治32)年12月出発、翌1900(明治33)年ハワイ到着の26名の契約移民から第2次世界 大戦勃発までの1941年頃とする。この約42年間の間に約7万3000人が移民している10
沖縄県の移民は、日本の第1回移民(1868年)から30年、また集団移民開始から14年 遅れて、1899年12月にアメリカに合併されたばかりのハワイへ県人初の移民26人が送り 出されたことに始まる(1900 年 1 月にホノルル港へ到着)。これは沖縄県当局や金武町き ん ち ょ うの 当山久三の力が大きかった。最初の移民はサトウキビプランテーションの農業労働者であ った11。
第2回移民は、1903 年、当山久三自ら出身地の金武町から 40名を農業自由移民として 引き連れてハワイへ渡った。金武では彼らの送金で瓦家を建て、田畑を買う家が増えたとい う。1904年はメキシコ、1905年にはフィリピンとニューカレドニア島、1906年にはペル ー、1908年にはブラジルへの移住が開始された。メキシコ移民は、炭鉱労働者として送り 出されたが、過酷な条件下で集団脱走が多数出るほどの惨状だったと当時の「琉球新報」が
「墨国移民の危機」という見出しで伝えている。フィリピンについては、はじめ、ルソン島 北部のベンゲット道路工事に導入される労働者として入植した。その後、ミンダナオ島ダバ オでマニラ麻園の開発のために太田工業が設立されたのに伴い、沖縄から大量の移民が送
8新川明編 1980.『新沖縄文学(45 号/沖縄移民)』沖縄タイムス社.p.13
9 1898年(明治31)に上京するも就職には恵まれなかった。ところが、東京の古本屋で移民の本にであ
い、移民について強い関心を持つようになる。同時に、当時自由民権運動を推進していた東風平村(こち んだそん)の謝花昇(じゃはなのぼる)の思想にも共鳴した。その後、自由民権運動が挫折したなどのこ とから、移民問題に情熱を注ぐことになり、1899年(明治32)には沖縄県から初めての移民をハワイへ 向けて旅立たせた。2回目の1903年(明治36)には、自らも引率してハワイに渡り、ハワイでは、半年 間滞在し移民の実情を調査して沖縄に帰ってきた。その後、久三は移民会社の代理人になり、多くの移民 をハワイや南北アメリカ大陸などに送りだした。1909年(明治42)の41歳の時には、沖縄県の第1回 県会議員にトップ当選したが、翌年、病死する。
10 ハワイへの契約移民30名がサツマ丸で那覇を出発したことがはじまりとなっている。翌1900年にハ ワイへ到着するが、1人は本土で、3名はハワイ到着して身体検査で不合格となり帰されている。
11石川友紀「沖縄と移民」新川明編1980.『新沖縄文学(45号/沖縄移民)』沖縄タイムス社. 153p