第3章では、クリチーバ市の日系人全体の歴史を把握し、その後、クリチーバ市に流入 した沖 縄 人ウチナーンチュに関する歴史に焦点をあてる。
クリチーバ沖縄県人会の背景・特徴を知るため、日系人と沖 縄 人ウチナーンチュの歴史とに分けて論じ る。戦後の日系人全体の歴史は、日系人も沖 縄 人ウチナーンチュも一緒に日系人会を組織し、協力しあっ てきたことは証言、記録によってみられる。その後、クリチーバ市の沖 縄 人ウチナーンチュが個として移 住したことをクリチーバ沖縄県人会のメンバーへのインタビューから見ていく。
クリチーバ市の日系人全体の歴史を見ていくに当たって、主にクリチーバ沖縄県人会の メンバーであるヤマシロ・ゼンショウ、ウエズ・ジョージら、またクリチーバ市の日系人 会のメンバーなどからの聞き取りをもとにしている。これらの聞き取りと併せながら、主 な基礎資料としてブラジル沖縄県人会の周年史、ポルトガル語による『歩み AYUMI』1、 その後新たに出版され同じくポルトガル語による『武士道BUSHIDO』(全3巻)2などを 参照してみていく。
日本人または日系人を指す呼称として、戦前の一部で明らかに日本人だと判断される個 所については「日本人」という表現を用いるが、基本的には「日系人」を用いることとす る。
1.クリチーバ市における日系人の歴史
クリチーバ市に日本人が居住し始めたのは、1915年である。しかし、それ以前に何名か の日本人がクリチーバ市を視察訪問している。1909年に徒歩で2人の熊本県人が到着し たのが最初の記録である3。1910年には藤崎商会サンパウロ支店長の後藤武夫と皇国殖民 会社の代理人の上塚周平、1911年には玩具の行商に訪れた村崎豊重(熊本県出身)とあ る。1915年に最初に居住したのは、東京外国語学校出身の杉山英雄(千葉県出身)、英国 船の船長だった松田新吾(福岡県出身)である。また1924年には「移民の父」と呼ばれ る皇国殖民会社の社長水野龍とその家族がクリチーバ市に移住している(パラナ日伯文化 連合会、2005)。1927年に水野の提唱で最初の日本人団体「宣化会」を創設した。
クリチーバ市の邦人調査が1933年に行われている。クリチーバ市内及び近郊在住者は 17家族となっている。最初の日系人団体として、1927年に「移民の父」といわれた水野
1 SETO, Cláudio; UYEDA, Maria Helena. 2002. 歩み Ayumi - caminhos percorridos: memorial da imigração japonesa – Curitiba e Litoral do Paraná. Curitiba: Imprensa Oficial do Paraná, (Depoimento a Cláudio Seto e Gilberto Hara. Curitiba, 20 de janeiro de 1995)
2 SETO, Cláudio; UYEDA, Maria Helena. 2009. BUSHIDO武士道 CAMINHO DO
GUERREIRO SEMEADOR 100 Anos de Presença Japonesa no Paraná VOLUME1. Curitiba-Paraná.
3牛窪襄1972.『パラナ日系60年史』パラナ文化出版社.サンパウロ州内において鉄道敷設工事を終えた
後、クリチーバ市でお金を稼ぎ、その後アルゼンチンへ移住している。
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龍によって「宣化会」が創設され、4代目まで続いた後、戦争のため解散となっている4。 1927年の日系人会の始まりについては、パラナ州日系人移民の歴史史料『武士道』や『歩 み』の記録では、1934年に最初の日本人組織「宣化会」が創設されたこととなっている。
その後、1941年「連合 日本人会」と改名されている。
戦後の日系人会は「友之会と も の か い」という名前で1946年8月11日に設立され、同年同月25 日には、2世を中心とした「ウベラーバ青年会」もできる。
当時のことを知るクリチーバ沖縄県人会のメンバーは、「小屋では、喜劇、悲劇などの 芝居をし、初回だけで小屋代(29コント)以上が賄えた。(2世 ヤマシロ・ゼンショ ウ)(『AYUMI』には10×6mとある)
〈写真 2〉クリチーバ市における戦後初の日系人会「友之会」のメンバーと「ウベラーバ青年会」のメン バー:松で建てた日系人会館を背景に(1946 年 11 月 3 日撮影か)
“A primeira sede do Tomonokai Em frente os jovens do Uberaba Seinenkai”
戦後、最初の会「友之会」と「ウベラーバ青年会」の若者たちが並んでいる。
4 “パラナ日本移民百周年への道程”刊行委員会編 2005.『パラナ日本移民百周年への道程』パラナ日伯 文化連合会.
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出典:SETO, Cláudio; UYEDA, Maria Helena. 2002. 歩み Ayumi - caminhos percorridos: memorial da imigração japonesa – Curitiba e Litoral do Paraná. Curitiba: Imprensa Oficial do Paraná, (Depoimento a Cláudio Seto e Gilberto Hara. Curitiba, 20 de janeiro de 1995) p.289
クリチーバ市に日系人が集まるようになるのは戦前よりも戦後に集中している。クリチ ーバ市に流入する要因は大きく3つのことがあげられる。
(1)クリチーバ市における日系人の流入―3つの要因
クリチーバ市への日系人流入の3つ要因をみていく。1つは第二次世界大戦が始まった ことにより、日本、イタリア、ドイツ人などは「敵性」外国人とみなされ海岸沿いから内陸 部への移動を余儀なくされたこと。2つめは、サンパウロ州から続く鉄道敷設がパラナ州に も延びており、パラナ北部に多くの日系人が住んでいた。北パラナから都市であるクリチー バ市に学校や仕事を求めて移り住むようになること。3つめは、1975年頃に発生した霜害 によって、コーヒー栽培などの農業が出来なくなった人が新たな職を求めて移り住んでき たことである。以下で詳述する。
①戦争による海岸沿いからの立ち退き命令
1943年、ブラジル政府は海岸線65km以内に居住する日本、ドイツ、イタリアの枢軸 国の「敵性」外国人の立ち退き命令を発布した。そのため、パラナ州内の海岸沿いにある カカツやアントニーナに居住する日系人は着の身着のままでクリチーバ市に転住してい る。立ち退き令がクリチーバ市に日系人が集まる原因となっている。
クリチーバ沖縄県人会メンバーのウエズ・ジョージによると、現在クリチーバに居住する 日系人は、パラナ州の海沿いのパラナグア辺り5に移住していた。その中に沖 縄 人ウチナーンチュもいた6。 上記同様に第二次大戦時、海沿いから山奥へ何十キロとしていされた以上離れるようにと のことで内陸側へと移動しクリチーバ市、その近郊へ移り住んできた人がいる。パラナグア から来た人たちは日本語が達者だったのが特徴だった。
②都市であるクリチーバ市への就学、就職の機会を求めて
ウエズによると、第二次世界大戦後、しばらくして1950~60年代になり、特にパラナ州 ロンドリーナ、カンバラー、マリンガーからクリチーバ市に就学、就職の機会を求めて移住 してくる日系人たちが増えていった。北パラナに住むようになったのは、サンパウロ州から 続く鉄道の敷設工事で働く人が住み着いていったことなどによる。
5 アントニーナも近い。
6 インタビューによると、伊波村出身の伊波松一ら家族は、サンパウロ州の海岸沿いサントスからパラナ グアへ移住していた。(2016年1月3日インタビュー)
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以下に地理学専門の丸山浩明によって作成された「サンパウロ州における邦人集団地の 分布(1926年)」(1926年版のサンパウロ州地図をもとに)をみると、鉄道の線路沿いに邦 人が集中分布しているのがわかる。
〈図 2〉サンパウロ州における邦人集団地の分布(1926 年当時)丸山浩明作成 出典:「ブラジル日本移民の軌跡 百年の「大きな物語」、p.142
丸山浩明編著『ブラジル日本移民-百年の軌跡-』、明石書店、2010年
図3にあるサンパウロ州における邦人集団地の分布は、第1回目の集団移民となった 1908 年の笠戸丸移民以降、1910 年代から開始されたノロエステ線やジュキア線の鉄道敷 設工事に伴い、線路沿いへの移住が起こった。サンパウロ州を越えた地域へ土地や就業、あ るいは、呼び寄せなどで転々と移住するなどして定着地域が広がったことにもよる7。
そしてクリチーバ市内の大学、学校を卒業した日系人学生たちが、そのままクリチーバ市 で就職し、定住するようになり、家族などを呼び寄せる人もいた8。
下記に付した「パラナ州日系家族分布図」をみると、パラナ州の北部に集中していること がわかる。
7『ブラジル沖縄県人移民史 笠戸丸から90年 1908~1998』、1巻、p131-132
8 パラナ州アサイー出身の日系2世のタムラさんによると、70年代には日系人はまだ数えるほどだった が、80年代から増加した。
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〈図3〉パラナ州日系家族分布図(1980年2月15日 MITSURU OGAKI作成)
出所:国会図書館所蔵資料
〈図4〉は、1980年に作成されたパラナ州の日系家族の分布図である。日系人は、クリ
チーバ市のほか、北西部のロンドリーナ市、アサイー市、マリンガー市、またはカンバラ ー市などの北部、そして海岸沿いのパラナヴァイなどに集中して居住しているのがわか る。
③1975年頃に発生した霜害
また、クリチーバ市に日系人、沖 縄 人ウチナーンチュが移動する大きな出来事があった。パラナ州の北 部は、赤土でコーヒーがよく育つ場所であった。しかし、1975年頃のひどい霜風でコーヒ ー栽培が出来なくなってしまった。コーヒー栽培が続けられなくなると、北パラナに住んで いた人々は、クリチーバ市や北はマットグロッソ州、ゴイアス州、サンパウロ州、南はサン タカタリーナ州などの町に移り住んでいった。
以上のように日系人がクリチーバへ移動してきているのがわかる。
(2)日系人組織の変遷
クリチーバ市の日系人組織は、戦争をきっかけに、分裂の動きとまとまりの動きの双方 がみられる。これらを①戦後の「勝ち組」「負け組」問題による影響と②クリチーバ学生 連盟による日系人組織の歩み寄りの促進とに分けて以下でみていく。
①戦後の「勝ち組」「負け組」問題による影響