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95 歳

ドキュメント内 Aging&Health No.84 light (ページ 32-36)

和18年の秋頃から負け戦が続いて、この大型機を副 操縦士と無線通信員1人ずつ抜きの5人編成で行うこ とになった。

 「通常、副操縦士を経験してから正操縦士になるは ずだったのが、いきなり正操縦士、キャプテンですよ。

敵艦に魚雷を落とすのも操縦士です。甲板の上の大砲 は下を向かないから、敵艦のすぐ前まで海面3メート ルの超低空で近づいて魚雷を落とす電撃作戦を行って いました。敵艦からは雨あられのように弾が飛んでく る。それを避けるテクニックが『横滑り』といって、

機体を横にスライドさせる。体がちぎれるような強烈 な横Gがかかる、とても危険な操縦法です」

 魚雷が当たるのは2割くらい。しかし、10機飛び立 ったら、半分の5機は帰って来られなかった。とても 割に合わない作戦だ。

 「僕が死んだら乗組員も死ぬ。何としても生きて帰 って来ようと、部下に『絶対に殺させない。遺書は書 くな』といっていました」

 「終戦のときにはとうとう鹿児島の基地には僕の飛  東京・赤坂溜池に髙橋病院を持ち、霊

南坂に本宅、大森、箱根などに別荘を構 える裕福な家庭で、大森の生家には硬式 テニスコートがあった。目黒の競馬場に も馬を所有していたという。

 髙橋さんは子どもの頃から模型飛行 機づくりに夢中になるなど、大の飛行機 好き。16歳のときに新聞社が主催する グライダーの講習会に参加し、初めて操

縦体験をした。それからパイロットになることを心に 決めた。

 「どうせ大学に行っても20歳で徴兵検査を受けるこ とになる。それならと海軍飛行予科練習生になろう。4、

5年経ったら民間のパイロットになると考えていまし た。当時、予科練に入るには大変な倍率で、本気で勉 強したのはその時でした。おふくろは『どうせ音を上 げて1、2か月で戻ってくる』と思っていたようです」

 翌年、太平洋戦争が始まって状況は一変した。

 乗ったのは一式陸上攻撃機という翼の長さは25 メートル、胴体が20メートル、重さは15トンと、海 軍一の大型攻撃機。YS11を少し小ぶりにした大きさだ。

 乗組員は操縦士、副操縦士、ナビゲータをする偵察 員、整備員、無線通信員2人、そして一番後ろで機関 銃を構える兵士の計7人が本来の編成だ。しかし、昭

2003年11月、茨城県上空を飛ぶ髙橋さん

を書く操縦、天然記念物のトキを運ぶ 仕事などさまざまな仕事をしてきた。

 日本飛行連盟が軌道にのった1963年 に飛行機を使った災害援助をボランテ ィアで行おうと、日本赤十字社本社直 轄の特殊奉仕団である赤十字飛行隊を 設立した。髙橋さんは現在この隊長で もある。

 「2016年の熊本地震のときにはいち 早く出動して被災地に救援物資を届け て大いに感謝されました。隊長の命令 一過、すぐに対応できるため、自衛隊よりも1日早く 動けました」

 パイロットには毎年「航空身体検査」があり、これ をパスしなければ操縦を続けることはできない。大き な病気がないか、視力や聴力の検査もある。視力は裸 眼で0.7以上を求められるが、髙橋さんは1.0の視力を 維持していて、検査数値もここ10年変りはなく、毎 年パスしている。

行機1機だけになりました。予科練同期の840人はわ ずか100人少々です。出撃前に敵機だらけの空を見て、

『今日は危なそうだ』といった人や、遺書を書いてい た人は生還できませんでした。なんとなく出撃前にわ かるものです。すでに精神的に負けてしまっていたか らでしょう。

 よく『運がいい』といわれますが、運は待っていて も来るものではありません。最善を尽くすから来るも のです。パイロットはパニックになったら終わりです。

精神力が強くないといけません」

 米軍はパイロットの体を守るために防弾設備がしっ かりしていたが、日本の海軍は機体を軽く性能をぎり ぎりまで追求したため防弾設備はなかった。

 髙橋さんの飛行機は何10発も被弾したものの、エ ンジン、燃料タンク、乗組員には被弾せず、墜落は免 れた。

 終戦後、連合軍は航空禁止令を出したため、23歳の 髙橋さんはパイロットとしての仕事はできなかった。

1952年にこの禁止令が解除されたため、翌年、予科練 の仲間と日本飛行連盟を設立して、セスナ機でパイロ ットの養成を始めて、髙橋さんは教官として働くこと となった。

 49歳のときに日本飛行連盟を辞めて、フリーのパイ ロットになった。映画撮影のための飛行機操縦、地図

を作成するための写真撮影、広告用に飛行機で絵文字

「せっかく生まれてきたのだから、死ぬまで進歩したい」

「安全第一」が何より。乗る前に機体を入念にチェックする

できたのは1、2回でしょう。

 ベテランとアマチュアの違いは何でしょうか。飛行 時間の長いベテランといわれる人が事故を起こすと、

大きな事故になります。自信を長年持っていると過信 になるからでしょう。

 50歳の頃から 飛行機の神様 といわれていました が、ある日、着陸するとき思い通りにいかなくなって、

自分のあらが見えてきました。たぶん、もう1人の自分 がここにいて、冷静に『こっち、あっち』とアドバイス してくれているのでしょう」と頭の後ろに手を当てた。

 「何でそんなに反省するのかって? そりゃあ、進歩 したいからですよ。せっかく生まれてきたんだから、

僕は死ぬまで進歩したいのです」

 アメリカでは当たり前だが、素人がつくった飛行機 というのが日本にもある。それを操縦するのがテスト パイロットの仕事だ。髙橋さんはこの仕事も数多くこ なした。

 「そば屋の親父や大工の棟梁が見よう見まねでつく った飛行機だから、設計図を入念にチェックして飛ぶ 前に滑走路を行き来して、機体のクセを知ったうえで 飛ぶ。友人からは『そんな仕事は危険だから辞めた ら』と何度もいわれたけれど、それも操縦の怖さ半分、

楽しさ半分と結構気に入ってやっていました。

 ただし1度だけ、機体を組み立てたあとに設計図を 書いたと知ったとき、肝を冷やしたことがあります」

 息子さんは測量会社で地図づくりのパイロット、そ の奥さんもキャビンアテンダント、お孫さんは来年か ら航空会社の乗員養成に入ることが決まった。医師の 家系は飛行機の家系に変わった。

 「飛行機は女性を扱うように丁寧にが基本です。フ ランス語でも飛行機、車、船はみんな女性名詞です。

4人乗りのセスナ機は大学出たての純心なお嬢さんで、

無理がききません。6、8人乗りのベンツ級の飛行機は 35 〜 40歳のお金持ちの未亡人、アクロバット飛行を するような飛行機は10歳代のじゃじゃ馬娘のような ものです。

 それぞれの性格をわきまえて余裕を持って操縦しま す。100%でものごとをやったら続きません。80%を 確実にやれば満点でしょう。無理をしてはいけません。

時間にゆとりがあるのなら90%や100%をめざすこと もできるのですから」

 「パイロットの練習には飛行機代、指導料と大きな お金がかかります。それでも練習が終わって『今日は 楽しかった。ありがとう』といわれるのがプロの仕事 です。銀座のクラブに飲みにいけば、何万円というお 金がかかりますが、それでも客から『楽しかった。あ りがとう』といわれる。これがプロの仕事です」

 「空を飛ぶという好きなことして生活ができたこと は幸せです。好きでなければいい仕事はできません」

といって颯爽とした足取りで去っていった。

 

●写真/丹羽諭 ●文/編集部

颯爽とした足取りで去っていった

豊かな自然に恵まれながらも

限界集落 から「廃村」の危機へ

 宮崎県の山間へき地にキラリと輝く村がある。宮崎県 の中央西端にある西米良村は、総人口が1,190人(2017 年9月1日現在)と、宮崎県内では最も少ない自治体であ る(

図1

)。ここ30年間で人口は40%近くも減少して、

まさに 限界集落 の危機を迎えていた。

 宮崎市から古墳群で知られる西都市の平地を抜ける と、急峻な山々の間をぬうように一ツ瀬川が流れ、それ に沿って国道219号を車で走ること約2時間、ようやく西 米良村に入った。

 人口減少は日本全体の傾向でもあるが、特に山間へき 地の減少速度は速く、高齢化の波も加わってどこの地域 でも深刻な問題となっている。

 ここ西米良村は面積の96%が森林の山間地域で、北に 1,000メートル級の米良三山(市房山・石堂山・天包山)

を臨み、中央を流れる一ツ瀬川は急流、清流、ダム湖と 表情を変える。

 木炭生産の日本一を誇っていた昭和初期(1943 〜 44 年頃)には人口約8,000人を数えていたが、1963年のダ ム建設完成に伴い、一部の集落が水没して人口は激減。

その後も減少傾向は止まらず、1994年の将来人口予測で は2010年には人口748人になると推計されて、村に衝撃 が走った。このままでは「廃村」を免れない現実が目の 前に現れた。

市町村合併の流れの中

村びとは「自立の道」を選択

 「平成の大合併」といわれた2003年には近隣の自治体 が合併に向けた「一ツ瀬川流域任意合併協議会」が発足 した。ところが「合併意向アンケート」を村が村びとに 実施したところ、「合併しない方がよい」が約8割に達し た。これを受けて村は自立の道を歩む覚悟を決めた。

ドキュメント内 Aging&Health No.84 light (ページ 32-36)

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