a.解剖,病態,わが国の現状
歯科の二大疾患はう蝕(むし歯)と歯周病であり,それ ぞれを引き起こす口腔細菌種によって生じるとされている
(図4,5).う蝕はおもに,グラム陽性通性嫌気性菌である
Streptococcus mutans
をはじめとしたミュータンスレンサ 球菌種によって引き起こされ429),歯周病は,Red complex
と 称 さ れ るPorphyromonas gingivalis
,Treponema denticola
,Tannerella forsythia
をはじめとした複数のグ ラム陰性偏性嫌気性菌種の混合感染によって引き起こされ ることが知られている430).図4にう蝕の進行(健全,
C1
~C4
)を模式的に示す.歯は歯冠と歯根から成り立っており,歯冠の表層にミュー タンスレンサ球菌を含む歯垢が付着することでう蝕の発症 が始まる.歯垢中のミュータンスレンサ球菌は砂糖を代謝 して酸を産生し,それによって表層のエナメル質の脱灰が 生じてう蝕が発生する.エナメル質の脱灰が進み溶解する と,内面の象牙質が露出し疼痛が生じるようになる.さら に,う蝕の進行により象牙質が崩壊すると,歯髄腔と称さ れる歯髄(神経)と毛細血管に富む組織が露出する.この 状況下では,常時口腔細菌が血液中に侵入できるようにな り歯髄が感染を起こすとともに,進行に伴い根尖(根の先)
に壊死組織が集積した膿瘍を形成するようになる.また,
う蝕がさらに進行して歯冠の崩壊にまで至ると,歯髄腔の 露出は広範囲になり口腔細菌の血液中への侵入がさらに容 易となる.
図5に歯周病の進行(健全,歯肉炎,歯周炎)を模式的 に示す.歯周組織は,歯肉(歯ぐき),歯を支える歯槽骨,
歯根を覆うセメント質および歯槽骨とセメント質との間に
存在する歯根膜から構成されている.歯周病は,これら歯 周組織に発症し破壊が生じる疾患の総称であり,おもに歯 肉炎と歯周炎に分けられる.健常な状態から歯肉炎の進行 に伴って歯肉が強く腫脹し,仮性ポケットと称される見か け上の歯と歯肉の隙間が形成される.この状態では歯ブラ シの刺激などにより出血が生じ,口腔細菌が血液中に入る ことが可能となる.さらに炎症が進行すると,歯肉と歯根 との間を結合している上皮に破壊が生じて根の先に向かっ て破壊が進行することで,真性ポケットと称される隙間が 形成される.このポケットの深化に伴い,より病原性の高 い嫌気性菌が有意に増殖する環境が醸成され,ポケット内 の環境に変化が生じる.そして,炎症性変化あるいは細菌 成分の直接作用により,上皮細胞が剥離脱落することで潰 瘍が形成される.その結果,口腔細菌が常時血液中に入る ことが可能になる.
菌血症を起こす歯科処置としては,出血を伴ったり根尖 を越えるような侵襲的な歯科処置があげられ,そのうち抜 歯がもっともよく認識されている431).また,出血を伴う口 腔外科処置やインプラント治療,歯石の除去(スケーリン グ)なども菌血症を誘発する処置として認識されている.
さらに,感染根管治療(歯髄腔内や歯根の先の壊死組織を
除去する処置)も菌血症を起こす処置の
1
つとして考えら れているが,抜髄(神経を取る処置)は歯髄腔への感染が ないため,菌血症を伴う処置としては認識されていない.非感染部位からの歯肉への局所麻酔や,出血を伴わない充 填(詰める)や修復(被せる)処置も菌血症を生じるリス クは低い431).デンタルエックス線撮影,歯科矯正処置,
口唇・口腔粘膜の外傷処置も低リスクである.
一方で,日常生活における咀嚼やブラッシングでも出血 することがあるため,菌血症が引き起こされうる432).口腔 内の衛生状態が悪い場合はより菌血症が引き起こされやす いと考えられている.したがって,日常の口腔衛生状態の 管理は菌血症の発症を抑制するうえできわめて重要であ る.う蝕や歯周病に罹患して菌血症を引き起こす状態に なっていても,自覚症状に乏しいため歯科受診されず,未 治療のまま放置されている症例も存在するため,注意が必 要である.
菌血症が誘発される状態になると,口腔に存在する
IE
の原因菌が血液中に入る環境が整うことになる.原因菌 のうち口腔由来のものとしては,口腔レンサ球菌種がほ とんどであるとされている433, 434).主要な細菌として,Streptococcus sanguinis
などのmitis group
のレンサ球菌表24 IE高リスク患者における,各手技と予防的抗菌薬投与に関する推奨とエビデンスレベル
抗菌薬投与 状況 推奨
クラス
エビデンス レベル 予防的抗菌薬投与を行うこ
とを強く推奨する ・歯科口腔外科領域:出血を伴い菌血症を誘発するすべての侵襲的 な歯科処置(抜歯などの口腔外科手術・歯周外科手術・インプラ ント手術,スケーリング,感染根管処置など)
・耳鼻科領域:扁桃摘出術・アデノイド摘出術
・心血管領域:ペースメーカや植込み型除細動器の植込み術
I B
抗菌薬投与を行ったほうが よいと思われる
・局所感染巣に対する観血的手技:膿瘍ドレナージや感染巣への内 視鏡検査・治療(胆道閉塞を含む)
・心血管領域:人工弁や心血管内に人工物を植え込む手術
・経尿道的前立腺切除術:とくに人工弁症例
IIa C
予防的抗菌薬投与を行って もかまわない.ただし,IE の既往がある症例には予防 的抗菌薬投与を推奨する
・消化管領域:食道静脈瘤硬化療法,食道狭窄拡張術,大腸鏡や直 腸鏡による粘膜生検やポリープ切除術,胆道手術
・泌尿器・生殖器領域:尿道拡張術,経膣分娩・経膣子宮摘出術,
子宮内容除去術,治療的流産・人工妊娠中絶,子宮内避妊器具の 挿入や除去
・心血管領域:心臓カテーテル検査・経皮的血管内カテーテル治療
・手術に伴う皮膚切開(とくにアトピー性皮膚炎症例)
IIb C
予防的抗菌薬投与を推奨し ない
・歯科口腔外科領域:非感染部位からの局所浸潤麻酔,歯科矯正処 置,抜髄処置
・呼吸器領域:気管支鏡・喉頭鏡検査,気管内挿管(経鼻・経口)
・耳鼻科領域:鼓室穿孔時のチューブ挿入
・消化管領域:経食道心エコー図・上部内視鏡検査(生検を含む)
・泌尿器・生殖器領域:尿道カテーテル挿入,経尿道的内視鏡(膀 胱尿道鏡,腎盂尿管鏡)
・心血管領域:中心静脈カテーテル挿入
III B
IE:感染性心内膜炎
図4 う蝕の進行と菌血症の発生
健全 C1 C2 C3 C4
歯冠
歯根
エナメル質 象牙質 歯髄腔
口腔細菌
神経と血管が露出 口腔細菌
根尖
健全 歯肉炎 歯周炎
歯肉 セメント質
歯根膜 歯槽骨
口腔細菌 口腔細菌
口腔細菌
出血部位では 毛細血管が露出
歯周ポケット部に 毛細血管が露出
図5 歯周病の進行と菌血症の発生
真性 ポケット 仮性
ポケット
種が知られているが,う蝕の原因菌である
mutans group
のレンサ球菌種であるStreptococcus mutans
もその1
つで あることが報告されている435).一方で,IE
患者の血液か ら主要な歯周病原性細菌種が分離されることはきわめて少 なく,Aggregatibacter actinomycetemcomitans
のような 限られた菌種に関する報告が存在するだけである436).こ れは,血液中の酸素分圧が偏性嫌気性菌の生存には不利 であることに起因していると考えられる.わが国における予防的抗菌薬投与の現状を把握するため に,
2016
年12
月に兵庫県の歯科医師会の協力のもと会員 に対して郵送方式でアンケート調査を行い,経験年数が20
年以上の一般開業歯科医の回答を集計した437).その結 果,歯科治療時にIE
の予防目的で抗菌薬を投与するとい う回答は約半数に過ぎなかった.心疾患の既往のある患者 すべてを予防投与の対象としていたのが約2
割,高リスク の患者のみを対象としていたのが8
割であった.抗菌薬の 投与方法として,回答したほぼ全員が経口投与を選び,そ のうち6
割がアモキシシリンを選択していた.アモキシシ リンの用量として,前版のガイドラインに準じて成人で2.0
g
としたのが2
割,小児で体重1 kg
あたり50 mg
としたの は1
割にすぎなかった.また,予防投与の決定をするうえ で参照するものとして,ガイドラインをあげたのは約半数 にすぎず,今後ガイドラインを歯科医師へ広く啓発してい くことが必要と考えられた.b.抗菌薬投与量について
IE
が歯科処置による菌血症によって惹起されることは古 くから指摘されてきた438).血液中に進入した細菌は肝臓な ど細網内皮系組織によりすみやかに血液中から除去され,多くは数分後に血液中から消失するため,「一過性の菌血 症」とよばれる.歯科処置に伴う菌血症の発症率は,抜歯 などではほぼ