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青年への奨励金を示す。また右上に年齢の付された人名は少年仲乗者でその配当分を、やんちゃ一人二分は船中幼少者全体への配当が一人二分であることを示し、その後に続く人名はその該当者と年齢である。最後の竹次郎四分徴兵は兵役中で配当四分を受けていることを示す。次にあげるのは、富久丸の大正六年夏海の最初の漁期である五月五日から六月十七日までの八航海分の船中員配当(当たり)一人分百五円三十七銭五厘の六月十七日の支払い額である。

(一一一)大正六年夏海初漁当h/部一金九十二円九銭一金百四十一円九十九銭一金五十三円六十五銭五厘一金八十一円六十五銭五厘一金百十三円八十銭五厘一金七十一円六十五銭五厘一金七十円八十五銭五厘一金百四十三円一一一十一銭一金百十三円八十銭五厘一金七十一円六十五銭五厘一金百四十三円三十一銭一金七十円六十五銭五厘一金七十一円六十五銭五厘一金六十六円二十一銭 一人二分士ロ蔵一一人与平七分向友父七分浅友母一人四分与圭口安太郎於だけ一一人角や吉太郎よめ-人四分虎土ロ本人茂助辰於てる一一人徳右衛門念ょ七郎庸於碧彦辰於とく作ふさ

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金金金金金金金金金金金金金:金金金金金金金金 七十一円六十五銭五厘百四十二円八十一銭七十一円二十七銭五厘七十一円六十五銭五厘七十一円六十五銭五厘七十一円六十五銭五厘七十一円二十九銭五厘六十九円六十七銭五厘百十三円八十銭五厘百四十三円三十一銭七十円五十七銭二百三十六円四銭二百八十五円四十四銭二十九円四十七銭百七十九円四十五銭六十八円七十九銭五厘百二十九円八十一銭九厘百六十一円四十八銭五厘百五十一円十銭二百五十二円三十五銭五厘六十九円六十二銭五厘 友金於たつ二人竹右衛門乎二郎圧太郎母春士口於やす銀作母士同母平圭向本人床国於とと一人四分大即兼於ふさ一天半右衛門母新平於こと一一一人二分金右術門於はる一一一人六分船木一参御休兼母二人五分利圭ロ本人ャ梅圭口於うの一人九分角松本人二人大分彦右衛門於とみ二人一分平二郎本人一一一人四分角蔵母梅圭口於寵す

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一〆一一一一一一一一一一一一一一一一一一一 金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金 百九十七円九十五銭百五十三円四十五銭五厘百六十七円五十四銭百八十七円六十八銭七厘七十一円六十五銭五厘百七十六円四十五銭六十円三十七銭五厘五十円八十三銭五厘二百七円二十一銭五厘百二十六円六十五銭二十九円七銭三十一円六十一銭八百十三円七十銭六十九円七十七銭五厘二十円九十銭五厘百三十九円五十五銭五十八円十四銭五厘九十一一一円三銭五厘四十三円六十八銭六千五百三十八円五十七銭四十円九十五銭 一天八分虎右衛門本人二△分彦右衛門本人二人一場 -1 小ノー人七分文圭ロ本人二人一一一分秋兼母七郎常於たつ直圭口於たつ三人半平於きん一人一一分やんちゃ二分五厘孫舟一一一分焼津屋徳母八人大船舟本六分若者一一一人機械分一人一一分機関士五分ワヅチ料八分船頭船長五分船

のこり金

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一人当たりの配当は百五円三十五銭だが、ほとんどがそれ以下の支給額である。当時は決算日以前に配当金の一 部前払いの慣行が一般的であった。そして配当の受取り人には、本人が航海中のため、妻・母・嫁など女性家族が

なっていることもまた興味深い。

前資本主義時代の利益分配制度は、経営主体が船中だったことから再生産費である割と、共通費である分一を控 除するだけの単純なものであった。はじめから船中外部へ支払われるのは魚商の手数料だけであった。その後生産 規模が拡大し外部資本が参入すると、出資金の回収を確保するために、手数料・組合費。積立金。割あるいは船穂 ・分一など控除項目が細分化され先取りされた。利益からの先取り控除費は、船中経営時代の再生産費留保から投

下資本確保へと性格を変えて存続した。

船中が外部参入資本との間で漁船共有形態をとったこともこれを補強した。本来漁携者集団であった船中は、出 資法人へ参加したことによって外部資本へ大幅に協力する結果をまねくことになった。諸項目を順次控除して残余 を人件費にあてる分配方式は、資本の再生産を優先させるものである。しかし形式的にはともかく実質上は船中内

(こ拙稿「明治大正昭和初朝における静岡県焼津の鰹漁扮組織」法政大学教養部紀要第五九号社会科学編昭和六

一年九五’一三八頁。(二)「大正六年夏海当り帳」近藤久一郎氏蔵。(三)「大正六年夏海当り帳」近藤久一郎氏蔵。

六結語

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