4 各国におけるマイナス金利政策の効果と副作用
4.4 ユーロ圏の制度
4.4.1 概要と経緯
ユーロ圏では、物価の安定が経済成長や雇用の増大に資するとの考えの下、金融政策の第 一義的な目的を「物価安定の維持」に置いている。ただし、欧州中央銀行(ECB)は物価安 定の目的に反しない限りにおいて、欧州共同体の全般的な経済政策(経済成長や雇用の増大 等)を支持することになっており、物価の安定とは「2%未満であるがその近辺(below but close to 2%)」と定義されている17。
ECB は、前章のリクスバンクと同様のコリドーモデルにより、3 本の政策金利を用いて金 融政策運営を行う中央銀行である。この 3 本のうち金利水準が最も低く、事実上市場金利の 下限となる政策金利である預金ファシリティ金利を、2014年6月に初めてマイナス圏内に引 き下げた。ただし、ECBの金融政策運営は、政策金利の変更のみを単独で行うものではなく、
様々な手段を組み合わせて進めてきている。預金ファシリティ金利のマイナス圏内への引き 下げも、そのような政策パッケージの一環に過ぎない。
2007年以降、欧州中央銀行(ECB)は金融危機、ユーロ圏債務危機、そしてデフレ懸念と 次々に新しい問題に直面し、事態打開のために様々な非伝統的金融政策繰り出してきた。こ れまで述べてきた欧州諸国に対する影響力も大きいECBの金融緩和政策の発端は、リーマン ショックを契機とした世界的な金融危機と急速な景気の悪化に直面して、大幅な利下げを実
17 Definition of price stability - European Central Bank 1.00
1.10 1.20 1.30 1.40 1.50 1.60 1.70
2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016
(CHF/EUR)
32 施したことから始まる。リーマンショック後の金融緩和は世界的な規模で足並みを揃えて実 施され、財政政策や景気刺激策も協調的に実施されたため、比較的立ち直りは早かった。
しかし、ユーロ圏諸国では、2009年に浮上したギリシャの財政懸念をきっかけにギリシャ 国債の利回りが急上昇すると、それがポルトガル、イタリア、アイルランド、スペイン、に も次々と波及し、各国の国債利回りが急上昇した。世界金融危機において金融・財政部門の 改善が自国の力のみでは達成出来ない可能性のある諸国を総称して、「PIIGS18」という言葉ま で生まれて、欧州債務危機と呼ばれる状況に陥った。
これに対してECBが非伝統的金融政策として先ず行ったのは、銀行が求めるだけの資金を 貸し付ける貸付金額に制限を設けない資金供給オペだった。それまでの、資金供給オペの金 利は入札制となっていたが、銀行の資金調達コストを抑え、銀行が必要な金額すべてを借り られるようにするという配慮から、リーマンショック後には固定金利で実施するようになっ た。
更に、ユーロ圏の銀行に対する資金供給を一段と強化すべく、2011年12 月と2012年2月 の 2 度にわたって金融機関向けに資金供給を行った。それまで、長期リファイナンス・オペ レーション(Long-Term Refinancing Operation:LTRO)は、期間3ヶ月物の回数を増やし たり、徐々に 6 ヶ月、1 年と期間を延ばしたりして対応していたが、この時には異例とも言 える期間 3 年を 1%の固定金利で供給すると発表した。このアナウンスメント効果とも相ま って、金融市場は急激な信用収縮状況から脱却し、欧州系金融機関の短期の資金繰りの改善 に大きく寄与した。
そして2012年8月には国債買取りプログラム(OMT:Outright Monetary Transactions) の実施を発表した。同プログラムは、財政再建に取り組むユーロ圏各国の国債利回りが(実 際の財政状況から大きくかけ離れて)急上昇した場合、「自国の国債を買い取って欲しい」と いう申請があればECBが流通市場で無制限にその国債を購入するという仕組みである。この
「国債買取り金額に制限を設けない」という決定は当時の市場評価も高く、国債利回りの急 上昇に対して「打つ手なし」という状況を起こらないようにした点は力強い支援となった。
ユーロ圏の国債利回りはECBが「あらゆる手段を講じる」とのスタンスを示したことにより ピークアウトする。これについては複数の要因が指摘できることは当然ながら、直接の契機 となったのはECBの発表であり、大きな役割を果たした。
その後、喫緊の危機は脱出したかに見えたが、加盟国の多くが財政健全化に取り組んだ代 償として、ユーロ圏の内需はいったん大幅に落ち込むことになる。それに伴う内需ギャップ の存在が原因となり、今度は消費者物価上昇率の低下というデフレ懸念が2013年末頃からの 新たな問題として台頭する。
2014年に入ってからもユーロ圏の物価上昇率の低下傾向に変化が見られなかったため、同 年6月にECBは追加利下げを決定し、主要オペ金利を0.25%から0.15%へ引き下げた。同時 に、市場短期金利の下限となる中央銀行預金金利を 0%から▲0.1%へ引き下げ、初めてマイ ナス金利政策が採用された。
その後もユーロ圏の消費者物価上昇率は低下を続けたため、ECBは2014年9月に追加的な 金融緩和措置を決めた。先ず、主要オペ金利を0.05%へ引き下げ、中央銀行預金金利を▲0.2% へ引き下げる追加利下げを実施した。また、金利の更なる引き下げが難しくなった中で、「追 加的な金融緩和措置はまだある」として、資産買取りを通じたECBのバランスシート拡大策
18 ポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペインを指し、夫々の国の頭文字をとった総称。PIIGS からアイルランド(若しくはイタリア)を抜いてPIGSと呼ぶ場合もある。
33
(=量的緩和政策)に踏み込むことを予告した。ユーロ圏の銀行に対する資金供給措置につ いても更なる拡充を図るべく、貸 出条件付きの流動性供給オペレーション(Targeted Longer-Term Refinancing Operations:TLTRO)を実施した。これは、民間向け融資の拡大 に焦点を当てた資金供給策であり、ECBの資金にアクセスできるユーロ圏の全銀行を対象に 超低金利(政策金利+0.1%)で最長4年の資金を貸し出すという前述のLTROの派生形であ る。
図表 29 ユーロ圏消費者物価指数上昇率(前年比)の推移
(出所)Eurostat 公表データを基に筆者作成
(注)コアHICPはエネルギー、食品、アルコール、煙草を除く
しかしながら、ECBが追加的な金融緩和政策に踏み込む中でも、ユーロ圏の消費者物価上 昇率は低下傾向が続いていた。更に、原油価格の急落が一段の物価押し下げ要因となり、2014 年12月の消費者物価上昇率は前年比▲0.2%とついにマイナスの伸びとなり、2015年1月に は同▲0.6%と更に落ち込んだ。このままでは政策目標である「2%未満であるがその近辺
(below but close to 2%)」消費者物価上昇率」の達成がおぼつかないと判断したECBは、2015 年 1 月 に 国債 購 入 を含 む 公 的 セ クタ ー 債 券購 入 プ ロ グ ラム (Public Sector Purchase
Programme:PSPP)という本格的な量的緩和政策の導入を決定したのである。
その後は若干の持ち直しを見せるものの、それでも消費者物価上昇率は0%近傍で推移し、
今度は中国を始めとした新興国経済の減速と、それに伴う金融市場の急変による、物価や経 済見通しの下振れリスク高まりを受けて、2015年12月には追加緩和に踏み切った。この時、
政策決定と同時に発表されたインフレ見通しでは修正幅は概ね小幅なものに留まった。それ でもECBが追加緩和に踏み切ったのは、物価見通しの下方修正が続く中で、金融政策への信 認が低下し、消費者物価上昇率の低位安定が長期化してしまうことを懸念したからであると 考える。
そして翌年の3月には、更に大規模な追加緩和のパッケージを発表した。この時の中身は、
中央銀行預金金利の引き下げを含めた主要政策金利を揃って引き下げた伝統的な金利政策と、
-1.0 -0.5 0.0 0.5 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0 3.5
2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016
HICP コアHICP
(%)
34 証券購入の規模拡大、購入対象への社債組み入れ、TLTROの第二弾の開始といった量的緩和 政策や信用緩和政策の強化といった内容に特徴づけられる。このTLTRO2では、オペに参加 した銀行が企業向けの純貸出を増加させた場合、付加される金利は最低で▲0.4%(前回より も低く、中央銀行預金金利と同率)となる。即ち、ECBから借り入れを行った銀行は貸し出 し増によって、返済時には利ザヤ分の収益を確保できるというインセンティブが期待された 制度である。
この時、ECBの特徴的なコメントとして、「金融政策から非標準的な金利政策に軸足を移す」
「更なる利下げが必要とは想像していない」との内容が同時に発表された。これによって更 なるマイナス金利政策の深掘りについては否定した形となるが、銀行収益への悪影響や通貨 安競争の回避に向けた国際合意など、マイナス金利政策の副作用が市場に現出し始めたから こそのタイミングであったものと考える。
しかしながら、その後も金融政策変更の主目的である消費者物価上昇率については、一時 期のマイナス成長時と比較すると底をついた感はあるものの、2016年の数値については 0% 近傍で推移しており、マイナス金利政策を含めた伝統的な金利政策や、量的緩和政策及び信 用緩和政策の強化が、物価を押し上げることができているかどうかという観点から見ると、
厳しい状況である。
図表 30 欧州中央銀行:政策金利の推移及び主な金融政策 年月 政策金利の推移及び主な金融政策
2011年12月 期間3年の長期資金供給オペレーション(LTRO)として4,891億ユーロの 資金供給を実施
2012年2月 2回目のLTROとして、5,295億ユーロの資金供給を実施 2012年9月 南欧諸国向けの新たな国債買い入れプログラム(OMT)を導入
2014年6月 主要オペ金利を0.15%、中央銀行預金金利を▲0.1%へ引き下げ。マイナス 金利政策を開始
2014年9月 主要オペ金利を0.05%、中央銀行預金金利を▲0.2%へ引き下げ。貸出条件 付きの流動性供給オペレーション(TLTRO)を実施
2015年1月 国債購入を含む公的セクター債券購入プログラム(PSPP)を導入。量的緩 和政策を開始
2015年12月 中央銀行預金金利を▲0.3%へ引き下げ。資産購入プログラムの範囲に地方 債を追加
2016年3月 主要オペ金利を 0%、中央銀行預金金利を▲0.4%へ引き下げ。資産購入プ ログラムの月間購入額を 800 億ユーロへ拡大。企業セクター購入プログラ ム(CSPP)として、範囲に投資適格級のユーロ建て社債を追加。TLTRO2 を導入
(出所)European Central Bank プレスリリースを基に筆者作成