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東アジア企業の管理思想と管理実践

ドキュメント内 HOKUGA: 東アジア企業の管理思想 (ページ 33-49)

Ⅰ.中国人の管理哲学

同じ東アジアにおいて儒教文化、漢字文化、箸文化等々 の共通の土俵を共有しながらも、日本・韓国・中国・台 湾の企業の管理思想および管理実践には大きな差異があ る。職場環境ならびに労働意識―仕事に対する志向は、

共通点よりもむしろ相違点が多い。

日本企業が中国に本格的進出して以来 30年以上が経 過している。しかし、個々の中国企業の現場における現 地人との 意思疎通 および 従業員管理 は依然、ト ラブルが多発しており解決すべき課題が山積している。

中国の日系企業における紛争の原因は中国の職場環境、

中国人の性格、労働意識などを知らぬままに日本国内で 行われている 管理方法 をそのまま使用していること にあろう。中国では日本の管理方法をそのまま採用して も 全く 機能しない。日中両国の職場環境、労働意識 があまりにも異なるからである。

本論は、東アジア企業の管理思想とその実践を考察す ることを目的としていることから、本章では、その実践 的側面に焦点を当て、中国と日本の企業組織における組 織と個人、ならびに管理者と従業員の関係を検討する。

この検討を通じて、日本の管理思想および管理実践とは 異なる中国の管理方法を整理し、その幾つかの要因を列 挙する。そして中国の職場において一般的な中国人の自 己優先主義の原点、すなわち中国人の行動原理を解くカ ギを ウチ と ソト という二つの観点から解明した い 。

贈与社会はアジアだけでなく、イスラム世界やアフリカの多 くの国では伝統文化として生き付いてきたといえる。イスラ ムの贈与関係については、櫻井秀子 イスラム金融―贈与と 交換、その共存のシステムを解く 新評論、2008年を参照。

中国人の ウチとソト という二つの自己存在様式―意識構 造は人間間だけでなく、地域間にも根を張っている。中国で は日本で普通に想像される以上に、国内他地域への対抗意識 が強い。1990年代のインターネットが普及しはじめたころに 河南省の人間は信用できない 、 中国には悪人が多い。とり わけ集中しているのが河南だ 、 諸悪の根源は河南人 など 河南省出身者に対するネット上での〝袋叩き" が持ち上がっ た。中央政府・共産党も対策のため、 まったく根拠がない 、

同胞に対するいわれなき蔑視はやめよう などと呼びかけ た。

一方、ネットで、長期にわたり〝バッシング"の対象になっ ているのが上海人である。特に北京など中国北部地域での上 海人に対する警戒心は強い。港湾都市・商業都市としての上 海は 19世紀半ばに列強諸国に対して開放港とされたことで 誕生した。その後、20世紀前半には アジア最大の近代都市 としての地位を確立。国際的都市としての評価は東京よりも はるかに高かった。

だが、中国国内では評価・見方が違う。商業が発達し、 機 を見るに敏 という上海人気質は他地域の人の 上海人には、

いつも、してやられる との意識を生むことになった。上海 人に対する 敵視 は、 嫉妬 という側面が否定できない。

中国北部の人間は、広東人に対しても似たような敵意を向け

Ⅱ.東アジアの儒教文化と管理思想の関連

東アジアの文化圏とは、中国を中心として、その周辺 の朝鮮・日本・ベトナムなどを含む地域に形成された文 化圏を意味するが、一般的には漢字・儒教・律令制・仏 教の四つの文化要因を共通指標としている 。

漢字は中国で創作された文字であるが、これら周辺諸 民族に伝えられ意志伝達に用いられるとともに中国の思 想・学問の普及を可能にした。儒教は春秋時代に成立し 漢代に国教となって以来、歴代中国王朝の政治思想とし て機能するとともに周辺の朝鮮・日本にも伝えられ、そ れらの国々の政治思想あるいは社会倫理思想としての役 割を果たした。律令制は皇帝支配の体制を完備された法 体系で運用するという中国の政治体制だが、のちに朝 鮮・日本・ベトナムなどにも採用され、東アジアに共通 する政治体制となった。最後の仏教は、インドに生まれ たものであるが、そのうちの大乗仏教が中国を中心とし て二次的に展開され、中国化した仏教が朝鮮・日本・ベ トナム等に伝えられ東アジア仏教文化圏を形成し、建 築・絵画・彫刻などの仏教美術を伝えていった。

この東アジア文化圏は中国を中心として形成され、展 開された点に特色がある 。朝鮮・日本・ベトナムにおい てもそれぞれ独自の文化があり、それにもとづく歴史が 展開されたが、それらはいずれも中国文明の形成と展開 に深い関わりをもちながら行われており、このことを無 視してはそれを理解することは困難である。また、東ア ジア文化圏について共通指標をなす漢字・儒教・仏教な どの文化は、文化それ自体として独自にそれらの地域に 広がったものではない。中国王朝の直接的もしくは間接 的な支配、あるいは規制を媒介として初めて周辺諸民族 に伝播されたものである。

例えば、漢字の伝播一つとってみても、周辺の民族が 文字をもたなかったがために、漢字を知って意志伝達に 便利だからとして広がったことでは決してない 。漢字

は、アルファベッ卜と異なり特殊な音によって特殊なこ とばを表現する表意文字であり、言語体系をまったく異 にする周辺民族に広がっていくことはありえない。漢字 を周辺に広げたのは文字の力ではなく、漢字あるいはそ れで綴られた文章を用いざるをえない関係が、中国と周 辺諸地域との間に生じていたからにほかならない。

これが冊封関係といわれるものである。冊封とは周辺 諸国の首長・君主に中国皇帝が官爵を授けて王侯に封ず ることである。もともとは、中国の天子がその一族・功 臣を王・侯に封建することであったが、漢以後は国際関 係にも拡大され冊封された周辺国家の首長・君主たちは 中国皇帝と君臣関係を結んで中国王朝の従属国となっ た 。

中国文明の展開に伴って形成される東アジア世界は西 嶋定生に従えば、次の4段階を推移していった。その第 一は中国文明の展開が最初に激動期を迎えた春秋戦国時 代であり、冊封体制の原点たる封建制と華夷思想が成立 し、周辺地域が中国文明の影響を受けて未開から文明へ と移行し国家形成を始める。その第二は、これにつづく 秦・漢時代であり、中国の帝国が周辺地域を直接的に支 配下に編入するか、冊封関係においた。ここに東アジア 世界が初めて形成される。その後、魏晋・南北朝時代を へて隋・唐時代にいたって、冊封体制は一元化され中国 の制度文物がこれを媒介として伝播していった。東アジ アが政治的にも文化的にも一体になった時である。その 第三は、唐滅亡以後で東アジア世界が大きく変容を遂げ る。中国の王朝は冊封体制の宗主国ではなく、逆に周辺 諸国の遼や金に歳貢をおくり下位に立たされる。しかし 経済と文化の面では依然として東アジアの中心であっ た。しかも宋元時代をへて明清にいたると再び中国王朝 の政治的影響が強化され冊封体制が復活する。その第四 は 19世紀以後における東アジア世界の解体である。ヨー ロッパ資本主義の形成に伴う世界の一体化は、孤立した 東アジア世界を打ち破る。ここに東アジア世界は消滅し、

並存した諸文化圏は一つの世界に転化統合されたのであ る場合がある。

北部の人間の南部出身者に対する感情は漢族にかぎったわ けではなく、代表的な北方民族であるモンゴル族からも、 東 北地方や北京の人間は、比較的律儀で信用できる人が多い。

上海や広東の人間とビジネスをする場合には、よほど警戒し ないとひどい目にあう などの声の聞かれる場合がある。

西嶋定生 岩波講座世界歴史総説4 1996年。

西嶋定生は 東アジア世界 を特徴付けるものは漢字・儒教・

仏教・律令制の四者であるとし、これらの文化が伝播できた のも冊封体制がある程度の貢献をしていると見ている。

東アジア世界 の範囲は漢字文化圏にほぼ合致し、含まれ る国は現在の区分で言えば、中国・朝鮮・日本・ベトナムで あり、 東アジア世界 の中心にかけられる 網 が冊封体制 であるとしている。 西嶋定生東アジア史論集第三巻 を主点 として記述する。

漢字の特徴についてはラテン文字に代表されるアルファ

ベットが一つの音価を表記する音素文字であるのに対し、漢 字は基本的に、一つの意味(形態素)と一つの音節を表す。

1字が複数の字義をもっていたり、読みが変わって、複数の 字音をもっていたりする場合もある。造字構造について、漢 字は造字および運用の原理を表す六書(指事・象形・形声・

会意・転注・仮借)にもとづき、象形文字・指事文字・会意 文字・形声文字に分類される。漢字の 85%近くが形声文字と 言われている。

冊封体制という概念は西嶋定生が 六−八世紀の東アジア

(1962年)にて提唱した。単独の冊封を指したものではなく、

冊封によって作られる中国を中心とした国際関係秩序のこと である。このように当初は 東アジア世界 を説明するため のものであった冊封体制はその後、唐滅亡後にも拡大され、

清代のように明らかに東アジア世界と冊封体制の範囲とが異 なる時代にまで一定の言及をしている。

ドキュメント内 HOKUGA: 東アジア企業の管理思想 (ページ 33-49)

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