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本研究のフィールドについて(歴史ならびに文化・制度の規範)

本研究では、日本から中国に移住した日本人エクスパトリエイト(海外に越境するビジ ネスパーソンなど)のビジネス活動や生活の様相を探究する。Berry(1990,1997)のいう、

異 文 化 社 会 に お け る 、「 同 化 (Assimilation)」・「 分 離(Separate)」・「 軽 視 ・ 無 視 (Marginalisation)」・「統合(Integration)」の4つの態度の人々が発見されると考えられる。

日本での生活やビジネス経験で体得した「日本的な文化・規範(Japanese-ish)」が、異 文化の中国でのビジネス活動などで「中国的な文化・規範(Chinese-is)」な要素を受容し 同化していく人々もいる。逆に経営者として、中国人従業員に「日本的な文化・規範

(Japanese-ish)」を受容・同化させて、日本国内で提供する商品やサービスと同レベルの ものが提供できるように中国人従業員を指導・管理する目的で、中国に来た人々もいる。

こ う し た 観 察 ・ 分 析 作 業 を 第 5 章 以 降 で 論 述 す る 前 に 、「 日 本 的 な 文 化 ・ 規 範

(Japanese-ish)」と「中国的な文化・規範(Chinese-is)」がどのように認識されてきたの か、また過去に日本人が中国ビジネスにどのように進出していったのかなど、フィールド の歴史ならびに文化・制度について、他の研究者やビジネスパーソンたちの知見を、第 4 章で整理しておく。

4.1. 日本人の中国ビジネスの歴史

日本人ビジネスパーソンたちが、中国進出していった歴史を簡単に記す。

<改革開放後の中国市場>

1945年に大東亜戦争が終結し、1949年に新中国が建国された後には、東西冷戦の構造も あり、日本と中国の経済交流は断絶した。1962年からのLT貿易の開始や、1972年の日中 共同声明による「パンダ外交」などで両国の人々の交流再開の機運が高まりつつあったが、

日本人の中国への国際移住者が多数出現したという状況には至らなかった。

1978年の鄧小平政権の改革開放により、ようやく本格的に、日系企業が中国進出を開始 しはじめた。そして、多くの日本人エクスパトリエイトが、中国に国際移住し始めた(第 一次中国進出ブーム)。

鄧小平政権に入り、それまでの中央集権・管理の「計画経済」から「市場主義経済」へ と経済政策の方針が反転し、個々人や郷鎮村落に対する「生産責任制(家族営農請負制)」 が敷かれるようになった。これにより、明治期の日本やヨーロッパでおこったような急速 な土地の流動化(Mobilization)が興り、農業生産性の低かった農地は、より生産性が上がる 工場に転換され、中国全土に多数の郷鎮企業が興った。また、沿海部の産業化が進んでい る都市部に人々が「盲流(盲目的に都市へ流れ込む)」するという、労働者の流動化 (Mobilization)がすさまじい勢いで興った61

しかし、改革開放まで鎖国状態であり、中央管理の計画経済であった、中国の産業界に は、西側市場が求めるような、外貨を稼げる製品の製造をする為の産業技術がない。13 億 人の労働者がいるともいえる中国であるが、その労働者に上手に生産力を上げる経営管理 や技術指導ができる組織や人財がいない。積極的な外資企業の誘致が行なわれた。そして 中国企業と外資企業の合作や合資企業が多数生まれた。

1989年の天安門事件で、中国進出ブームは水を差されたが、1992年の鄧小平の「南巡講 話」で、ものすごい勢いで日本企業が中国進出をするようになる(第二次中国進出ブーム)。

61 中国の「計画経済」から「市場主義経済」の移行経済は、丸川知雄(1999)、杉田俊明(2002)、関志雄(2013)、林毅夫(2012)、

中兼和津次(2012)、加藤弘之・上原一慶(2011)、溝口雄三(2004)、Sklair(1995)、McMillan(2007:195-301)が詳しい。

折しも日本のバブル経済崩壊、急激な円高に悲鳴を上げていた日本の製造業が、労働コス トの安い中国にラッシュし始めた(次の図表4-1を参照)。

広東省・深センは産業開発の実験都市になり、「来料加工」のタックス・ヘブン法などが 制定され、「中国式マジック」が日系企業ならびに他国の企業を魅了した。

「先進国のみなさん、設備機械を持ってきてください。こちらは土地・建物、安い労働 力を提供します。関税や法人税の面でも、みなさんをできる限り優遇します」(増田,2013:34)

という来料加工の制度などによって、中国内資企業よりも外資企業の方を優遇するともと らえれらるグローバルな経済戦略が図られた62

図表4-1 日本企業の中国進出形態の推移63

図表4-2 人民元/円の為替レートの推移64

62 増田辰弘(2013:33-36)に、香港と広東省をまたがる「来料加工」ビジネスモデルの現場状況を生々しく描いている。

63 図表4-1は、「21世紀中国総研」のサイト、「中国の外資受け入れ状況と日本企業の進出」(稲垣清:2004)より引用。

2000年までは、独資よりも合弁企業が多い。

http://www.21ccs.jp/kenkyu_seika/shinshutsu_kigyou/kaisetu_inagaki.pdf (2014613日アクセス)

64 図表4-2は、「世界経済のネタ帳」の「人民元/円の為替レートの推移」より引用。1981年頃には、「1元=150円」く らいであったのが、1986年には50円、1994年頃には15円以下に下がっている。

http://ecodb.net/exec/trans_country.php?type=WEO&d=ngdpd&g=XE (2014613日アクセス)

なお、上記は「人民元/円」の対比であるが、「農林中金総合研究所」のサイトの、「新興国ウオッチ!<第9回>」に は、「人民元/米ドル」の対比が示されていた。いずれにせよ、中国は人民元の価値を1980年から1994年にかけて10 分の1の価値に政策的に落としているのが見て取れる。

1980年代半ばから始まった急激な円高に苦しんていた日本の製造業者は、労働コストの 安い中国に越境する。そこには農村から「盲流(盲目的に都市へ流れ込む)」する大量の労 働者が溢れている。毛沢東レジームから鄧小平レジームのパラダイム・シフトの中で、貪 欲に働く安い労働者を雇い入れても、中国政府の為替政策(上の図表4-2を参照)で、日本 円換算で「100 円だった賃金」がいつの間にか「10 円の賃金」に低下するという、まさに 製造業者にとって天国のような環境を中国は与えてくれた。

図表4-3 中国GDPと成長率推移65 こうした劇的なパラダイム・シフト(毛沢東レジームか

ら鄧小平レジームへの移行に伴う、経済政策、貿易政策、

それに伴う労働法やビジネス法の制定や改正など)を通じ て、2001 年に中国はWTOに正式加盟、2008 年の北京オ リンピックと 2010 年の上海国際万国博覧会の開催が決定 されていく。ますます西側諸国との貿易や交流が深まり、

経済成長が加速、鄧小平の「先富論」(可能な者から先に裕 福になれ。そして落伍した者を助けよ)の改革開放しそう に基づいて富裕層ならびに新中間層の人口が急激に増加し、

中国は「世界の工場」から「世界の市場」と呼ばれるよう になった。新中間層の人口は2009年には5.5億人を超え、

自動車(新車)販売台数も2009年より米国を追い抜き世界一 となった66。中国の著しい経済成長の推移が、図表4-3から 見て取れる。

図表4-4各国の外国人旅行者受入数(2012年上位 40 位 単位:百万人)67

なお、中国には中国人だけでなく、

ビジネス活動や生活をしている外国人 が急速に増えている。図表 4-4で中国 (2012年)は世界第3位で5770万人の 外国人が中国に来ている様相がみられ、

このままいけば米国を超えるのも遠く ないと考えられる。そのほとんどが上 海や北京といった国際都市に集中して いるとみられる。モノやサービスを提 供するビジネスパーソンにとって、外 国人のカテゴリーへのビジネスも大き なものと捉えられる。

この 5770 万人の中には、駐在派遣 者や自発的移住をして経済活動をする ビジネスパーソン(エキスパトリエイ

65 図表4-3は、朝日新聞デジタルサイト、http://www.asahi.com/articles/ASG1N3QXKG1NULFA005.html (2014120日の記事)を引用。

66 中国の新中間層の人口は、イオン銀行のサイトを参照。データは日本経済産業省「通商白書2009」よりとある。

http://www.aeonbank.co.jp/investment/special/2011_0705/02.html (2014611日アクセス)

新車販売台数は、時事ドットコムを参照。2013年では、中国2098万台に対し、米国1560万台、日本537万台と、新 車販売の市場規模は世界ダントツであり、日本の約4倍の市場に成長している。

http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_int_china-car-newsales (2014613日アクセス)

67 図表4-4は日本政府観光局作成。日本は8,358人で33位。中国を訪れる外国人と比べると7分の1の規模。

http://www.jata-net.or.jp/data/stats/2014/11.htmlから引用。(2014613日アクセス)

ト)がいる。「世界の市場」となった中国の新中間層や、中国に滞在するビジネスパーソン やその家族、短期旅行者などに商品やサービスを提供するビジネスが求められる。

図表4-5 日系企業の海外派遣者数の推移68 図表4-5のグラフは、北米・西

欧・アジアと区分して駐在派遣者 の推移を示しているものである。

欧米駐在が 21 世紀に入ってから 減少する中で、アジア駐在者が急 増して全体合計も押し上げている のがわかる。2010年時点でアジア への派遣者数は13万6705人(全

体の 59%)であり、そのうちの

53%の7万2186 人が中国駐在派 遣者で、およそ海外駐在者の3分 の1(32%)が中国駐在である69

つまり、欧米諸国への合計駐在 派遣者数と同規模の駐在派遣者が、

中国一国に派遣されているという ことである。

なお、上述の駐在派遣者は長期滞在者であり、短期ビザなどで頻繁に日本と中国を行き 交うビジネスパーソン(エクスパトリエイト)は含まれていない。こうした人々の数は、

相当なものになると考えられる。

<働く人々の就業意識>

中国進出した日系企業には、たくさんの”女工さん”ら工場労働者が働く。こうした「世界 の工場」や「世界の市場」と呼ばれる中で、働く人々の就業意識はどのようなものであっ たのだろうか。いくつかの文献から、“女工さん”たちの就業意識が垣間見れるものがある。

Fong(2004)は、沿海部大都市の100世帯以上に参与観察とインタビューを試み、高校生

の子どもを抱える母親の気持ちを描いている70

この中から、文化大革命の時代では「一生懸命に働けば、右派(資本主義者)とラベルを貼 られ恐ろしい目にあった就業者」の意識が発見できる。改革開放後は「働いたら賃金がた くさん入るし、出世もする。出世したらもっと賃金が入る」という意識が芽生えてくる人々 が出始めた。就業意識が変わらなかった人たちも「稼いだお金で、子どもに高等教育を受 けさせる職場仲間」を見て、「自分も子どもにいい教育を受けさせて、将来は出世してもら えれば、自分たちが年老いても不安がなくなる」という意識に追い込まれていく様相が描 かれている。

おそらく 1990 年代には、「右派と呼ばれたくない就業意識。一生懸命に働くのが怖い意 識」をまだ持ち続けている人々と、急激な時代変化と社会規範変化の不安の中で「お金が ほしい。節約してお金を貯めて、子どもにいい教育を受けさせるんだ」と、無我夢中に稼

68 図は、白木三秀(2012)「日本企業のグローバリゼーションと海外派遣者」(日本労働研究雑誌No623:pp.5-16)を引用。

69 白木三秀(2012)「日本企業のグローバリゼーションと海外派遣者」(日本労働研究雑誌No623:pp.5-16)を要約引用。

70 Fongは文化人類学者であるが、中国に移住して高校の英語教師と家庭教師をしていた。そうしたフィールドワーク の中で得た、中国人の母親たちの歴史や将来の不安、そして子どもたちが感じている親からのきついプレッシャーや反 駁、子どもたち本人のキャリアに対する希望などを、この『Only Hope』に描いている。

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